賊徒討たれる
それぞれに思惑を持った一癖も二癖もある武将や謀臣たちが、次々に韓信の前に姿を現す。韓信は、戦乱の世を自分自身の覇気で生き抜こうとする彼らの迫力に圧倒されるが、彼らに隷属しようとは考えなかった。その誇り高き性格の彼が心から恐れた存在が、秦将章邯である。章邯が定陶で配下の兵たちを前にして行なった演説は、後の韓信に深い影響を与えた。
一
魏・斉の惨敗、ならびに陳勝の死に確証が持てたことを受けて、項梁は薛に諸将を集め、今後の対応策を話し合おうと会合を開いた。会合など、韓信には古代の春秋時代の覇者のまねごとのように思われて、ばからしく感じられたが、諸将の姿を一度に見る機会を得られるのは悪いことではないと思い直すことにした。このころの彼は、自分を納得させることに苦労してばかりいる。
その彼の視界に、一人の老人が入った。なにやら項梁相手に早速献言しているようである。
「楚は三戸といえども、秦を滅ぼすは必ず楚なり(たとえ楚が戦いに敗れ、家が三軒だけになったとしても、それでも秦を滅ぼす者は楚人であろう)」
「陳勝の失敗は、旧楚の王家の子孫をたてずに自ら王になったことである」
「諸将がみな君(項梁のこと)に従っているのは、君の家が代々楚の将軍であり、きっと楚王の子孫をたてると思っているからだ」
韓信は離れたところから聞き耳をたて、
――何を言いやがる。
と思ったが、この人物こそが誰あろう、
七十くらいの老人であったが、国の乱れを憂いてわざわざ
また、ひどく風変わりな一団もいた。
その一団の中央にいる男は、背が高く、髭も長い。頭の上の冠は他の者のそれと違い、やたらに艶があった。
――あの冠は、竹だろうか。
韓信は最初はそのつやつやした冠に目を引かれたのだが、よく見ると髪や髭も黒々として光っている。そればかりか、髭のなかに見え隠れする唇も濡れて光っているようで、とても下品な印象を受けた。
常に微笑を浮かべてはいたが、それも長者らしい微笑ではなく、欲が見え隠れするような、いやらしいそれだった。要するに、にたにたしているように見えたのである。
――あれでも、将軍だろうか。
韓信の目には、その男は盗賊か任侠の親玉にしか映らなかった。
その男のまわりにいる連中も、武将というよりは力自慢の用心棒のような男ばかりで、どう見ても軍組織とは思えない。
韓信は逆に興味を引かれ、傍らにいた雑兵の一人に尋ねた。
「あの一団は、どういう連中であろう。知っているか」
尋ねられた雑兵の男は答えた。
「ああ、あの連中……。中央にいるのが、沛公だ。本名は劉邦というらしい。まわりにいるのは取巻き連中で、右から葬式屋あがりの
韓信はさらに尋ねた。
「強い軍なのだろうか」
その雑兵は、おかしさをこらえるように言った。
「五回戦えば四回は負ける軍らしい。そして沛公は負けるたびに項梁どのに兵を借りに現れる、とのことだ。……しかし、その一方で沛公の軍は意外に居心地がいいらしい、という話も聞く。なんでも沛公の軍には……ここにはいないようだが、
このときの劉邦の軍は、弱いと言って差し支えなかった。弱いくせに滅びもせずに生きながらえているのは何故だろう、と韓信は不思議に思ったが、考えて答えが出るものでもない。いずれ劉邦についても深く知り得るときが来るだろう、と考え、その場を離れた。
間もなく、別の軍勢が目の前に現れた。
韓信は、その頭目の男を見るのは初めてだったが、それはひと目見ただけでも忘れられないような、きわめて強い印象を持つ男だった。
――異形だ。
力士のような恰幅、丸太のような太腕、それにもまして目を奪うのはその顔であった。
顔中に刻まれた刺青は、かつて刑罰を受けた者のしるしであった。
「
その男は、そう呼ばれていたが本名は英布という。
「黥」という一文字で顔に刺青を刻む刑罰のことを指す。しかし黥という刑は中国古来から伝わる「五刑」のうち最も軽い刑だったので、この当時顔に刺青がある人物は、そう珍しくない。
五刑は罪状の軽いものから、
若い時分、ある旅人に英布は人相を見てもらったことがある。その旅人は英布を見て、
「刑罰を受けるが、王となるだろう」
と評した。
成人した英布は、まさしく法に触れることとなり黥刑に処されたが、そんないきさつもあり、当人はこれを喜んだという。そしてその時点で自分のことを黥布と称するようになった。
懲役先の麗山陵の囚人仲間を煽動して脱走した黥布は、陳勝の挙兵に応じて自らも兵を挙げる。本気で王になるつもりであった。やがて黥布は項梁の配下となり、景駒、秦嘉らの軍を攻撃したときなども常に先鋒の役目を果たし、楚軍で第一の手柄を立てた。武勲では項羽と並び称されるほどの男となったのである。
――外見も、生きざまも、恐ろしい男よ。
周囲の雑兵たちから黥布にまつわる話を聞いた韓信はそう思った。釣りをして生計を立てていた自分とは、生きる世界が違う、と思わざるを得ない彼であった。
――あれくらいの迫力がなくては、人を率いることは無理なのであろうか。
自信を喪失しかけたとき、その黥布となごやかに談笑している男が韓信の視界に入った。
「……眛!」
黥布と話しているその男が鍾離眛であったことは、韓信に相当な衝撃を与えた。その様子からいって黥布と対等の立場であることは明らかで、これは鍾離眛が項梁配下の将軍になったことを意味した。以前の美童の面影を残しつつ、風格を加えたその外見は、どこか危うさを含んでいるようであり、一種の近寄り難さが感じられた。
――眛……将になったか。皮肉なものだな。かつて将になると言った私は兵の身分に甘んじているのに、兵になると言った眛は将の地位に……皮肉、皮肉!
韓信に羨望の思いがなかったかといえば、嘘になる。このとき確かに韓信は、自分と鍾離眛の覇気の違いというものを意識した。
眛にはおめでとう、とでも言うべきであろうか。しかし、あまりの二人の間の身分の違いに韓信は恥ずかしくなり、できることなら気付かれないうちにこの場を去りたい、と思った。
が、不幸にも目が合ってしまった。
「信……?」
気付いて近寄ってきた鍾離眛に向かって、韓信は貴人に対するように、うやうやしく頭を地面に擦り付け、ぬかずいた。いわゆる
鍾離眛はきまりの悪そうな顔をして言った。
「そんな真似はよせ。私と君の仲ではないか」
韓信は他者に聞こえないよう、小声で答えた。
「わかっている。が、人が見ている。雑兵に過ぎない私が君と対等に話をして、君の格を下げることはできない」
「そうか……ならば他の場所で話そう」
二人は他人に見られない場所に移動し、栽荘先生が亡くなったことや、戦況の様子などを話した。それによると黥布の能力をいち早く発見し、彼を説得して項梁配下に連れてきたのは鍾離眛自身だという。黥布と鍾離眛は友軍の将の間柄であった。
「眛、出世したな。私などは及びようもない。私には今の君が眩しく見える」
「……信、君が望むなら、黥布と同じように君のことを推挙してやってもいい。私の言うことなら、項梁どのは聞いてくださる。……君は武芸にも練達しているし、頭もいい。充分将軍としてやっていける」
「…………」
なにも言わない韓信を見て、鍾離眛はあきれたように言った。
「君がそうやってだんまりを決め込むときは、私の意見に賛成しないときだ。推挙されるのは嫌か。まあいい……それならもちろん私の下で軍務を勤める気もないであろうな」
韓信は頷いた。
「……人に借りを作るのは、あまり好まない。眛、君の気持ちはありがたいが遠慮しておく。私は私なりにこの乱世を渡り歩いていくつもりだ」
鍾離眛は、そうか、と言ってそれ以上勧めはしなかった。
「それならそれでいい。しかし、言っておくぞ。天下はまだまだ安定しないだろう。昨日まで味方だった者が、今日になってみると敵、ということもざらにある世の中だ。あるいは、私と君が敵対することもあるかもしれん。その時になってからでは、私は君を助けることはできないぞ」
韓信は少し気分を害した。幼少の頃から、常に眛は韓信を弟分のように扱う。今も言葉の端にそれが見えたからである。
「眛、君と私が敵対したときに助ける立場にあるのは私の方かもしれぬ。しかも私は君を助けるとは限らない。斬らねばならぬ時は、たとえ相手が君であろうとも……私は君を斬る」
韓信の言葉は挑発的なものであったが、鍾離眛に動じた気配はない。一足早く乱世に足を踏み入れた者の余裕であった。
「当然だ。それはこの時代の武人のあるべき姿だ。……信、君は幼少の頃から私より剣技に長じ、兵法を学んでも君の方が常に上だったな! しかし、それでも……ふふふ、私は君に負けるとは思わない」
「なぜだ」
鍾離眛は韓信の目を見据えて言った。
「信、君は私を斬れない。技術の問題ではなく、気持ちの問題だ。自分でもわかっているだろう」
鍾離眛は、韓信の肩を叩いて晴れやかな表情を浮かべつつ去っていった。
二人の運命は、まだ先が見えない。
二
薛に集結した諸将を前に、項梁は今後の方針を示した。ひとつには、陳勝亡き後の象徴的存在を決めなければならない。つまりはあらためて楚王を擁立しよう、というわけである。
「王は、その系譜を継ぐ者でなければならない」
という范増の意見を尊重した項梁は、めざとく旧楚の王孫を探し出した。
一方項梁自身は、武信君を称した。
「君」とは尊称であり、官職名ではない。あえて項梁が官職に就かず、君を称して国政の枠外に身を置いたのには理由がないわけではなかった。
王を擁立するに伴って、旧楚のもと貴族の者どもがまるで付録のようについてきたからである。
もとの楚の
――こいつは、食わせ者だ。
韓信は宋義を見て、危惧を抱いた。
本当に楚の復興を願っている者であれば、この時期まで市井に隠れていることはない。旧楚の令尹という立場をもってすれば充分に兵を集めることは可能なのに、あえて今までそれをせず、王が擁立された時期を見計らって姿を現したのは、いかにも胡散臭い。権力の臭いのするところに集まる政治屋だと韓信は感じた。それも寝業師の類いである。
――うかうかしていると項梁はその座を負われることになる。まあ、それはそれで構わないことだが……。
韓信の心配は項梁も同様に感じていたようで、以後宋義は前線に置かれることとなる。懐王のもとに置くことで、彼らが結託しないよう配慮したのだった。
項梁はその後山東半島に出兵した。
斉に恩を売り、楚の優位を保とうとする項梁の策略であった。
章邯の指揮下にある秦軍を破るのはたやすいことではなかったが、作戦はどうにか成功した。が、その後が思うままにならない。項梁の腹づもりでは、東阿を解放した後、田栄率いる斉の兵をあわせ、楚・斉連合軍として西方の秦の中心部に進撃したかったのだが、田栄は籠城生活から解放されると、そのまま自国の斉へ舞い戻ってしまった。
「助けてやったのに、なんという奴だ。不義とはこのことよ」
田栄が国へ戻ったのは、自分が留守にしている間に、斉国内に新政権が樹立されていたことによる。戦死した田儋とともに建国に努力し、ともに前線で戦ってきたという自負のある田栄としてはおもしろくない。
田儋の替わりに王となったのは田仮、宰相に田角、将軍に田間、という人物たちで、いずれも田栄の遠縁にあたる者たちだったが、どれも戦国時代の旧斉の王族に自分よりも近い人物である。これも田栄にとっては気に入らなかった。田儋系の自分たちが実権を握るためには、先にこれらの者を滅ぼしておくべきだった、と後悔したのである。
かくて田栄は項梁の出兵依頼を無視し、同族である田仮らを討ち取りにかかった。
この結果、田仮は楚に亡命し、田角は趙に亡命した。田角の弟田間はこれより前、趙に救援を頼みに訪れていたが、帰る時機を失してそのまま趙に滞在した。
田栄は斉国内を平定し、田儋の子、田市を擁立して王とし、自らは宰相となった。
項梁は章邯が勢いを取り戻すのを恐れ、何度も出兵を要請したが、田栄の答えは次のようであった。
「楚に逃げ込んだ田仮を楚が殺せば。趙に逃げ込んだ田角、田間を趙が殺せば。それから考えよう」
もちろん田栄の要求は受け入れられなかった。楚も趙も斉と取引しようとはしなかったのである。これを受けて、田栄は周囲の者に毒づいた。
「まむしに手を噛まれたときは、手を切り落とす。足を噛まれたときは足を切り落とすものだ。何故だかわかるか。体全体に毒が回るのを防ぐためだ。田仮、田角、田間などを生かしておけば、毒は楚や趙の国中に回る。手足どころではない。なぜか。彼らを匿う限り、わしが出兵することはない。その結果、楚や趙は章邯の思うがままにされるからだ。そのうち彼らは秦に盛り返され、先祖の墓まであばかれることだろう」
項梁は斉の参戦を諦めた。軍に同行し、事情を知り得た韓信は思う。
――楚や趙の判断はおそらく正しい。彼らは田仮や田角を匿う毒よりも、田栄の毒を恐れたのだ……あの凄まじい性格であれば、長く友軍として戦える相手とは思えない。田栄の一族が存命な限り、諸国の思惑は一致しないだろう……。
そして、こうも考えた。
――斉は滅ぼすべきだ。
韓信は思ったが、将来斉を滅ぼすのが自分であることまでは、この時点で想像できなかった。
三
田栄の協力は得られないものの、項梁の戦略はこのところうまく運んでいる。東阿を陥とし、章邯を追う本隊とは別に、項羽、劉邦に別働隊を授け、成陽という地を攻めてこれを陥した。そこから西に進軍させて、秦軍を
李由は三川郡の太守で、陳勝・呉広の軍から要衝である滎陽を守り通した男である。なおかつ宰相李斯の長子であった。
このとき
「勝ちに乗じて、士卒のみならず将が驕っているようでは、失敗のもととなります。今、秦の兵は徐々に増えつつあるなかで、武信君がそのようでは心配でなりません」
正論である。が、項梁としては宋義のような男が忠臣づらをして正論を吐くのがうるさく感じた。誰が、おまえの言うことを聞くものか、と思ったに違いない。
項梁の心の底にある宋義に対する劣等感がそう思わせたのだろう。
その後、項梁は宋義を使者として斉に送った。斉の田栄は協力しないに違いないが、敵に回すわけにはいかなかったので、定期的に使者を送り、関係を保つためである。表面的にはそれが理由だが、実際は任務にかこつけて体よく目障りな男を追い払ってしまおう、という腹だった。
一方この時、秦の宮廷では趙高の専横がますます激しく、それがもとで宰相の李斯が刑死させられている。
罪状は滎陽を守備していた長男の李由と結託し、楚と内通して秦を転覆しようとはかった罪である。もちろんそのような事実はなく、無実の罪で投獄され、拷問に屈した李斯自身の嘘の自白が容疑の出所であった。
李斯は刑場で五刑のすべてを受け、死ぬ間際に傍らの次男に語ったという。
「いつかまたお前と一緒に、昔のように兎狩りでもしたいと思っていたが、もはや叶わぬ夢だ」
建国の臣の理不尽な死は、秦帝国のその後の運命を象徴しているかのようであった。
宋義という男の周辺には関中のこうした事件のいちいちを知らせてくれる者はいなかったが、長年の政治的経験によって得られた勘と言うべきだろうか、秦の国情が荒れていることが肌でわかったようである。
――国にしても、人にしても死ぬ前には痙攣するものだ。
宋義には、まるで秦の断末魔の叫びが聞こえていたようで、彼はそれに巻き込まれないようにする思案を巡らせていた。
彼にとって重要なのは、戦いの後に生き残って国を動かす立場として存在していることであり、戦い自体に興味があるわけではなかった。そのため保身には人一倍敏感である。
――項梁は体よくわしを追い払ったと思っているだろうが、まだ章邯の軍は健在だ……章邯の最後の一太刀は項梁に向けられるだろう。……その場にいなくてすむのはもっけの幸いというべきだ。
彼は斉へ向かう道中で、反対に斉から楚に向かう使者と偶然に行き当たった。そのとき彼は、こう伝えたという。
「武信君(項梁)に会いに行かれるのなら、道を急がれるな。急ぐと戦乱に巻き込まれます。……武信君は戦乱の中で、敗死するでしょう」
宋義に言われた斉の使者は、その言葉どおり歩を緩めた。そして使者は宋義の言葉が正しかったことをあとになって知るのである。
いっぽう宋義は悠々と斉へ歩を進め、そこで彼独特の処世術を披露することとなる。
四
項梁のそばに仕えていた韓信には、軍の緊張感が弛緩しているのが、よくわかった。定陶のある富豪の屋敷を接収して夜毎酒宴に耽る項梁を見るにつけ、韓信は思う。
――人は、こうした快楽を得るために、戦うのだろうか。だとすれば付き合わされるのは、馬鹿馬鹿しいことだ。
志願して兵となった自分ですらそう思うのだから、巻き込まれる住民の思いがそれに数倍することは、想像に難くない。
――しょせん、こいつは貴族だ。民の代表ではない。
韓信はこれ以降、項梁に対しては面従腹背の態度で臨もうと決めた。酒に酔い、うたた寝を決め込む項梁のそばにいるのに嫌気がさしたのである。
彼はその場をはなれ、外に出て警護の連中の仲間に入った。その方が緊張感が保たれると思ったからであった。
――いざとなると、尊敬できる良き上役とは巡り会えないものだ。
嘆息しながら小一時間ほどを無為に過ごした。気が付くと屋敷のなかは宴会騒ぎも終わったようである。あたりを静寂が包み込んでいた。
その日は曇天で、月や星は見えず、屋敷の明かり以外は目に見えるものがなかった。暗闇と静寂……嫌な予感がした。
ふいに隣の兵士が音をたてて倒れた。
驚いた韓信が振り返ると、喉元に深々と矢が突き刺さっている。
「敵だ!」
しかし、構える間もなかった。その一矢を合図に、黒い甲冑を身にまとい、夜陰に紛れた秦兵たちが、なだれを打って突入してきた。屋敷の警護などしている余裕はない。韓信は他の兵と同様、一目散に逃走した。
「雑兵に構うな。逃げる者は捨て置け。目標を見失うな」
指揮官の号令のもと、火矢が放たれた。屋敷はあっという間に炎上し、中にいた者たちは逃げ遅れて焼死するか、慌てて外に飛び出したところを秦兵に討たれるかのどちらかだった。
寝所で女を抱いていた項梁は、長年にわたって築き上げてきた野望の成就への道をあっさり断たれ、逃げ遅れて焼け死んでしまった。
項梁を失い、四散した楚軍は抵抗を試みる余裕さえない。韓信などは一気に城壁まで走り、無謀にもそれをよじ登ろうと、もがいた。どこからそんな力が出るのか、指先を固い城壁に何度も突き刺し、必死の思いをしたあげく、登り切ることができた。
城壁の上からは秦軍の様子が遠目に見てとれる。その中に自ら先頭に立って、しきりに兵を指揮している男が見えた。
秦兵の様子から、その男が何者であるかが韓信にはわかった。
――あれが……章邯!
韓信には章邯が乱世の屈強な武人には見えなかった。しかしもの静かに敵を討ち取って行くその態度に、よけい恐怖を覚える。
韓信は城壁をおりて逃げれば安全だと思いながらも、目を離すことができない。
やがて章邯の前に焼けこげた項梁の首が届けられた。見るも無惨な上官の姿……。
韓信は項梁を尊敬していたわけではなかったが、目を背けざるを得なかった。
いっぽう章邯は項梁の首を悠然と眺めると、たいした感傷も示さずに演説を始めた。
「諸君! ……我が軍は国を守る目的で編成された」
兵たちから、おう! という雄叫びが発せられる。
「よって義は我が軍にあり、我が軍の前に立ちはだかる者は、賊である」
またしても兵たちの声が上がる。
「賊は誅罰されるものであり、討つにあたって我々は礼儀など必要としない。ただ、殺せばよいのだ」
――我々は、賊か……。
韓信は反論したい衝動に駆られたが、まさかこの状況でそうするわけにはいかない。城壁の上で小さくなって聞いているだけだった。
「古来より人々は戦争を美化し、互いに名乗りを上げて雄々しく戦うことこそ理想とされているが、今の我々の敵は、賊である。罪人だ! 罪人を捕らえるにあたっては、夜襲も不意打ちも、あるいは暗殺も恥とはならない」
「今、首だけになってここに転がっている項梁なども、賊の類いである。見よ、我々は賊の頭目をひとり討ち取った。これこそ正義の証である」
ここで章邯は項梁の首を手に取り、たかだかと掲げ上げると、兵士たちの感情は頂点に達した。
「大秦万歳!」
兵たちの合唱が起こった。韓信はいたたまれなくなった。
背中に冷や汗が流れる。
「罪人項梁を撃ち殺したことで楚は当分おとなしくなるだろう。そこで諸君、我々の次の目標は、北だ! 北上して、趙を討つ!」
踵を返した章邯に興奮した秦兵たちが従い、去って行った。
これにより韓信は生き残ることができた。
章邯の迫力に呆然とし、城壁の上でたたずむうちに、指先の痛みを感じた。見ると両手の人差し指の爪がどちらとも剥がれている。
指先にまとわりつく血は、戦地につきものの死を連想させた。
――恐ろしい。
現実に戻った韓信は、思い切って城壁から飛び降り、ひたすら走って定陶の地をあとにした。
五
その後、北上する章邯のもとへ、ひとりの武将が兵を引き連れて合流を果たした。趙の将軍、李良という男である。
李良はもともと秦の将官であったが、このときは趙王武臣の命により、隣国の燕や代の地を制圧するべく奮闘していた。周囲の者の中には彼の前身からその忠誠を疑う者も多くいたが、李良には秦へ帰順する気など微塵もなかった。
このときも秦軍から、戻ってくれば優遇する旨の書状を受け取っていたが、彼はそれを意にも介さなかった。
李良は秦の勧誘の書状を突っぱね、兵の増強を求めようと趙の首都
それは武臣ではなく、武臣の姉が物見遊山に出かける車列であった。
酒に酔った武臣の姉は李良に対して、挨拶が不十分だと罵り始めた。自分が戦地で死ぬ思いをしているときに物見遊山などしていることだけでも腹が立つのに、愚弄されるとは、李良にとって思いもしないことだったろう。
やりきれない思いを我慢しきれなくなった李良は、意を決して武臣の姉を殺し、その足で邯鄲に突入して趙王武臣を殺害した。それまでの態度を一変させ、秦に帰順することに決めたのである。
しかし趙側もやられてばかりではない。大臣の張耳は、すばやく旧王族につながる
そして敗れた李良がたどり着いたのが、章邯の軍である。
章邯は李良を援助する形で邯鄲を襲撃し、城壁を破壊しつくし、住民を強制的に移住させた。趙王歇と張耳は北方の
鉅鹿の城内は食料が底をつき、餓死者で埋め尽くされていったという。
いっぽう楚では、項梁の死に事態の緊迫を感じた懐王が、都を盱眙から
「我が軍にとって武信君を失ったことは痛恨の極みであるが、もともと楚は彼ひとりのものではあらず、
――懐王の精一杯の自己主張だ。
修羅場の定陶から逃れて会議の末席に座を置いた韓信がそう感じたのは、皮肉からではない。懐王が傀儡であることは楚兵の共通の認識であり、その認識の外にあるのは懐王本人だけであった。
しかし、それに気付かない懐王の言葉は続く。
「いま秦軍は趙の鉅鹿城を包囲し、わが楚にも救援を要請する使者が来ている。趙は秦を打倒するという目的をともにする同志であり、余としては無視することもできない。よって趙を救うべく、余の軍隊の主力をもってあたらせようと考えている」
一座がざわめいた。ついに章邯と雌雄を決するときがきた。それを千載一遇の機会と捉えるか、暴挙と捉えるかは個人次第である。
「静まれ。余の話はまだ終わりではない。……窮乏している趙には気の毒だが、趙を救援する我が国の部隊は、実は囮である。主力を囮とするあたりがこの作戦の妙だ」
会議の座はいっそう騒がしくなった。将官たちがけげんそうな表情を見せるのが悦にいったらしく、懐王はさも嬉しそうな顔をした。
「北方の趙へ向かう主力軍とは別に一隊を編成し、西進して函谷関を抜かせる。秦の主力が趙に向いている今であれば、必ずや成功する作戦であろう」
さらに懐王は語を継いだ。
「真っ先に函谷関を抜き、関中の地を平定した者を関中王とする」
――これは、別働隊の将を王とするということだろうか。ならば誰も趙へ遠征などしたがらないだろう。
韓信はそう思ったが、別働隊は主力ではないのだから兵力も劣ることを考えると、函谷関にたどり着く前に殲滅する可能性もないとはいえない。
そこまでいかずとも、別働隊が苦戦する間に兵力の充実した主力軍が趙を平定し、そこから西進すれば先に関中にたどり着くことも可能である。
そう考えれば、懐王は傀儡と言われながら、絶妙な作戦を思いついたものだ、と彼には思われた。
問題は誰が主力を率い、誰が別働隊を率いるかである。将官連中が等しく固唾を飲みながら、任命のときを待った。
懐王はまず主力軍の大将を任じた。
「宋義!」
――あんな太鼓腹の男に軍の指揮などまかせて大丈夫なのか。
そんな韓信の思いとはよそに、懐王は任命を続ける。
「副将は、項羽。末将は范増」
将官たちのため息をよそに、任命は続けられた。
「別働隊の将には、劉邦を任ずる」
――なるほど。たしかに主力ではない。
韓信は合点がいった。
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