漢の韓信

 項羽はついに関中へ達し、天下に覇を唱えた。しかし韓信はこのとき、楚軍の中での自分の存在に必要性を感じなくなり、漢に出奔する。彼は自分の可能性にかけた。

 だが、彼も人の子であった。自らの判断の正しさに確信が持てなかった彼は、漢軍内においても自身の必要性を感じることができずに、無為な日々を過ごすのであった。

 しかし、それでもなお眼力のある人々は、彼の中に大きな輝きを見出したのである。まったく、人を導くのはやはり人であるということを示すよい事例だと言えよう。


 一


 鴻門での会見の結果を受けて、項羽は咸陽への入城を開始した。

 総勢四十万の項羽率いる楚軍が、雪崩を打ったように関中へ侵入し、先々の都市を飲み込んでいく。沛公軍の面々は、少し離れた覇上という地からその様子を眺めることしかできなかった。


 項羽の征服の仕方は凄まじく、有益なものはすべて接収と称して略奪し、そして取りあげるものがなくなると、都市ごと火をつけて焼き払った。

 秦の民衆はこれに失望したが、やはりできることは何もなかった。

 やがて咸陽に到達した項羽は、士卒たちが財物を漁り、宮女を追いかけ回すのを止めようともせず、なすがままに任せた。かつての帝都は、欲望を抑えることのない人の姿をした鬼によって支配される現世の地獄と化した。

 この略奪、蹂躙こそが勝利の証であった。敗者には何もくれてやらない。温情を施しでもしたら、のちのち彼らは叛逆する。情けは無用、徹底的に破壊し尽くし、人民どもを屈服させることが重要なのである。

 これが戦国時代の論理であった。項羽はこの論理に基づいて忠実に行動し、まず始めに秦王子嬰を有無を言わさず殺すと、広大な咸陽宮および阿房宮から金銀財物を奪った。奪い尽くすとこれに火を放ち、後々の利用価値など考えず、残さず焼き尽くした。

 火は大火となって燃え広がり、あえて消火しようとする者もいなかったのでその後三か月に渡り燃え続けたのだった。


 ――残さず焼き尽くすくらいなら、沛公にくれてやってもよかったのではないか……。

 韓信は眼前の炎を眺めながら、そんなことを思う。

 ――どだい項羽の目的は、秦を自分の手で滅ぼすという名誉欲しかない。次の世をどう築いていくか、などという考えはまるでないのだ。


 関中は峻厳な山々に囲まれ、守りやすい。そのうえ中原を見下ろす高台に位置しており、攻めやすい。当時の中国大陸の中心から大きく西に偏った位置にありながら、秦が天下統一を果たし得た要因として、その地理的優位を除外することは不可能である。

 ――項羽は、それをわかっていない。この地を抑えずして、どうやって天下を望むことができよう。天下を望みながら、その方法を知らぬ、ということだ。


 韓信が楚を見限ろうと決心したのは、あの日鴻門で樊噲の姿を見たときがきっかけになっている。主君のためにあれほどの気迫をもって突入をはかった樊噲の姿……。

 ――あれほどの忠臣は見たことがない。私もあの武人のように誰かを守ろうとして戦いたいものだ。もしかすれば沛公とは私をそのような気にさせてくれる存在なのだろうか……。


 すくなくとも項羽は、そのような存在ではなかった。

 項羽は自分の身は自分で守れるからである。よって彼は第三者の意見を、あまり聞かない。守る価値がないというよりは、その必要がないのである。


 ――関中がどれほど重要か説いたところで、項羽は聞く耳を持つまい。すでに咸陽が焦土となった今となっては、もはや説いても無意味なことではあるが……。

 そう思い、韓信は陣中を去り、楚軍を見限った。

 しかし士卒たちはみな略奪に我を忘れ、軍隊らしい規律など無きに等しい状態であったので、韓信の逐電に気付いた者は誰もいない。



 燃え盛る炎の熱が、わずかな地上の水分を蒸発させ、それが上昇気流に乗って空に蓄えられた。やがてそれが限界を超えると、蒸発した水分は再び液体となり、雨となって咸陽に降り注いだ。

 乾いた黄土が雨に塗れ、色の濃さを増していく。しかし、それでも咸陽の炎は消えることがなかった。

 消えない炎は、あたかも人間の行為の罪深さを象徴しているかのように思え、韓信は逃げ出したくなる。しかしどうにかそんな感情を抑え、目の前の現実を受け止めようと、彼は心の中でもがいた。


 韓信自身は知る由もなかったが、そのときの感情は、韓信の父が城父の戦場で無数に横たわる兵たちの死体を目の当たりにしたときの感情と似ていた。

 ――雨にも消えない炎は、ここに暮らしてきた人間たちの怨念であろうか。

 たとえそうだとしても、韓信にはどうすることもできない。彼はそれらの怨念を静める術さえも知らなかった。


 圧倒的な無力感にさいなまれながら、韓信は咸陽をあとにし、劉邦のもと、覇上にむけて歩を進めた。


 二


 関中に都を置くことが覇者の条件のひとつである、という意見はいわば定説で、韓信のみならず、項羽の周囲にもそれを主張する者は当時多数存在した。

 しかし、項羽は自ら焼き尽くした土地に未練はなかった。劉邦を押しのけてまで関中に乗り込んだのは、関中王になりたいがためではなく、秦の歴史に終止符を打つのが、他ならぬ自分でありたいがためであった。

 ――咸陽は秦人の都だ。この項羽は楚人である。楚人たる項羽が秦を滅ぼしたのに、なんで秦の土地に住まわなければならないのか。


 項羽は楚に都を置きたかった。それをあらわした項羽自身の言葉がある。

「富貴の身となって故郷に帰らないというのは、錦の衣を着て夜歩くようなものだ。誰にも見てもらえない」

 この言葉が派生して「故郷に錦を飾る」という言葉が生まれた。


 しかし、これは項羽の単なる希望というもので、政治的判断に基づいたものではない。付き合わされる者にとっては、たまったものではなかった。

 そこである者が項羽を評して、笑い者にした。

「世の人々は、楚人は猿が衣冠を付けているようなものだと言うが、なるほどその通りよ」


 項羽は逆上し、その男を処刑した。

 軍卒の見ている前で大釜を用意して湯を沸かし、その湯の中に男をぶち込んだのである。

「煮ろ」

 自尊心を傷つけられた項羽の下した命令は、短く、残酷なものだった。


 しかしその男は煮られながらも項羽を罵ることをやめず、皮や肉が溶け始めても激痛に耐えて項羽をあざ笑い続けた。

 やがてその声が消えたころには、男の肉はなかば溶解し、釜の中には人肉の煮込み汁が残った。

 これ以来軍卒は項羽を恐れ、その意見に反対する者はいなくなった。


 もはや懐王でさえも項羽を掣肘する存在ではない。懐王は当初の命令どおり関中に一番乗りを果たした劉邦を関中王にするよう項羽に命じたが、項羽はこれを聞かず、独自の判断で諸国を分割し、それぞれに王を称させた。

 王が王を任命するのは過去に例がなかったわけではないが、明らかに自然ではない。このため項羽は懐王に「義帝」と称させ、王の上にたつ地位を与えた。

 しかし項羽は、義帝の命令を聞かず、名だけを借りて論功行賞を行ったのである。


 この結果、項羽は西楚王を称し、九つの郡を治める覇王となった。

 覇王とは王の中の第一人者と言うべき存在で、「王の中の王」とでも解釈すればいいだろう。以後、項羽は一般に項王と呼ばれるようになる。


 斉は三分され、それぞれに王が置かれたが、宰相田栄は日頃楚に非協力的だったため、なんの沙汰も与えられなかった。無官となったのである。よって田栄は項羽を恨んだ。


 趙では項羽とともに関中入りを果たした張耳が王に任命された。

 もともとの趙王である歇はだい郡に追われ、そこの王とされた。

 いっぽう張耳と仲違いした陳余は項羽と行動をともにしなかったので、王にはなれなかった。

 陳余は項羽を恨み、張耳をも憎んだ。


 韓は領地は据え置かれたものの、王の韓成は実際に領地に赴くことは禁じられ、そのまま項羽の監視のもとに置かれた。韓成は張良が擁立した王だったので、項羽や范増が警戒を解かなかったのである。


 関中は三分され、章邯、司馬欣、董翳の三名がそれぞれの王となった。

 秦の地は秦人に治めさせるのがよかろう、という判断である。

 しかし新安の大虐殺に生き残った彼らは、生き残ったこと自体が秦兵の遺族たちの恨みを買うこととなり、人民は彼らになつかなかった。


 劉邦には漢中の地が与えられた。

 奥地である。

 別名巴蜀はしょくともいわれるその地には、そびえ立つ山々が影をなして、日光のさす余地もないと言われていた。

 ――もともと秦の支配地であるから、関中だと言えなくもない。

 などと言われ、体よく辺境へ追いやられた形となったが、鴻門の一件以来、劉邦は項羽を恐れ、「山奥でひからびて死ね」という命令にも背くことはなかった。


 韓信が劉邦のもとへ参じたのは、ちょうどそのころであった。


 三


 剣を杖がわりに地に突きたて、威風堂々、韓信は劉邦軍に身を預けた。


 韓信は人に会う度に持論を展開し、自分を売り込もうとはかったが、しかし、応対した下級士官の中には韓信のいうことを理解できる者はおらず、いくら項羽の弱点や戦略的構想を話して聞かせてもまったく話が進展しなかった。

 さらには韓信自身が一兵も指揮したことがないことで、最初から軽く見られたということもあるだろう。

 結局彼に用意されたのは連敖れんごうという貴人の接待係の地位に過ぎなかった。

 ――栽荘先生、私はここでも浮かばれないかもしれません。私は、郎中や連敖などの地位が欲しくて乱世に身を投じたのではありません……先生、私はどうすれば世に出ることができるのでしょうか……。


 韓信の落胆は激しく、そのため気力も萎え、次第に捨て鉢な気分になっていった。

 しかし、それは韓信に限ったことではない。この時期、劉邦軍全体が士気の低下に悩んでいた。事実上の都落ちとして山奥の巴蜀へ赴かねばならない立場の軍としては仕方のないことだったろう。


 ちなみに「巴」、「蜀」はともに独立した地名である。巴は現在の四川省重慶の周辺、蜀は成都の周辺にあたる。現在でこそ大都会の両都市ではあるが、紀元前のこの時代では、開発などは進んでおらず、おもに流刑地として使用されることが多かったのである。

 咸陽から巴蜀に至る途中の漢中もまた地域名であり、南鄭なんていという城市がその中心であった。南鄭は周代より開発された歴史の古い都市であり、秦の代になってれっきとした漢中郡の郡都とされた。

 しかし咸陽から南鄭への道は山や川に遮られ、人がひとり通れるような桟道しか設けられていない。桟道は断崖に宙ぶらりんに設置され、場所によっては人がカニのように横歩きしないと通れないところも多い。また、高所に築かれた桟道から下を臨めば、生きた心地もしないものであった。


 劉邦に与えられた土地は、そんな所であった。しかし情勢を考えれば、嫌だと言って関中に留まることなど許されず、受け入れるしかない。

 劉邦は前途の多難さを覚悟しつつ、漢中行きを決めた。これにより、劉邦は今後漢王と称されることになる。

 これが紀元前二〇六年のことであり、この年が漢の元年とされた。


 桟道には馬や車を通す余地はない。漢王麾下の三万の兵士たちはいずれも徒歩で荷物を背に負い、不安定な桟道を風に煽られながら通るしかなかった。

 何人もの兵士が無惨にも谷底へ落ちてく。無駄死に、というよりほかなく、自然、逃亡する者が相次いだ。軍全体にやりきれない諦めの気持ちが充満し、ささくれができ始めた感情は互いに衝突した。

 こうして軍内は些細なことで揉め事が多くなったのである。


 ある日、韓信と同じ連隊に所属する兵のひとりが、普段からそりの合わなかった上官を故意に谷底へ突き落とした。新参者だった韓信は事情をよく知らされていなかったが、その上官は常々部下の兵士に対する態度が傲慢で、目に余るものだったらしい。手を下した者はひとりであったが、実際は連隊内の総意であった。

 そこで兵士たちは犯人をかばい、詰問されても容易に口を割ろうとはしなかった。

 事態を重く見た幹部たちによって処断が下され、韓信の所属するその連隊は全員斬首刑に処されることが決まった。連座制を適用されたのである。


 一同は急場作りの刑場に引きずり出され、順番に首を刎ねられていく。処刑の立会人として、夏侯嬰がその場にいたのを韓信は認めた。

 すでに十三名の仲間の首が斬られ、次に自分の番を迎えた韓信は、我慢できずに、低い声ではあるが、しかし力強く訴えた。

「……主上(漢王、すなわち劉邦のこと)は、天下を望まないのか。大業を成就させたいと思うのであれば、いたずらに壮士を殺すはずがなかろう。しかし主上が天下を望まず、この地でその生涯を終えるおつもりであれば、斬られても仕方あるまい」


 その声が夏侯嬰の耳に入った。

 軍が順風満帆なときは、気にも留めなかったかもしれない。しかし士気が衰えているときは、このような生意気な意見も力強く感じられた。

 夏侯嬰は興味を示し、処刑人をとどめ、韓信の前に立った。


「……お前、よく見るといい面構えをしているな」

 韓信はしかしなにも答えない。

 夏侯嬰はしばし考え、やがて得心したように頷くと、周囲に向かって命令した。

「この者を釈放せよ!」


 四


 韓信にとって夏侯嬰などは、話の相手にもならない。頭の作りが違うようであった。しかし内心でそう思っていても、態度には示さない韓信である。生涯御者として馬と劉邦の世話をして過ごしてきた夏侯嬰に対し、韓信は粘り強く、相手が理解できるまで自分の考えを聞かせてやった。


「項王の頭の中は、時代を逆戻りさせることで満ちています。彼にとって秦を滅ぼすという行為は、新しい時代を作り出すことではなく、自分が秦の皇帝になりかわることでしかありません。力によって天下の覇者として君臨し、恐怖と圧力によって世を治めることこそが、平和への唯一の方法だと考えているのです。しかし、本当にこれが唯一の方法なのでしょうか。恐怖による統制が効果をあげるのは、ほんの一時に過ぎません。人々は、虐げられた過去の思いを忘れることが出来ずに恨みを持ち、その中の一部の気概ある者たちは、実際に恨みをはらそうようとするでしょう。そして、また新たな対立が生まれるのです。結局、この世界は戦国の世に戻ってしまいます。項王はそのことに気付いていないどころか、世の人々が自分と同じように考えないことを、理解できないでいる節があるのです。項王が天下を定めれば、戦いは止む。しかし、それは次の戦いの始まりでしかないのです」


 夏侯嬰には、韓信の言うことの半分も理解できなかったが、それでも自分と頭の作りが違うことだけは理解できた。

 ――新しい時代とは何のことだろう。……しかし面構えばかりではなく、なかなか頭のほうも切れる奴だ。

 夏侯嬰はそう思い、漢王劉邦に韓信を取り立ててやるよう奏上した。推挙したのである。


 この結果、韓信は治粟都慰ちぞくといという軍糧や財貨を管理する官に任じられた。

 ――ああ、先生、やはり駄目だ! 世の中には私という者を正しく見極めてくれる者がいないようです。この私が治粟都慰などと……。料簡違いも甚だしいとは思いませんか。ただでさえ惜しい命を捨てる覚悟をしてまで乱世に身を投げ出したのに、財物の管理をせよ、などとは……。食料や金の管理がしたいのなら最初から商人になっていますし、兵の中にはその能力に長けた者もいるでしょう。なぜ私が……。

 韓信の不満は爆発寸前のところまで来ていた。


 軍糧や財貨の管理の仕事は、いわゆる後方職務である。劉邦の軍のなかで、この職の最高責任者に当たる人物は、蕭何であった。漢軍の最重要人物のひとりである。

 劉邦は平民として生まれ、若いころは家業の手伝いもせず、沛の街をぶらついて歩く単なるごろつきであったが、劉邦の王としての性質をいち早く見出し、ここまでもり立ててきたのが、蕭何その人であった。

 蕭何はもともと沛の県吏であり、謹直な人柄と職務に忠実なことで、人々の信頼を得ていた。あるときには県令から中央の役人に推薦されたこともあるくらいである。

 また、沛の街が戦乱に巻き込まれようとしたとき、民衆の中には劉邦ではなく蕭何を首領として戴こうと主張した者もあった。

 しかし蕭何はそのいずれも固辞し、劉邦を影で支え続けた。咸陽が落城した際、他の者が宮中の財宝に目を奪われる中、ひとり法典や史書を確保しに走ったという事実は、彼の謹直さを物語ると同時に、将来の漢の世を見据えた行動であった、といえるだろう。


 ――しかし、蕭何は文官ではないか。私は武官として身をたてたいのだ。

 韓信の辛気くさい表情が、さらに鬱屈したものに変わっていった。


 しかし、それを気に留めたものは少ない。士気の低下した軍組織の中では、誰もが自分自身のことしか目に入らず、他人に気を配る余裕を持つものなどほとんどいなかった。

 だが万事に気配りの利く蕭何だけは違った。蕭何は顔色まで青ざめて見える韓信の姿を目に留めて、ひどく気にかけるようになった。


 ――見るからに悩める青年がいる。あれはなんという者か。

 心配するのと同時に興味を覚えた蕭何は、ある夜韓信を呼び寄せ、話し相手をさせた。


「君の顔色を見るに、ずいぶんと悩んでいる相が出ている。その様子では、桟道の上から身を投げかねないぞ……。思っていることがあるのなら、今のうちに話してみるがいい。わしが君の力になれるかどうかはわからぬが、人というものは思いを言葉にするだけでも胸のつかえがとれるようにできているものだ。どれ、聞いてやろう。なにが悩みだ?」


 このときの韓信の言葉は、短い。馴れない者に対しては、いつもそうである。

「自らの不遇についてです」

 蕭何は笑ったりせず、話に付き合う。

「不遇とは……? もっと具体的に話したまえ」

「私は楚から漢に鞍替えした男です。もともと楚軍では郎中に過ぎませんでした。漢軍に身を置いてからは連敖、今に至っては治粟都尉。どれも私にとって適職ではありません。鞍替えした意味がない」

「君がどんな男かわからないのだから、仕方ないだろう。人はみな経験を積んで一人前の男になっていくものだ。その過程で自分自身を知り、どのような職務が自分に合っているのか見つけるものだろう。君はまだ若いわけだし、これからの働き次第では出世も夢ではない」

「それは、わかっています。しかし悠長にそのような機会を待っているわけにはいきません。天下の状況は刻々と変化し、対応を誤れば、置き去りにされます。座して機会を待つわけにはまいりません。私は早く天下のために働きたいのです」


 韓信は、言いながら、かつて栽荘先生に叱責されたことを思い出した。

「座して機会を待つばかりでは、何も変えることはできない」

 それが栽荘先生の言葉だったが、いざ自分が待つことをやめて積極的になろうと思っても、結局は何も変わっていない、というのが現状である。


 そして蕭何が受けた韓信の印象は、生き急いでいる若者、といったものだった。

 しかし言っていることは正しい。漢軍は天下の中心から外れ始めており、このままいけば漢王は奥地に閉じ込められ、兵たちは離散し、天下は項羽のもとに定まる。その点は韓信の言う通りだった。

「治粟都尉として働くことも、決して天下のためにならないとは言えないと思うが……。よろしい。君にひとつ機会を与えよう。天下のために先頭にたって働くような男であれば、治粟都尉の仕事も楽にこなせるはずだ。その結果をもってわしが君を漢王に推挙する判断基準とする。よいか」

 韓信は仕方ないとでも言いたそうな素振りを見せて、渋々頷いた。

「そう面倒くさそうな顔をするな。君がどんな男かわしは知らぬ。知る機会を与えてくれてもよいではないか」

「……何をすれば、よいのでしょうか」

「我が軍は今、軍糧に不安がある。というのも逃亡する兵士が多く、その者どもがどさくさにまぎれて軍糧を持ち去っているらしいのだ。方法は問わぬ。南鄭に到着するまでの間の軍糧を確保し、守り通すのだ。それができたら、漢王に推挙しよう」

「……はぁ、わかりました」


 韓信の返事は気のないものだった。


 五


 桟道は非常に幅が狭く、各兵は徒歩でこれを渡るしかなかった。

 荷車も使えないし、馬や牛も桟道を通ることができなかった。このため確保している軍糧を各人が担いだり、背に負ったり、あるいは手に持って歩かねばならない。

 これは大変な重労働であったことは確かだが、逃亡を考えている者にとっては逆に都合がよかった。自分が手にしている軍糧が逃亡中の腹を満たしてくれることになるからである。

 が、だからといって持たせないわけにもいかず、これをいいことに逃亡者が相次ぎ、その度に軍糧が目減りしていくのだった。


 蕭何からこの問題の解決を命じられた韓信は、翌日の朝には蕭何に策を示した。

「何? 桟道を焼く、だと!……それは軍師の張良が主張していたことと同じだ」

 驚いた蕭何は目を丸くした。

「そうですか。一晩考えてやっと出した結論だったのですが……すでに考えられていたこととは、世の中には頭のいい人もいるということですね」

 韓信は少し残念そうな顔をした。


「しかし、案を出した張良は韓に戻っていて、この場にはいない。漢王は張良がいないことで先が読めず、実施をためらっておるのだ」

 蕭何には目の前の男が策士と呼び声の高い張良と同じ意見を主張するのが興味深く感じられた。もしかしたら、この男も策士かもしれない。

「詳しく話せ」

「……軍糧を守るためには、兵卒に軍糧を持たせないことが最善ですが、現状を考えると、そういうわけにはいきません。また、信頼できる者だけに軍糧を運ばせるわけにもいかず、どうあっても軍糧はすべての兵が運ばねばならない。では、兵が逃亡できないようにすればいい、と思ったまでのことです」


 蕭何は聞く。

「しかし、それでは我々は本当に巴蜀の山々に閉じ込められる形になってしまうぞ。お前は天下のために働きたい、と言った。桟道を焼いてしまっては天下への道が閉ざされてしまう」


 韓信の表情が、明るくなった。ここ最近では珍しいことである。

「桟道を焼く目的は、実は二つあります。ひとつは兵の逃亡の意思をくじくため、もうひとつは項王や関中の三王(章邯、司馬欣、董翳)に、我々に再び関中を目指す意志がないことを示すためです。桟道が焼かれたとあっては、彼らは安心するに違いありません。そこに油断が生まれます」


 蕭何はため息をついた。

「それこそ張良が主張していたことと同じだ……。しかし、焼いてしまったあとのことは考えているのだろうな。わしとしては漢軍がこのまま巴蜀にとどまることを良しとしているわけではない」

 韓信は力を込めて話した。

「もちろん、反転はします。あくまで、私の腹づもりですが。桟道が焼かれたとしても、山脈を迂回する麓の古道があります。そこを使えば咸陽まで旅程は数十倍かかりますが、馬や車も使える。反転するにあたって大々的に桟道の修復を宣言すれば、敵の目はそちらに注がれましょう。その間に本隊は古道を使って咸陽にひそかに侵入する……大雑把ではありますが、これが私の戦略案です」


 お前に戦略を考えろと言った覚えはない、と蕭何は思ったが、

 ――これ以上ない、妙案ではないか。

 と認めざるを得なかった。蕭何は劉邦に奏上し、桟道の焼却の裁可をもらうことにした。


「それと、もうひとつ、気がかりなことがあるのですが……」

 韓信は表情に懸念を浮かべながら、もうひと言付け加えた。

「なんだ」

「軍中に見覚えのある顔がいます。注意しておきたいのですが……」

「好きにするがいい」

 このとき蕭何は、韓信が自分の昔なじみが軍中にいるので、親交を深めたいと言っていると思ったに過ぎなかった。


 韓信は行軍の最後尾に位置し、兵たちが全員桟道のある一定の地点まで渡り終えるつど、それを焼き続けた。寸断するだけでことは足りるが、すべて焼いたのは心理的な効果を狙ったものである。

 そしてこれにより夜陰に紛れて桟道を逆行して逃亡をはかろうとする者はいなくなった。自然、軍糧も確保される。

 韓信は蕭何に対しては株を上げたが、その反面、逃亡を画策していた兵からは恨まれることとなった。


 そして兵たちの韓信を恨む感情が頂点に達したとき、韓信は彼らを前に言葉を発した。

「桟道を焼いたのは、漢王の命により、侵入者を拒むためのものである。漢王は項王に厚遇されているとはいえず、いつ刺客を送り込まれても不思議ではない。お前たちが、漢王の生命より自分の生命が大事だといって逃亡をはかるのならば、それもよし。そのような者は我が軍には不必要である。ただし、逃げるのであれば軍糧は置いて、身ひとつで逃げ出すのだ。軍糧は必要である」


 兵たちは、この言葉を疑った。人がひとり通れるような桟道の中にあとから刺客が紛れ込むのは不可能だ、と思ったからである。そもそも焼いたあとに逃げてもいいなどと言われても、今さら逃げようもない。

 兵たちは韓信を小馬鹿にした態度をとった。

 しかし韓信はそれに動じず、言葉を継いだ。

「刺客は我々が咸陽を発つときから、すでに潜入している。その者は、今この中にいるのだ!」


 韓信の視線はある男の面上に注がれていた。

 兵たちの視線もその男に集中した。

「……お前は楚軍にいた男だな。范増の配下にいたことを私は覚えている。お前ひとりか? それとも仲間がいるのか? 言え!」

 韓信はその長剣を抜き、せまった。

 しかし男は押し黙り、何も答えない。

 やがて男の顔に脂汗が浮かび始めた。すると兵たちが韓信に同調して、その男を取り囲み、無言の圧力を加え始めた。


 圧迫に耐えかねた男はやがて意を決したかのように脇の下から匕首を取り出すと、目にもとまらぬ早さで自分の喉元を刺して死んだ。


 あっという間の出来事だった。

 その死が美しいか、それとも醜かったか韓信には判断がつきかねたが、劇的であったことは間違いない。

 

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