鴻門の会

 項羽という男は素朴で直情的な性格であったが、そのためか思考にやや安定性を欠いた。敵対する者を憎み抜く一方で、慕う者を溺愛した彼には、必死に許しを請う者に慈悲の心を示す傾向があった。劉邦はそのような彼の揺らぎがちな心に一縷の期待を寄せ、行動に出た。その結果として劉邦は項羽の関中王としての覇権を認める形となったが、一命を取り留めることになる。その過程には不思議とも思える人の縁と、壮絶な忠誠心が存在した。

 韓信はそれらを目の当たりにする。


 一


 函谷関を破り、戲西ぎせいに入った項羽軍のもとにひとりの使者がやって来た。劉邦麾下の曹無傷そうむしょうという男の使者だという。

 引見した項羽は押し黙ってその使者の言上を聞いた。


「沛公は、関中王になりたい一心で関門を閉ざし、子嬰を宰相として、あろうことか秦の財宝をことごとく接収しつくしました。悪逆なことこの上ありません」

 このときの項羽の思いは、ひとことでは説明し難い。劉邦に対する嫉妬か、それとも自らの不運に対するやり場のない恨みか、複雑に絡み合う感情を整理しようと、しばらくの間無言でいた。


 ――そもそもは、懐王が悪い。

 真っ先に関中入りした者を関中王とする、などと言いながら、項羽と劉邦に課せられた任務には、困難さの度合いが違った。項羽が劉邦の立場であったら、もっと早く関中入りに成功しただろう。懐王は人選を誤ったのだ。


 ――劉邦とは、いったい何だ?

 項羽から見て、劉邦などはろくに軍の指揮もできないような男である。戦うたびに負けてばかり、叔父の項梁に兵を借りにきてばかりのろくでなしだった。それに対して自分はあの章邯をも打ち負かした。楚軍随一の武勲は自分にある。それなのに関を閉ざして締め出そうとするとは、項羽には劉邦が面の皮が厚い男にしか思えず、自分が軽んじられているような気がしてならなかった。


 ――従わない者は、滅ぼすまでだ。

 ついに意を決して立ち上がった項羽は、全軍に指令を下した。

「明日、士卒を饗応せよ。全員がたらふく食い終えたあと、劉邦の軍を攻め滅ぼす」


 明日には雌雄が決する。韓信はこのとき自分の身の置き場所について真剣に悩んだ。

 ――正しい側につきたいものだ。

 誰でも自分が正しいと思うから、戦う。しかし自分が正しくないと思えば、戦う理由はない。

 韓信には今回は劉邦が正しいと思えた。懐王はいくら傀儡だといっても、その発言は王命であることには違いなく、それを忠実に守っているのは劉邦であって、項羽ではない。韓信はまたしても項羽に意見することを決めた。


 その日の夕刻になって、韓信は項羽に面会を求めた。

「お前は変わった男だな。郎中という立場もわきまえずに、わしにたびたび意見しようとする。その努力を戦地でも示すべきだとは思わないのか」

 項羽が韓信を見て発した第一声がそれであった。揶揄と言っていいだろう。


「必要があれば、そういたします。ですが戦地では将軍の武勇が常人の数倍ございますので、私ごときが剣を振ったところでたいした足しにはなりますまい」

 韓信の返答は追従のようでもあり、嫌みのようでもあった。


「……用件を申せ」

 韓信は項羽が機嫌を損ねるのに構わず、話しだした。

「将軍は明日、沛公を討つおつもりでしょうが、それは間違いだと私は思います。門を閉じて守備兵を置くなど行き過ぎの感はありますが、沛公は懐王の命を守ったに過ぎず、これを討つとあっては将軍が懐王の命に背く形になります。将軍は反逆者の汚名を着せられることになりましょう」

 項羽は目を怒らせた。

「はっきり言う奴だ。気に入らぬ。だが、聞こう。お前の考えでは、わしはどうするべきか?」

「沛公は関中王となりましょうが、沛公自身、自分の立場はわきまえておられるはず。将軍の武勲は楚軍随一のもので、沛公とてもそれに反論はできますまい。将軍は沛公と会見の場を設けて、王座の禅譲を受けるべきかと存じます。沛公にはそれに見合った地位を与えればよろしいかと」


 項羽は右手で両方のまぶたを押さえつけ、考え込む仕草をした。

「考えてみよう。しかし、考えるだけだ。実行はせぬ。なぜならば、わしが会見を申し込む理由などないからだ。王座を譲ってほしいから会ってくれ、とでもわしが言うと思うのか? それでは筋が通らぬ。向こうがわしに遠慮して会ってほしいというのであれば、お前の言う通りにしてやってもいいが」

 項羽はそう言って、韓信に退出を命じた。


 ――もういい。言うべきことは言った。あとは沛公の出方次第だ。

 韓信は項羽の言葉の端々から、王座よりも戦いを欲していることを感じた。


 ――そんなに戦いたければ、戦えばよい。だが今度こそ私は加勢しない。


 二


 韓信に退出を命じて、ものの数刻も経たないうちに項羽のもとへ次なる面会人が現れた。


 項羽の叔父にあたる項伯こうはくという男である。

 項羽の叔父ということは項燕の息子にあたり、これは同時に項梁の兄弟であることを意味するが、この二人が本当の意味での兄弟のように生活をともにした事実はない。彼らはともに数多い項燕の妾の腹から生まれた子供であり、彼ら自身も自分に兄弟が何人いるのかを正確には知らなかった。

 確かなことと言えば、項伯は項燕の息子たちの中では末弟であったということだけである。


 その項伯が項羽に面会していちばんになにを述べたかと言えば、

「先ほど、沛公にお会いしてきた」

 と、いうことであった。

 項羽はこれには驚き、

「劉邦と叔父上は個人的な関係がおありでしたか」

 と、問いたださずにはいられなかった。

「直接にはない。いや、なかった。実を言うとわしは沛公に仕えている張良と以前より交流があってな。今日はそのつながりで沛公にお目どおりかなった次第だ」


 項羽は不信感を抱かざるを得ない。明日叩き潰す相手に会いにいくとはどういう魂胆であろう。相手が叔父とはいえ、話の内容次第では許すべきことではなかった。

「叔父上と張良はどんな関係ですか」

 項伯は真剣なまなざしで答えた。

「ひと言で申せば、義の関係だ」

「……詳しくお聞かせ願いたい」


 項伯は以前、人を殺めたことがある。それがもとで秦の官憲に追われ、逃亡生活を余儀なくされたが、そのとき彼を匿ったのが張良その人であった、という。

「張良は、そのとき下邳かひ(地名)に潜伏していた」

「潜伏とは……? 張良はなにかしでかしたのですか」

「始皇帝が巡幸で博狼沙はくろうさにさしかかった際に、襲撃を加えたのだ。力士を雇い、二人で巨大な鉄槌を轀輬車めがけて放ったそうだ。しかし、狙いが外れて鉄槌は隣の車両に当たった。それ以来逃亡を続け、下邳に潜伏していたとのことだ」


 張良は韓の遺臣であり、その家は代々宰相を務める名門であった。

 彼は弟が病死しても「費えを惜しむ」として葬式も出さず、始皇帝を狙う刺客探しのための資金を蓄えたという。その資金を投じて力士を雇ったが、計画は失敗に終わったのだった。


「張良のことは、一度見たことがあります。楚に懐王を擁立した際に、韓も復興するべきだと主張して、それがかなえられたのでしたな。あの時の張良の印象は、線が細く色白で、まるで婦女子のような感じでした」

 項伯は頷いた。

「外見は確かにそうだ。しかし彼の情熱は誰よりも激しい。……わしを保護してくれたのも男伊達の精神からだ。侠の精神だ」


 侠とは、こんにちでいう単に「やくざ」という意味合いとは違い、義のために命を惜しまない精神のことで、一度受けた恩義に対しては、たとえ死んでも義理を返す、という行動原理のことである。彼らにとっては恩義に報いることが自らの命よりも重要なことであったので、当然法律などよりも優先されることであった。

 また、恩義を施す側は礼などを求めたりしてはいけない。なにも言わずに助けることで、自分が困窮したときには相手が助けてくれるのである。

 いわば侠とは殺伐とした古代社会に生きる個人同士の相互扶助の契約のようなものだった。


「わしは張良から恩義を受けた。受けた恩義は返さねばならぬ。そこでわしは張良のもとへ行って、一緒に逃げようと誘ったのだ」

 項羽にも義や侠の精神はわかる。したがって項伯の行為を咎めたりはしなかった。

 項伯はさらに続ける。

「しかし張良は、沛公を見捨てる気にはならない、とそれを断った。そこでわしは沛公と会い、張良の媒酌で義兄弟の契りを……」


 項羽はびっくりした。

「なんと申した、叔父上?」

「義兄弟の契りだ。わしも最初は戸惑ったが、張良を救うにはこれしかない。羽よ、明日の朝早く沛公と会見の場を設けるのだ。沛公は釈明したいと望んでいる」


 項羽は迷い、部屋中を歩いて回ったが、やがて意を決したように立ち止まると項伯に対して宣言するかのように、声を張り上げた。

「いいでしょう。しかし、会うだけです。許すとは限りません。劉邦の態度次第では斬り捨てることも叔父上は覚悟してください。それでいいでしょう」

 項伯は静かに語った。

「もとより沛公が関中を破らなければ、羽よ、おまえは関内に入ることができなかったかもしれない。沛公は関中入りして以来、少しも財物を私にしたことはなく、吏民を帳簿に載せ、庫を封鎖しておられる。また、子嬰を宰相にしたというのは虚言であり、沛公は子嬰を捕らえ、おまえの沙汰を待っているというのが事実だ。これは大功と言っていい。大功をたてた者を討つのは不義だ。厚遇したほうがいい」

「考えておきましょう」


 退出した項伯は疲れを感じ、自嘲気味に考えた。

 ――侠とはいっても、わしにできることはここまでのようだ。しかし、もういい。言うだけのことは言った。


 三


 夜はすっかり更け、そろそろ寝所に移ろうかと考え始めた頃合いである。項羽のもとにこの夜三番めの面会人が現れた。范増である。


「亜父。まだ休まないのか」

 亜父とは范増をさし、項羽のみが使用する尊称である。「父に次ぐもの」という意味を持ち、肉親以外でもっとも尊敬する者に対して使う。

 項羽はその暴虐・残忍な行動から、独断専行的な印象が強いが、実際にはこうして范増を慕い、頼りにしている事実がある。一概に彼を独裁者と断じるのは誤った見方であろう。


 范増は老齢なため項羽ほどの体力はないが、気性の激しい男である。項羽と同様に暴虐、残忍な面を持ち合わせ、さらに年齢を重ねて冷淡さも持ち合わせていた。

「先ほど、項伯どのと廊下で擦れ違った。なにを話しておいでか?」


 范増の質問に、項羽は面倒くさそうに返事をした。この老人の策略は聞く価値があるが、近ごろは説教くさくなってきている。夜も深くなり、眠くなってきた項羽は、范増の相手をするのが正直煩わしかった。

「叔父は劉邦を助けてやれ、と言った。関中で庫を暴いたというのは虚言だと。秦王を宰相にしたというのも噂に過ぎぬらしい。だから明日の朝早く会見し、劉邦の話を聞いてやってほしい、とのことだ」


 范増は苦虫を潰したような顔をした。

「将軍は、それを承諾なされたのか。……よいか、将軍が天下を望むのであれば、いずれ劉邦は邪魔な存在となる。それがわからぬ将軍ではあるまい。であれば、早いうちに処断するのが得策であろう。今、すべては虚言だったと言うが、もともと劉邦などは財物を貪り、好色な、くずのような男であったのだ。そんな男が咸陽では財物には手を付けず、婦女を近づけないとしたら、これはただごとではない。天下を望む証拠であろう。よってわしは委細構わず攻め滅ぼすべきだと考えるが、将軍が明朝劉邦と会うことを決めたのであれば、うるさくは申し上げまい。次善の策を執るだけである」

 と言って項羽に迫った。

 いよいよ面倒になった項羽は、反論はせずに范増の話したいことを話させてやった。

「次善の策とは、何だ」

「会見の席で、わしが機を見て合図をするゆえ、その場で刺殺なされよ」


 范増の目は暗がりの中で、輝いて見えた。謀者特有の目であった。

 項羽は今宵面会した三名がそれぞれ勝手なことを言うので、判断に迷った。范増に対しては、いったい何と答えて良いかわからない。結局、

「承知した」

 とだけ答えるにとどめた。


 四


 翌朝、劉邦は百余騎を従えて会見の場の鴻門に姿を現した。

 しかし幔幕の中に入れるのは、劉邦その人以外は張良のみで、残りの兵士たちは遠く軍門の外で待たなければならない。


 劉邦と張良はおずおずと幕の中に入り、続いて項伯、范増の二人が幕の中に入っていく。昨晩項羽に献策した三名のうち二人が会見に同席することとなったわけである。そして、残りのひとりの韓信はいつものように幕の外で警護の任を命ぜられていた。


 最後に項羽が幕の中に入った。

 表情は険しく保っているが、実はこのときまで劉邦をどう処すべきか、迷っていた。

 ――不遜な態度をとるようであれば、斬る。

 幕の中に入ったと同時に、項羽はそう心に決めていた。


 ところが劉邦は項羽が幕に入った瞬間、地べたに這いつくばるようにひれ伏し、傍で見ているほうが気恥ずかしくなるほどの大げさな素振りで許しを請い始めた。

「お許しを!」

 から始まり、

「臣(わたくし。自分を相手より下に見立てた一人称)は将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は河北に戦い、臣は河南で戦いましたが、まさかまさか自分のほうが先に関に入ることになろうとは、想像もしておりませんでした。ここで将軍とふたたび相見えることになろうとは……臣などは河南の地でのたれ死ぬ運命だとばかり思っておりましたが、たまたまこうして悪運強く生き残り、関中に入ることができた以上は、将軍が到着されるのを待ち、すべてのご判断をお任せしようと考えておりました次第です。臣が聞きましたところ、臣が宮殿の財物を掠め、宮女を犯しているという噂があるようですが、それはすべてでたらめです。おそらくは小人が臣のことを中傷し……」

 と、項羽が黙っていれば際限もなく謝罪の言葉を垂れ流し続けた。

 項羽は、完全に気勢をそがれた。

「もうよい。君の言う小人とは君の軍の左司馬で曹無傷という男だ」


 このひと言を聞いた劉邦は、

 ――曹無傷め! あの野郎……あとでどうしてくれよう!

 と内心で毒づいたが、決してそれを表情には出さなかった。


「その曹無傷とやらの中傷がなければ」

 項羽は劉邦の肩に手を置き、

「どうしてわしが君を疑ったりしよう」

 と言って、自ら劉邦を席へ案内した。


 ――たいした男だ、沛公は……。私が沛公の立場であれば、あそこまで自分をおとしめることができるだろうか。いや、とても無理だ。項羽が単純な性格で、泣き落としに弱いと知っていても、やはり無理だ。ああいう男は生き残るためにはどんなことでもするに違いない。ある意味では項羽などよりよほど恐ろしい存在ではないか……。

 幕の外で聞き耳を立てていた韓信はこの会見は項羽の負けだ、と予想した。


 ――この調子なら今日は波乱はなさそうだ。

 韓信はそう結論づけたのだが、ここまでは会見の第一段階に過ぎなかったのである。


 五


 態度を和らげた項羽の命により、酒宴が催され、各人はおのおの与えられた席に座った。

 上座は項羽と、項伯である。次座は范増、三座に劉邦、末座に張良が座り、酒や料理が供された。


 項羽は物も言わず、喰い始める。

 いっぽう劉邦は食事が喉に通るはずもなく、儀礼上箸を取り上げてはみたものの、もしや毒でも混入しているのではないかと思い、気が気ではない。

 張良に至っては末座で畏まっているばかりで、食べようともしなかった。


 自然、話題のない酒宴は盛り上がらず、項羽がただただ酒を飲み、肉を喰らう音ばかりが場に響く。


 ――おろかな男よ。狡猾な劉邦は項羽の性格を知って、弱点を突いたのだ。項羽は無関心な風を気取り、喰ってばかりいるが……情にもろい男よ。敵対する相手には容赦ないが、自分にすがる相手には手を出せない。まったく始末に負えん。

 范増は無駄だとは思いつつ、腰に下げてある玉の飾りを振って音を出し、項羽の注意を誘った。今がそのときだ、殺せ、というのである。


 しかしもはやその気のない項羽は、案の定聞こえぬ振りをして喰ってばかりいる。仕方なく范増は座を立って、幕の外で待機していた項羽の従弟の項荘を呼びつけた。

「項荘、そこに居たか……耳を貸せ」

 幕の外に現れた范増と項荘の姿を認め、韓信はわけもなく緊張を感じた。

 ――む……范増老人。なにか企んでいるな……。この老人のことを失念しているとは、私もうっかりしていたものだ。

 しかし、二人が話している内容は、韓信には聞こえない。

 韓信にできることは、なにもなかった。


「できません。……とても、そんな……」

 項荘は消え入りそうな声で范増に訴えた。しかし范増は目を怒らせ、

「やるのだ! やらないというのならお前の一族をみな虜にしてやる。簡単なことだ。座を盛り上げましょうとかなんとか言って、剣を持ってひらひらと舞えばいい。その隙に劉邦を刺すのはわけもないことだろう」

 と項荘を恐喝した。

「よしんばそれが成功したとして、将軍はそれを了承しているのですか。将軍が沛公を許すと言っているのに、私が刺し殺すなど……不義ではありませんか」

「確かに将軍は知らん。だが心配するな。従弟のお前がやることなら将軍はとやかく言わない。もし万が一のことがあれば、わしが弁解してやる」


 項荘はまだふんぎりがつかない。

「しかし、なぜそこまでして……」

「将軍は情に流されやすいお方だ。劉邦は今後のために除かねばならぬことがわかっていても、その場の感情で決断を鈍らせておられる。楚の天下のためには将軍が誤った判断をしたら臣下がそれを正さねばならぬ。そして今がまさにそのときなのだ。決断しろ、荘!」

 項荘が頷くのを認めると、范増は幕中に戻っていった。


 やがて幕中に入った項荘は、ひとしきり項羽と劉邦の長寿を祝う言葉を述べ終わると、

「陣中のこととてなんの座興もないのは寂しいこと。ここは私がひとさし剣舞をご覧にいれて宴の余興といたしましょう」

 と言って、腰から剣を抜いた。


 ――まずい!

 末座の張良の目が光った。劉邦もそう感じ、酒器を持った手が震え、酒がこぼれた。


 剣はゆっくりと宙を舞い、空を斬っていく。しなやかな項荘の手がそれを追い、次いで足が流れるように運ばれていく。優雅な身のこなし。緩やかな律動で舞う項荘の姿は、時の流れを忘れさせるかのようであった。

 ひゅぅ! 

 突如剣が風を切る音が劉邦の耳元に届いた。驚いた劉邦が顔を上げると、項荘の目が鋭く自分を見据えている。


 ――殺される!

 そう感じた劉邦は恐怖のあまり尻の穴が緩み、座った状態であるにもかかわらず、よろめいた。手をつきながら体を支えるのがやっとである。


「相手もなくひとりで舞う剣舞などつまらぬもの。私が相手をしよう」

 そのとき、そう言いつつ剣を抜いて立ち上がったのが項伯だった。


 項伯は項荘の調子に合わせて舞い始め、項荘がつつ、と劉邦に近寄る仕草を見せると、項伯が舞いながら身を呈して劉邦をおおいかばった。それが幾度となく、繰り返される。


 ――この調子では沛公が死ぬまで剣舞が続く。

 張良はそう思い、幕の外に出て軍門まで走った。


 六


 軍門の外には劉邦の配下たちが待機している。この日、劉邦の供をして配下の指揮を任されていたのは参乗(貴人の車に陪乗して守る者)の樊噲であった。


 樊噲は劉邦の旗揚げ以来の忠臣で、体つきは大きくて肉付きがよく、胸回りが非情に厚い。両耳の下から短めに生えた顎髭が無骨な印象を与え、外見的には熊のような男だった。

 あまり複雑なことを考えるのは苦手であったが、今日という日が劉邦はおろか、自分の運命を決める日であることが、この男には感覚的にわかっている。いざという時にはあの軍神のような項羽と刺し違える覚悟をしていた。


「樊噲!」

 自分のいる軍門を目指して走ってくる張良の姿が見えた。ただごとではなさそうなその姿に、彼は胸騒ぎを覚えた。


「張子房どの。幕中の首尾はどうだ」

 樊噲の問いに張良は息を切らしながら答えた。

「どうもこうもない。殺される寸前だ……。樊噲、今こそ……今こそ沛公危急の時だ!」


 樊噲はそれを聞くなり、盾を持ち、剣を抜いて猛然と軍門に突入した。楚の衛士たちがそれを止めようとしたが、樊噲は走りながら衛士たちに盾をぶち当てて残らず地に突き倒した。


「行ったぞ! 誰か止めろ!」

 幔幕の周辺の警護に当たっていた韓信の耳にその声が届いた。見ると猛烈な勢いでこちらへ向かってくるひとりの武人の姿が見える。

 ――あれは、劉邦の忠臣に違いない。なんという迫力!

 樊噲の走った道の後には砂塵が巻き起こり、それが渦を巻いて竜巻が起こっているかのように見えた。たったひとりの突入がまるで百騎程度の騎馬集団の進軍のように錯覚させる。


「来るぞ。せき止めろ」

 楚軍の警護兵たちは樊噲の鬼気迫る姿にたじろぎながらも、防御の姿勢をとり始めた。

 しかし、それを見た韓信は、

「いや、この後が見たい。通させてやれ」

 と言って兵たちをとどめた。

 その発言に楚兵たちは、韓信が例によって臆病風にふかれたものと思い、反発した。

「通していいわけがあるまい。あの様子では将軍に斬りかかるぞ!」

 韓信はそれでも意見を変えず、兵たちに向かって言った。

「黙って斬られる我らが将軍ではないだろう。将軍は、武勇の人。あの烈士にも負けることはないはずだ」

 実はこのとき韓信は、項羽が樊噲を斬ることはないと予想していたのである。確かな根拠はないが、項羽はこのような人物を好む、そう感じていたのであった。


 防御しようとした兵たちは皆、すべて樊噲の盾で押し返されて吹っ飛んだ。樊噲はその勢いのまま幕を斬り破り、中へ突入を果たす。


 突然の闖入者の出現を受け、とっさに剣の柄に手をかけた項羽は、

「何者だ」

 と、凄んでみせた。このとき懸命に樊噲の後を追いかけてきた張良がようやく追いつき、

「この者は沛公の参乗、樊噲でございます」

 と、息を切らしながら説明した。

 項羽はこれを聞いて満面の笑みを浮かべて喜び、

「ううむ! これこそ壮士。酒を与えよ!」

 と言って、杯になみなみと注いだ酒を樊噲に与えたのであった。

 項羽は敵味方を問わず、このような勇壮な男を自分以外に見たことがなかったのである。


 樊噲は上機嫌の項羽に酒を与えられ、豚の肩肉を供せられ、それを軽く平らげたのち、項羽に対して意見しだした。

「将軍は功ある沛公に恩賞を与えないばかりか、小人の中傷を真に受け、沛公を殺そうとしている。将軍は間違っておりますぞ。……私がこんなことを言えるのは他でもない。……死を恐れぬからだ」


 項羽はとっさに返答ができず、

「まあ座ればいいじゃないか」

 などと、およそ彼らしくない発言をした。


 おそらく項羽は劉邦を許すと決めたのにもかかわらず、范増が殺そうとするのを快く思っていなかったに違いない。樊噲の乱入を潮に幕中の殺人劇を終わらせようと思ったのだろう。

 しかしそんな項羽の思いなど知る由もない劉邦は、状況が一段落したのを見計らうと、なにも言わず席を立った。


 誰もが厠へ行くものと思ったが、劉邦はそれきり戻らなかった。

 彼は恐怖のあまり、遁走したのだった。


 張良はあとを取り繕い、項羽に白璧はくへき(宝石の一種)一対、范増に玉斗ぎょくと(玉でできた酒器)を土産に贈り、鴻門の陣営を辞した。


 項羽はそれを受けると幕を抜けて去ったが、ひとり残った范増は贈られた玉斗を地に投げつけて叩き壊し、さらに剣で打ち叩いて粉々にしながら嘆いたのだった。

「ああ! 楚は小僧どもばかりでどいつもこいつも言うことを聞かない。項羽をはじめ一族はみな、劉邦の虜になるだろう! なぜ項羽も項荘もやつを殺せなかったか!」


 韓信は范増のその姿を幕越しに見て思った。

 ――項羽や項荘が沛公を殺せなかったのは、無理もない。彼らは武人だからだ。武人が謀略で人を殺すことを潔しとするはずがない……范増老人のような人生を達観したような者ならいざ知らず……。

 

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