無聊

 この大陸において革命とは「天命があらたまる」という語に由来する。

 しかしその実際は人々の意志によって発生するものであり、そこに天の意志はまったく見受けられない。また、天は自分になりかわって王朝に地上を治めさせているという。しかしそうであれば王朝が衰退した時に、天は人々を導くべきであろう。

 このとき諸地方に割拠した蛮勇たちには、自分たちの権勢を正当化するための天が、それぞれに存在していた。つまり天とはまったく人の意志そのものであり、単一のものですらない。彼らは結局誰が強いかを競い合っているだけなのである。人々は、正しいと思う者に加勢するのではなく、強いと思う者に加勢した。

 韓信はそのような中で項梁の軍を選択したが、自分を納得させるほどの正しさをそこに見出すことができなかった。


 一


 陳勝は各地に制圧を目的とした軍を派遣し、それぞれ成功したり、失敗したりしていた。軍を派遣して制圧したのはいいものの、派遣した将軍が自立して王となってしまうこともあったが、離反されるよりはまし、と考えれば着実に勢力をのばしつつあったと言っていいだろう。


 その勢力が頂点に達したのは、陳勝が派遣した将軍周章しゅうしょうが、ついに函谷関かんこくかんを破った時である。


 険しい山々に囲まれ、東に函谷関、西にろう関、北にしょう関、南に関という四つの関所に守られた天然の要害の地を古来から「関中」という。現在の陝西省渭水盆地がこれにあたり、秦の国都、咸陽もここに位置していた。

 秦の建国以来、函谷関を始めとする関所が破られた例はなく、そのため周章軍の来襲は、秦の宮廷を混乱に陥れた。これは二世皇帝胡亥の耳にも入り、すでに政務に興味を示さなくなっていた彼が、焦って臣下に対処を促したほどである。

 これを由来として「周章」という語は「慌てる」という意味になった。「狼狽」という仮想の動物を意とする語を付け加えて、その意を強調する。


 しかし結果から言うと、周章軍は撃退された。秦に新たな将軍が任命されたからである。その将軍は、もともと少府と呼ばれる徴税官の職に就いていた男で、名を章邯しょうかんといった。


 章邯は、麗山りざんで始皇帝の陵墓を造営している囚人に大赦令を出させ、これを軍として組織することを提案した。むろん章邯のような、たかだか徴税官ごときが皇帝に直接ものを言える立場にはなく、献策は宦官の趙高を通して行われたのである。


 章邯の意見は聞くべき価値があったが、完全とはいえない。兵は組織できても、それを率いる将がいないのである。李信や王翦などは過去の人であり、人事に困った皇帝は趙高に判断をゆだねた。


 趙高はいやらしい男であった。いや、正確には宦官なので男だともいえない。

 このときの章邯のように、非常時であるのを理由に、皇帝に献策などをする者が現れることを趙高は嫌った。それによって自分より政治的に優位な立場に章邯が立つことを憂慮した趙高は、章邯自身を将軍として兵を統御させることを説き、これを認めさせることに成功したのだった。

 つまり、戦乱の中で章邯が敗死することを望んだのである。


 そんな趙高の思惑とは裏腹に、将軍に任じられた章邯は、よく務めを果たした。このとき麗山の労役から解放されて章邯の指揮下に入った囚人の数は二十余万と言われているが、彼はよくこれを統率し、周章軍を関の外へ追い出すことに成功した。さらに副将に司馬欣しばきん董翳とうえいを得た章邯は関外へ撃って出て、周章を敗死させることになる。


 陳勝の勢力はこれを機に、かげりを見せ始めた。


 二


 故郷の淮陰を守ったという高揚感は、韓信にはない。あったのは後悔の念ばかりである。

 求めに応じたとはいえ、自分がとった行動は、あと先のことを考えない軽はずみなもののように思われ、彼としては自分の馬鹿さ加減に吐き気がしてくるのだった。


 雍昌を撃退することは陳勝を敵に回すことである。そんなことがわからない自分ではなかったが、あの時は心ならずも血が騒ぎ、戦ってみたいという誘惑に勝つことができなかった。

 雍昌を仕留めた時のあの感覚……それは、弓の練習で的の中心に矢を当てた時の感覚に似ており、鳥肌の立つような快感だった。

 ――先生、私は酷薄な人間なのでしょうか……もし、先生が私をそのように育てたのだとしたら、お恨み申し上げます。

 ――いや、そんなはずはない……これはきっと私が生まれ持った性格なのでしょう。だとすれば、誰を恨みようもない……。

 ――もはや先生はこの世にいない。私は自分で自分を育てなければならないのだ。


 韓信の憂鬱は自分の行動が淮陰を危機に陥れたのではないか、という不安から端を発している。

 しかし、そんな韓信の思いとはよそに、その後の淮陰は大きな戦渦に巻き込まれることはなかった。というのは、陳勝その人に危機が迫っていたからである。

 きっかけは陳勝軍に起こった内訌であった。


 陳勝とともに兵を挙げた呉広はこのとき滎陽けいよう城を囲んでいたが、なかなかこれを抜くことができず、攻めあぐねていた。その様子を見ている呉広の配下の兵たちは、次第に上官の用兵に疑念を持つようになり、謀議の結果、反乱を起こして呉広を殺害してしまった。


 これを受けて陳勝はかわりの指揮官を立てて滎陽を攻めさせたが、このとき現れたのが秦の将軍・章邯である。

 章邯によって陳勝軍はさんざんに撃ち破られ、ついには陳勝自身も危機に陥り、逃避行にはいった。しかし、そのさなか陳勝は自分の馬車を操縦する御者に裏切られ、殺されてしまう。


 史上初の農民反乱である陳勝呉広の乱は、事実上、ここに終結した。


 三


 陳勝の死を韓信は知っていたわけではなかった。そもそも韓信は、きわめて局地的ながらも陳勝軍の一派を撃破してしまっているので、陳勝のもとに馳せ参じるわけにはいかなかった。


 また胡散臭い自称王たちがはびこる魏や趙、あるいは斉などのために戦う義理もなく、自然、選ばざるを得なかったのが、項梁の軍である。このとき項梁軍は兵数七、八万の勢力となり、陣容からいっても陳勝なき後、楚の名を継ぐにふさわしいものであった。


 決して本意ではなかったが、容儀を正し、それでいて卑屈になり過ぎないよう、威風堂々とした態度で項梁のもとへ馳せ参じた韓信であったが、彼のために用意されたのは、一兵卒の位でしかなかった。


 ――一兵も引き連れていないのでは、仕方のないことか。

 納得はしても、残念な気持ちは抑えられない。

 ――兵とは、戦乱のために存在するものだ。私は、戦乱を終わらせるために身を投じたのだが……兵卒では戦乱に決着をつけることはできない。誰か、早く私の本質を見抜け。


 彼には自分の考え方が途方もなく常識を外れていることはわかっていた。誰が人をひと目見ただけでその才能を見出すことができよう。彼にできることは、せいぜい戦場でできるだけ多くの敵兵を撃ち殺すことしかないように思われた。


 しかし、それさえも叶わなかった。韓信が項梁軍に身を投じて最初に課せられた任務は、秦嘉しんかという将軍に擁立され、陳勝の跡をついで張楚王となった景駒けいくを討つことだった。


 ――秦を討つのではないのか。相手は楚人同士、友軍ではないか。

 韓信は思ったものの、彼にできることは、何もなかった。結局韓信は一兵卒として戦場へ赴き、一概に敵とはいえない敵を何人か撃ち殺した。


 この時の韓信の働きぶりは、良いとも悪いともいえない。

 執拗に抵抗する敵をその長剣で斬り殺したと思えば、形勢不利と見て逃げ出した者は追いかけもしなかった。懸命にやっていると見せかけ、手を抜けるところは抜いた、というところだろう。

 しかし、戦場という死地のなかで、自然にそんな芸当ができるということこそが、韓信という男の凄みであっただろう。凡人であれば、自分が生き残るために必死にならざるを得ない。


 結局韓信が本気を出すこともなく、戦いは終結した。結果は圧倒的な項梁軍の勝利である。


「陳王(陳勝のこと)は敗戦し、生死のほどもわからないが、これをいいことに秦嘉などが景駒を王としてたてるなどは大逆無道というしかない」

 張楚を討つにあたって項梁が残した言葉である。

 ――詭弁だ。

 と韓信は思った。

 もし陳勝の死が明らかであったとしても、項梁は景駒が王を称するのを許さなかっただろう。景駒の兵をあわせ、自分が楚の頭領となる都合の良い理由付けに他ならない。

 韓信は着任早々、上官に不信感を抱いた。



 続いて韓信に与えられた命は、せつへ向けての遠征軍に加わることであった。

 その目的は、敗軍の将の誅罰であった。


 ――また、味方を討つのか。いったい何なんだ?

 この時の敗軍の将は、名を朱雞石しゅけいせきといい、章邯がりつ(地名)に現れたことで、項梁の命にしたがってこれと戦ったが、敗れたのだという。同僚の将は戦死していた。敗れただけでも罪なのに、同僚が戦死したなかで逃げ延びて生き残ったことは充分に誅罰の対象となるのだった。


 章邯の噂は韓信の耳にも入ってきている。

 ――章邯は当代随一の将軍だと聞く。私の見る限り、とても項梁などが敵う相手ではない。まして部下の朱雞石に敵うはずがあろうか。そもそもそんな相手には全軍で当たるべきなのに、兵力を細切れにして当たらせたのは、項梁の指揮のまずさだろう。


 このとき韓信は罪を得て死ぬべきなのは項梁だ、とまで思った。しかし、思いと行動は一致せず、実際に行ったのは味方の兵を殺して回ることであった。


 韓信は自分が何をしているのか、よくわからなくなった。


 四


 項梁は矮小な男であり、外見的には他者を威圧する風格はないといってよかった。それでも彼のもとに諸国の豪傑が集まるのは、ひとえに彼の持つ貴族としての血脈が影響している。


 豪傑たちは人づてに項梁の噂を聞き、そのもとへ集まる。しかし、まるで風体の上がらない項梁の姿をひと目見て、落胆するのが常であった。

 ――こんな男のために命をはれるか。

 項梁の容姿を見た者の大半はそう思う。

 だが、項梁の傍らに常に控えている大男を目にして、その考えを改めるのが常であった。


 韓信もその大男を見た。その男は身の丈が八尺(当時の一尺は約二十三センチ)もあり、胸板は厚く、手足も太く、長かった。眼は鋭く、口はへの字に結ばれ、全体的に鷹や鷲のような猛禽類を連想させた。


 ――単なる護衛にしては、主人よりも風格がありすぎる。

 そう思った韓信が伝え聞いたところによると、この大男こそが、項羽であった。


 項羽は、名を籍といい、羽があざなである。

 項梁の甥に当たり、これは同時に項燕の孫であることを意味した。幼少の頃から気性が荒く、邑の者はみな項羽をはばかり、彼が通る時は道をあけたという。


 韓信はこの種の手合いが嫌いである。暴虐の臭いを振りまき、他者を威圧する者を見ると、内心で嘗められてたまるか、と思うのである。

 しかし人を見かけで判断してはいけない、ともいう。あるいは外見と実際は違うこともあるかもしれない、と韓信はほんの少し期待を抱いたが、その期待は瞬く間に崩れ去った。

 なぜなら項羽は見かけ以上に行動が残忍だったからである。


 項梁の命によりじょう城の制圧に赴いた項羽は、城中の市民が反発したことでその攻略に手間取り、城を陥とすのに予想以上の時間を労した。

 やっとのことで襄城を落城させることに成功した項羽は、腹いせに城中の老若男女すべてをこう(穴埋め。生き埋めのこと)してしまったという。

 始末に負えないのは、それを項羽自身があたかも武勇伝を語るがごとく、自ら触れ回って歩いていることだった。


 ――城中の市民などは、城主に命じられて抵抗しているに過ぎない。思うに項羽という人は、線引きするように敵・味方の区別をつけなければ気が済まないたちなのだろう。


 韓信は心の中で、項羽に「殺し屋」というあだ名をつけた。

 それは明らかに侮蔑を込めたものであった。

 自分は属する組織を誤ったのではないか、と彼は感じた。というのも敵の将軍の方が武人として優れている、と韓信は思っていたからであった。


 五


 秦将章邯の進軍は留まるところを知らない。彼が二世皇帝に奏上して囚人たちを兵として組織し、函谷関から出撃したのが、紀元前二〇九年の冬のことである。章邯は周章を撃退して死に至らしめた後、滎陽、敖倉ごうそうを囲んで陥とし、陳勝を死に至らしめた。

 そして紀元前二〇八年の八月には本格的に自称王たちの撃滅に取りかかる。


 まず最初に標的となったのは魏王咎であった。

 臨済りんせい(地名)に包囲された魏咎は斉・楚それぞれに救援を依頼し、斉王田儋はこれに応え、自ら兵を率いて出陣した。しかし、楚の項梁はほんのわずかの軍を送ったに過ぎなかった。


 ――なぜ、項梁は行かぬ。

 韓信の不満は爆発寸前になった。大事なのは兵力を集中させて章邯率いる秦軍を取り囲むことであり、兵力を逐次投入させていては各個に撃破されるだけであろう。それがわからぬ項梁ではあるまい。


 ――理由はわかっている……項梁は反乱勢力の頭目になることが目標だからだ。魏や斉、趙の王がそれぞれ章邯に敗れることをひそかに願っているに違いない。項梁は、思っていたより馬鹿だ。

 他の王国が秦に滅ぼされる間に、楚は周辺を制圧し地盤を強化しようという考えは、わかる。しかし秦が諸国を制圧すれば、その勢力は楚をまさるに違いないのだ。


 章邯は臨済に終結した斉・魏の連合軍(わずかながら楚軍も混じっている)を夜半に襲撃した。

 彼は、兵士や馬の口に声をたてないよう「ばい(木片のこと)」をくわえさせ、静かに臨済を包囲したのち、突入させた。あっという間に戦況は決し、斉王田儋は乱戦の中で戦死した。斉軍は散り散りとなったが、どうにか田儋の従弟の田栄に率いられ東阿に逃れることとなる。この結果、孤軍となり、意を決せざるを得なくなった魏王咎は不本意ながら秦に降伏を申し入れることとした。

 人民の安全を保証するために約定をかわし、それが成った後、魏咎は自ら火中に身を投じ、焼身自殺を遂げたのだった。


 ――敵ながら、鮮やかと言うしかない。

 一回の戦いで二人の王を滅ぼした章邯の武勇は、尊敬するに値した。なんのために戦っているのかわからない項梁などとは、比べものにならない。

 

 

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