少年期

 韓信は幼少の頃から苦境に立ち、それでいながら人に助けを求めることが少なかった。これは容易に人を信用しないという彼の性格のあらわれかもしれないが、真相は逆である。彼は心の底で、求めずとも誰かがそれを察して助けてくれることを望んでいた。しかし、少年の頃の韓信には、それが自分の甘えであることを思い知らされる出来事が相次いだのである。


 一 


 韓信の母はもともと寡黙な女性であったが、たまに誰に言うでもなく、不満をこぼした。

「烈士を気取って、寿命を縮めるようなことをしても、なにもならない」


 韓信はその言葉を何度か耳にしたことがあったが、その当時幼かったこともあり、誰のことを言っているのかよくわからなかった。

 しかし思い返してみると、それが父のことを言っていたことがわかる。


 韓信は父のことを義の人だと思っていたし、母親も彼に父のことを話して聞かせるたびにそう説明した。

 自らの命よりも友誼を重んじ、家族を顧みることなく死んだ人だったと話して聞かされたが、やはり思い返してみると「家族を顧みることがなかった」という部分に多少恨みがましい言い回しがあったようにも思えた。

 事実、残された妻は韓信を養うために働きに出ねばならず、夫の仕事をそのまま引継いで畑仕事をしたりした。彼女は決して体力がある方ではなかったが、母親らしく息子を守ろうと懸命に働いたものだった。


 そんな状態が五年も続いたころ、栽荘先生は韓信を相手に彼の母を評して言った。

「信よ、おまえの母親はよく働いているが、わしは心配でならない。生前おまえの父は妻を人前に出さないよう、気をつけていた。大事にしていたと言った方がいいかな……。しかし、夫に先立たれては、外に出て働きに出るのも仕方のないことだろうて」

 これを聞いた韓信は、例によって幼かったのでよく意味がわからなかった。栽荘先生が自分に対して話しているのかさえもよくわからず、きっと独り言を言っているのだろうと思い、そのうちに忘れてしまった。


 母が働いてばかりなので、韓信は栽荘先生のもとに預けられてばかりだったが、不満はもらさなかった。口数も少なく、幼児特有のうっとうしさがない。落ち着きがあると言えるかもしれないが、どちらかといえば子供らしくない、と言った方がいいだろう。

 可愛げがないと言い換えてもよく、傍目からはあまりなにを考えているかわからない子供だった。よって、友人は少なかった。

 しかしこの時代は戦乱期であり、子供たちを奔放に外で遊ばせておけるほど治安が良かったわけではないので、友人が少ないのは韓信に限ったことではない。


 だがそんな韓信でもまったく友人がいないわけではなかった。

 栽荘先生のもとで韓信と席を並べて学んだ同年代の子供がおり、名をまつといった。伊盧いろという地に生まれた彼は、姓を「鍾離しょうり」と称している。これは当時の寿春の北東、淮水沿いにある地名に由来するが、しかし眛自身が鍾離出身だということではなく、遠い先祖に鍾離の豪族を持っているということを意味している。つまり、彼は韓信より若干育ちが良かった。


 鍾離眛は韓信と違い、聡明さが表に出るタイプの子供だった。美童であり、その性格は活動的だった。少々陰気な印象の韓信が横にいると、さらにその差が際立つ。

 あるとき栽荘先生が二人に問うたことがあった。

「秦が天下を統一してから大体十年が経ったな。最後に残った斉が降伏して戦乱の世は終わったわけだが……秦の統治は厳しく、そのため長く泰平の世が続くとは思えん。いずれ世はまた、乱れるであろう。乱世じゃ。そこでおまえ達がそのような乱世をどうやって生き抜くつもりか、将来の展望を聞いておきたいが、どうだ?」

 即座に鍾離眛は答えた。ふたりのうち先に喋るのは、常に眛の方である。

「私は、兵になります。それも屈強な兵となって、邑を守り、家族を守り、愛するすべてのもののために戦ってみせます。そのためには死を恐れません」


 実に少年らしい意見である。栽荘先生はこれを聞いて微笑したが、さほど感銘を受けた様子はなかった。

 いかにも鍾離眛らしい意見だったからである。かえって韓信の方が何を言うか、興味深いようだった。

「信、おまえはどう思う」


 韓信はしばらく考えていたが、やっと口を開いて答えた。

「決して兵にはなるな、といつも母親から言われています。だから私は兵にはならないでしょう。今、眛はあらゆるものを守るために死を恐れぬ、ということを申しましたが、私の考えは違います。どんなに意気込んでみせても、死んでしまっては、何も守れません。……兵となり戦って敗れ、その死体を原野にさらす、ということを美しい行為だと思うのは、私に言わせれば自己満足の極みです。いくら美化してもその多くは無駄死にに過ぎず、国のために死んでも報われることはなにもありません。だから私は乱世になって、どうしても戦争にかかわらなければならないとしたら、思い切って将になりたいと思います」


 栽荘先生はこれを聞いて、笑った。韓信を馬鹿にした笑いではない。手厳しく現実をずばりと言い抜きながら、その後の論理が飛躍しているその二面性に、いかにも韓信らしさをみたのである。

 鍾離眛も笑いながら言った。

「おまえや私のような平民が将になるには、兵隊から成り上がるしか道はないのだぞ」


 これに対して韓信はなにがそんなにおかしいのか、とでも言いたげな顔をして答えた。

「それは、わかっている。しかし、兵では世を変えることはできないし、だいいち、私は死ぬのが嫌だ。だから実を言うと、将来なにをすべきかがよくわからないのだ」


 眛には自分の考えを韓信に否定されながら、怒った様子はない。

 彼は無意識ながら韓信のことを一段下の人物と見ているようで、このときも物わかりの悪い弟にでも言うような口調で諭し始めた。

「おまえは無駄死にだとか、兵では世を変えられないとかさかんに言うが、要するに死ぬのが怖いだけだ。死の恐怖を乗り越え、兵士として生き残ることができた者のみが、将となりうる。臆病な将に兵がついてくるものか」


 これに対し、韓信は奮然として答えた。

「私が将となった暁には、味方の兵を死なせない。そのくらいの気構えはあるつもりだ」


 栽荘先生はふたりの議論が熱くならないうちに、水を差した。どのみち答えなどない議論である。

「よいかふたりとも。よい兵や将になるためには、ただ武芸に達しているだけでは充分ではない。よく学問してあらゆることを論理的に考えられるようにならなければならん。おまえ達にはまだ時間がある。よりいっそう学問に励め」


 栽荘先生はそう言ったものの、ふたりの将来に不安を感じた。

 鍾離眛は、現実の良い面しか見ない傾向がある。覇気はあるが、確固とした自分の意志というものが足りないように感じられた。

 韓信は学問、武芸とも能力は非の打ち所がなく、幼年ながら兵書の内容は暗誦できるくらいである。しかし、それを生かすために自ら行動する勇気に欠けると感じられた。


 子供とはいえ、人はさまざまなものだ、と栽荘先生は二人を見る度に思うのである。



 二


 韓信は虚勢を張る、ということがなかった。できることとできないことを冷静に判断し、自分の将来についても夢想することはない。同じ年ごろの鍾離眛などには、韓信のこのような姿が、実につまらない男にうつるのである。

「男として生まれたからには、もっと気宇壮大であるべきだ。信、おまえは意気地がなさ過ぎる。家宝の剣が泣くぞ」

 鍾離眛のいう剣とは、韓信の父が城父より持ち帰った、あの長剣のことである。

 韓信はこの剣がむしょうに好きで、幼いころは背中に結びつけて持ち運んでいたが、ようやく背丈が伸びてきたこのごろは、腰に帯剣するようにしている。しかしまだ充分に成長していないので、長すぎる剣の鞘の先が地面にあたり、がちゃがちゃと金属音を奏でることが多かった。このため韓信が通りを歩くと、姿が見えなくても人々は音でわかったといわれている。


 しかし韓信の母は、息子が剣を持ち歩くことを好まなかった。

「大切なものなら、大事にしまっておきなさい。見なさい、鞘の先が傷だらけではないですか」

 と、小言を繰り返すのだった。


 これに対して韓信は、父親ゆかりの剣を持つことで、父と一緒にいる気持ちになれる、などということは言わない。彼が言うのは、外を歩いていると何が起こるかわからない、自分は年若く腕力も充分ではないので、いざというときには剣で対応するつもりだ、ということであった。

 どんな価値のある剣でも大事にしまっておいたのでは、その価値を発揮できない、剣というものは人を斬るためにあるものだ、と淡々と語るのである。その口調にも内容にも、少年らしさはあまり見受けられない。

 そのような息子の考え方に危険を感じた韓信の母は、父親がどんなに温厚な人物であったかを話して聞かせ、父が剣を持ってきたのは、息子に人を斬らせるためではないと説明した。


 それに反論するように、韓信は言う。

「私はもう何年もこの剣を持ち続けていますが、未だかつて人を斬ったことはありません。どうしてだかお分かりですか。私がこの剣を持ち歩いていることで、私に危害を加えようとする者がいないからです。剣を持つことで人を斬らずにすむ。父上がこの剣を私の護符にした、という意味が……今ではよく分かります」


 母は、おまえのように綿もはいっていない貧相な服を着た者を襲っても何も出てこないことがわかっているから、人はおまえを襲ったりしないのだ、と言い、大げさに物事を考えずにもっと人を信用するものだ、とさとした。


 後年になって韓信は母親との会話を悔恨の念を持ってよく思い出した。あのとき守るべきは自分の身などではなく、母親の身だったのだ。


 世の中にはよい意味で年齢不詳の人がいつの時代にもいるものだが、韓信の母がまさしくそれで、年齢や出産、あるいは労働の苦労を外見からはまったく感じさせない美女であった。

 美女といっても、王宮にいるような高貴な存在ではなく、彼女自身が息子に語ったように、綿もはいっていない服を着ているような庶民的なものである。決して近寄り難い雰囲気を持っているわけではなかった。

 邑のなかのいつまでたっても可愛い娘、といったところだろう。

 本来であれば、こういう女性は「箱入り娘」としてめったに外に出さないのが本人にとっても保護者にとっても安全な道だったし、実際に韓信の父は外に出るのはいっさい自分の役目として、妻は文字通り奥方として不必要に人目にさらさないよう気遣っていた。


 ところが夫の死によって、韓信の母はいつまでも奥にいるわけにもいかなくなり、外に出て働くようになった。

 だが、人前に出るようになると、悪意の目も避けられない。

 儒教が国教になるのはまだまだ先で、仏教が伝来するのはさらに先の未来である。個人の道徳観が希薄な時代だった。


 ある日、韓信の母は、小作している畑の脇の草むらで、二人の男に犯された。


 よくは思い出せない。農作業中に見知らぬ二人の男に襲われ、必死に逃げたが、下草に足を取られてつまづいたところで捕まり、馬乗りに抑えつけられた。もう一人に両腕を抑えられ身動きできなくなると、そこから乱暴に……。

 抵抗しようとして逆に顔を殴打されたところで、気を失ってしまった。しかし、意識がまったく無かったわけではない。

 二人の男が交代で何度も自分を犯すのが感じられた。とすれば自分はただ恍惚状態に陥っていただけではないか、とも思う。だとすれば、恥ずべきことだった。


 夕暮れ近くなり、ふと我に帰ると、一糸もまとわぬ姿で草むらの中に寝そべっていた。傍らにあった衣服はどうしようもなく破れていたが、何もないよりはましだったので、それを身に付け、走るようにして家に帰った。


「信には知らせないでおくことだ。あなた自身も忘れるしかない。つらいことだが犯人の顔かたちも思い出せないというのであれば、恨みを晴らすのも難しいだろう。あまり思い詰めず、今まで通りに過ごしなさい……そのほうがいい」

 相談を受けた栽荘先生は、この件に関してはあまり気の利いたことも言えずじまいだった。

「……さて、悲しいことではないか」 

 などとと言って、嘆息するしかなかった。


 翌日になって、韓信が珍しく自分から話しかけてきた。

「先生、母の様子がおかしいのですが……お心当たりはないですか」


 栽荘先生は、いや、わからんとしか答えようもなく、夜通し泣いておられるのです、という韓信の訴えに心を動かされはしたが、実際に言ってやれることは何もなかった。

 翌日も、その翌日も韓信の報告は続き、栽荘先生もこのままでは自分の方が気狂いするのではないかと不安になった頃に、韓信がいつもとは違う内容の報告をした。

「先生、母の姿が見えないのですが……なにか聞いておられませんか」

 韓信は母の帰りを待ちながら、一晩ひとりで過ごしたと言った。行き先にも心当たりがなかった栽荘先生は、またしてもかけてやるべき言葉が見つからず、そのまま時が過ぎていった。


 それからほんの三日後に鍾離眛は、邑の水路から女性の水死体が引き上げられる場面に遭遇した。

 ――あれは、信の母ではないか。

 不審に思った鍾離眛は、急いで栽荘先生のもとに走ってことを伝えようとしたが、都合悪く韓信もそこに居り、なかなか話が切り出せない。仕方なく耳打ちして知らせると、先生は目つきを変え、

「なぜ、もっと早く言わぬ」 

 と大声を放ち、現場に急行した。むろん、韓信を連れてである。


 そこで彼らが目の当たりにしたのは、韓信の母の変わり果てた姿だった。

 日頃、物事にあまり興味を示さない韓信だったが、この時は目を伏せ、しゃがみ込んで泣いた。

 ――こいつでも、泣くことがあるのか。

 鍾離眛は思い、普段のように前向きな言葉もかけられなかった。


 いっぽう、泣きながら栽荘先生から事件の真相を聞かされた韓信は思った。

 ――秦の政治は、法家主義だというが、手ぬるいではないか。

 韓信はこの事件から、以前にもまして、容易に人を信用しなくなった。


 三人は韓信の母のなきがらを邑が見下ろせる高台に運び、そこに小さな墓を作って葬った。



 三


 栽荘先生は、韓信に対して申し訳なさそうに言った。

「わしは、おまえに学問や武芸ならいくらかは授けてやることはできる。だが残念ながら、おまえを食わせてやることはできない。お前が好きなとき、いつでもここには来てもらって構わないが、まずおまえは城市にでも行って職を探せ」


 このころ、韓信はまだ若かったが、働いてもおかしくはない年ごろだった。それをいいことに、突き放されたのである。

 とはいえ栽荘先生を責めることはできないだろう。栽荘先生が見るに、韓信はまだ世慣れしていない感があり、それには社会に揉まれることが一番だと思っていたのである。突き放しはしても、見放したわけではなかった。

 しかし栽荘先生のそのような思惑とは裏腹に、韓信のその後の生活は、著しく精彩を欠いた。

 職を探せと言われても、何をするべきかわからず、ただ市街をうろつきまわり、それに飽きると木陰に入って昼寝をする、という有り様である。

 盗みを働く勇気もなく、ちょっとした知り合いを見つけては飯を分けてもらったり、小銭を借りたりして当座をしのいだ。当時の人々は、街で韓信の姿を見ると厄介な頼まれごとをされぬよう、身を隠すようになった。


 そのようなその日暮らしの生活を続けながら、ふらふらとあてもなく歩き続け、下郷かごう南昌なんしょうという街にたどり着いたところ、その街の亭長の世話になることになった。


 亭長とは、簡単に言えば街の世話役のことで、れっきとした役人である。地元で採用された吏員であり、警察の仕事をしたり、あるいは中央から役人が出張してくると、宿場を提供したりするのが主な務めであった。

 ちなみに亭とは秦の部落の単位のひとつであり、その最小の単位が里で、十里が一亭、十亭が一郷と呼ばれる。よって韓信がたどり着いたこの街は、淮陰県下郷南昌亭ということになる。


 その南昌の亭長が亭内を見回っているときに、路傍に横たわる韓信の姿を見た。

 実は韓信は昼寝をしていただけだったのだが、いたく心配した亭長は連れ帰って世話をすることにした。人手が足りなかったこともあって、下働きさせようと思ったのである。

 韓信はそこそこに仕事の手伝いはした。しかし成長期ということもあり、食べる量が実に多い。亭長にとっては採算が合わなかった。こういうことは男性より女性の方が敏感で、韓信のことを煩わしく思うようになった亭長の細君はわざと朝早く飯を炊き、韓信に悟られぬよう自分たちの寝床で食事をとるようにした。韓信が朝起きてくると、もう食事はない。


「出て行ってもらいたいのなら、嫌がらせなどせずにはっきり申せばいいのだ」

 韓信は捨てぜりふを吐いて出て行った。絶交したのである。


 息巻いて飛び出したものの、どこにも行く当てのない韓信は、結局戻ってきて淮陰の城壁の下で食を得るために、その辺の木の枝を竿にして魚を釣って暮らしていた。

 ――我ながら、やるせない暮らしぶりだ。

 そう思いながら釣り糸を垂らしていると、城下を行く民の噂話がふいに耳に入った。

 ――皇帝陛下が、この近くを通る。

 秦の皇帝が旧楚の地を巡幸する、というのである。


 皇帝とは、他ならぬ始皇帝であり、これが即位してから五回目の巡幸であった。


 巡幸とは皇帝の威信を見せつけるための行為であり、これにより戦国諸国の旧貴族たちの反抗心を抑えつける目的で始められた、とされている。そのため巡幸の行列は豪勢なもので、先導車のあとには始皇帝専用の車両(轀輬車おんりょうしゃ・窓を開け閉めすることで車内の温度調節ができる)が豪勢な装飾を施して続く。その後ろには並みいる高級官僚の車列、そして合計で八十輛からなる戦車が続いた。これらの車列のそれぞれに数十人の歩兵が護衛としてつき、総勢で千五百人ほどの大行列であった。

 皇帝の威風を天下に示すための行列であったが、その反面、民はこの行列を直接見ることはできない。卑賤の民は行列が通るあいだ、地面にひれ伏さなければならないからだ。

 見せつけなければならないのに、見ることを許さないとは矛盾しているようだが、人民に畏怖の念を起こさせるには、見てはならないものが目の前を通り過ぎる、というのは絶大な効果があったに違いない。

 それでもちらりとその姿を見た者は何人か存在した。


 たとえば沛の人、劉邦は秦の首都咸陽で徭役している際に行列に出くわし、

「男と生まれたからには、ああなりたいものだ」

 と純朴な感想を述べた。


 またこれよりのち、行列が会稽かいけい(春秋時代の越国の首都。五回目の巡幸で旧楚の領地を通過したあと始皇帝はこの地に達している)に達したころ、項羽という青年は、

「彼は取って代わるべきだ」 

 と述べ、その結果、叔父の項梁にたしなめられている。始皇帝が誰に取って代わるかが問題だが、後年の彼の行動を考えれば、これはまさしく自分のことを指しているに違いなかった。


 韓信も始皇帝の巡幸には興味をそそられた。

 ――見に行ってみるか。

 と思ったが、旅先で食料を得るのはおそらく今より大変なことだろう。


 ――行ったところで、皇帝が飯をくれるわけでもあるまい。

 結局、ふてくされて、釣りを続けた。

 ――ろくに飯も食えない状態では、歩き続けるのもつらい。もう当てもなく歩くのはたくさんだ。いっそのこと私は、ここで一流の釣り師になってみせよう。

 と埒もないことを考えたりするのだが、実際には魚はほとんど釣れなかった。


 結局そのまま座っていると、何やら老婆の集団がぞろぞろとやってきては、小川に綿をさらし始めた。

「ここでそんなことをされると、魚が釣れないではないか。もう少し下流の方でやれないものか」

 韓信は半ば哀願するように言った。

 すると老婆の中の一人が、あんたには魚なんか釣れやしない、食うものがないのだったらしばらく面倒を見てやるからうちに来るがいい、と言うのである。

 老婆は韓信の着ているものや、釣り竿があまりに粗末なものだったのを見て、にわか釣り師だと見抜いたのだった。

 老婆は綿うち作業が終わるまでの数十日という短い間だったが、韓信におおいに飯を食わせた。

 別れ際に韓信は、

「この恩は忘れぬ。いつかきっと婆さんには恩を返してみせる」

 と、無邪気に喜んで言った。

 平素他人に打ち解けた態度をとることがないこの男にしては珍しいことであった。純粋に人の好意に触れてうれしかったのであろう。


 ところがその綿うち婆さんは、

「生意気言うんじゃないよ。図体ばかりでかくて自分の世話もできないくせに。わたしゃ、あんたがあんまり貧相なもんだから食事をあげたまでだよ。誰がお礼なんぞ当てにするものか。まったく、でかい剣を下げてかっこうだけつけているくせに」 

 と怒り調子で、最後には鼻で笑うような態度で韓信を追い出したのである。韓信は、愕然とした。


 ――私が礼を言うだけで怒るとは、この婆さんが私を自分より下に見ているということだ。なんとも情けないことよ。

 韓信は思ったが、よく考えてみれば自分があの婆さんより上の存在だとは断言できなかった。自分は施しを受けて生きている男に過ぎず、きっと婆さんには新手の物乞いのように見えたことだろう。


 ――自分は物乞いではないつもりだが、あるいは世間では自分のような者を物乞いと呼ぶのかもしれぬ。

 そう思ったのであえて反論はしなかったが、韓信は婆さんを厳しい目で睨みつけ、その場を立ち去った。

 この件で韓信は少なからず傷つき、その日から衣服は清潔なものに取り替え、市井の者に舐められないように、胸を張って歩くようにした。


 そして、腹が減っても釣りだけはしないようにつとめたのである。



 四


 五回目の巡幸の途上で、始皇帝は卒した。


 とはいってもそれを知っているのは、巡幸に同行していた宦官の趙高ちょうこう、丞相李斯りし、そして始皇帝の末子の胡亥こがいの三名のみである。もっとも皇帝の身の回りの世話をする宦官のうち数名は事実を知っていたと思われるが、数には含まれてはいない。趙高も宦官ではあるが、彼だけは別格なのである。


 皇帝一行は楚の土地を過ぎ、会稽まで達して進路を北に取り、海岸線づたいに北上して山東半島をぐるりと回り切ったところから、内陸に入って帰路をとろうとした。

 ところが内陸に入って間もなくの平原津へいげんしんという地で皇帝は病を得、そのまま治癒することなく沙丘の平台(現在の河北省広宗県のあたり)という地で崩御した。


 首都の咸陽は遠く、この時点で皇帝の死が世間に知れ渡ると、諸国の反乱分子が彼らより早く首都に流れ込む危険が高い。彼らは皇帝の死を秘密にし、巡幸の行列が咸陽に達した時点で喪を発しようと決めた。

 そこまでは順当だが、問題はそれからである。


 始皇帝は始終不老不死を願い、そのためには水銀を薬として飲んでいたほどであるが、このときばかりは自分の死期を確信し、息子のひとりである扶蘇ふそという人物にあてて遺書を残していた。

「咸陽にて朕の葬式をせよ」

 という一見漠然とした内容だったが、葬式を主宰させることは正式な跡取りとして認めた、ということなのである。

 これにより次期皇帝は扶蘇と定められた。

 この遺書は詔勅として封印され、宦官の趙高に預けられた。しかし趙高がこれを使者に持たせて扶蘇のもとに送る前に皇帝が崩じたことから、彼の暗躍が始まる。

 このとき、扶蘇は咸陽にいない。

 彼はこれより少し前、父親の始皇帝に焚書坑儒ふんしょこうじゅ(儒学者たちの書いた書物を焼き、また彼らを生きたまま穴埋めにした弾圧行為のこと)の件で諫言したことが原因で、はるか北方のオルドスの地で匈奴と対峙している蒙恬将軍のもとに軍監として編入させられていた。


 左遷されたような人事であったが、実は始皇帝は扶蘇に期待をかけて武者修行の場を与えていたのである。


 しかし、趙高にとっては、扶蘇が皇帝になっても何も変わらなかった。

 せいぜい自分は今と同じ裏の存在のままだろう。宦官でありながら表の世界で活躍するには、自分の扱いやすい人物が皇帝である必要があったが、扶蘇と趙高は特に親しい間柄ではない。

 そこで白羽の矢が立ったのは末子の胡亥であった。


 趙高は胡亥の家庭教師であったことから胡亥の扱いには慣れており、説得もしやすい。都合のいいことに胡亥はこのたびの巡幸に同行していたので内密に話も進めやすかった。

 胡亥は「義」や「孝」の論理で趙高の説得に激しく反対したが、最後には結局折れた。

 そこで趙高は自身の預かる始皇帝の遺書を破棄し、胡亥を次期皇帝にする偽造の遺書を作製することに決め、それを丞相李斯に伝えた。


 李斯が反対したのは、言うまでもない。

 彼には胡亥が皇帝にふさわしい人物とは思えず、それ以上に、皇帝付きの宦官ふぜいが帝国の運命を左右しようとするのが気に入らなかった。始皇帝が天下を統一できたのは、李斯の政策によるものが大きく、彼はもちろんそれを自負していたのである。

 秦は法治主義を充実させ、封建制を廃して郡県制を採用し、政治を脅かす思想家たちの書をあまねく焼き払い、その思想家の信奉者たちをことごとく穴に埋めた。

 そのどれもが李斯の献策によるものなのである。


 ――秦の皇帝とは、私の政策を実現できる者にのみ、その資格がある。

 という自負心があっても、それを驕りだとは言えまい。事実その通りだったからである。

 ただ李斯という男にはその自負心が強すぎるきらいがあり、他者と相容れない欠点があった。


 かつて韓非子かんぴしという優れた法家の権威ともいうべき人物がいた。李斯と韓非子は同門の間柄で、ともに荀子じゅんしのもとで学んだ旧知の仲であった。

 韓非子は法の理論を完成させ、始皇帝はその著書を読み、いたく感動して秦に招き入れたという事実がある。

 しかしその際に李斯は自己の立場が軽んじられることを危惧し、奸計を用いて彼を毒殺してしまう。韓非子が秦に入国して早々の早業だった。

 李斯には自分より優れた人物に対する恐怖心がある。そこに趙高のつけいる隙があった。

「扶蘇さまの後ろ盾には名将である蒙恬どのがおられますな」

 李斯は胡亥と同様、再三の趙高の説得に抵抗したが、最終的にそのひと言で決まった。

 蒙恬は匈奴征伐で功績があり、始皇帝にもその能力を愛された、すぐれた軍人である。その彼が扶蘇を擁して咸陽に戻って来た暁には、自分は除かれるに違いない。では、事前にこちらから除いてしまおう、というわけであった。


 毒を喰らうならば皿まで、という勢いで話に乗った李斯は、胡亥を皇帝に即位させるだけでなく、扶蘇と蒙恬に自害を命ずる詔勅まで偽造した。扶蘇はこれを信じて潔く自決し、蒙恬はこれを疑い、その場で自決こそしなかったが、牢獄に繋がれたのち服毒自殺をした。見事政敵は除かれたわけである。


 韓信が釣りをして老婆の世話になっている間に、天下は静かだが、しかし大きく変動しようとしていた。



 五



 二世皇帝の胡亥は愚鈍であった、と言われている。

 結果から見れば確かにそうかもしれないが、彼も即位当初は使命感に燃え、真剣に統治者としての義務を果たそうとしたに違いない。彼は決して何もしなかった皇帝ではなく、その統治期間にさまざまなことを行っている。


 ただ、そのどれもが国を疲弊させる結果を招いたのだった。




 胡亥にとっての皇帝の使命とは、先帝のやり残した仕事を完遂させることに尽きる。阿房宮あぼうきゅうの増設はその典型で、およそ必要もなさそうなほどの広大な宮殿をさらに大きくする工事のために、各地から人民が徴発された。

 これにより農業、工業を問わず国の生産能力が減り、その影響を受けて物価が上昇した。


 また、秦という国は極端な法律至上主義の国家だったので、些細な罪で投獄される囚人が多く、これも生産能力減少の一因となった。

 それでも増え続ける囚人たちをただ獄に繋いでおくのはさすがに無駄だと思った二世皇帝は、阿房宮設営の工員に彼らをあてておおいに利用したのだった。しかし、この政策は無駄に無駄を重ねるだけのことでしかない。皇帝がどれだけ立派な宮殿に住んでいようと庶民には関係のない話で、工事自体が無駄なのである。


 国力を途方もなく無駄遣いした阿房宮の増設工事は結局未完に終わり、そのばかばかしい顛末から「阿房」の音が転じて「阿呆」の語源になったと言われている。


 胡亥の無駄な土木事業はこればかりではなく、始皇帝の墓を完成させる事業などもそのひとつである。彼は国中から腕のいい職人を集めてこれを行ったが、墓が完成すると保安の必要性から、構造の秘密を知る彼ら職人たちを残さず穴埋めにしてしまった。これなどは人材の浪費も甚だしい話である。

 また、先帝が詔令を出したものの、やりかけになっていた貨幣の統一事業にも本格的に乗り出している。

 それまで各地に流通していた刀の形をした銭や、布切れのような形をした銭は、丸くて中央に四角い穴の空いた銅貨に取り替えられた。

「半両銭」と呼ばれるこの銅貨は鋳造も楽で、携帯にも楽な形をしていたが、先述のように生産者がことごとく徴発されるか囚人になるか、というような社会状況では、皮肉なことに買えるものがなかった。

 こうして秦の地方社会はインフレとなり、しだいに人心は荒んでいったのである。


 市中を歩くと、以前より活気が失われているさまがよくわかる。街路は人影がまばらで、わずかにそこにいる連中も暇を持て余しているような輩ばかりだった。

 このときの韓信もそれと同じで、人に舐められないように胸を張り、こわばった表情で歩いていたが、実は当てもなく歩いていただけなのだ。少なくとも当時韓信を知る者は、皆そう思っていた。

 ある日韓信は、道ばたで若者がたむろしている場を通りかかった。彼らは食用の犬の屠殺者仲間で、この日は一匹しかいない犬を囲み、近頃の仕事の減少による貧窮を無駄話で紛らわそうとしていた。

 韓信が彼らの前を通りかかったとき、その中の一番体の大きな若い男が、彼に絡み始めた。


「こいつはいきがって剣などをぶらさげて歩いているが、そんな奴はたいてい気持ちが弱いものだ。見ていろ、おれが確かめてやる」

 韓信は見透かされたような気がした。生前の母と交わした会話が思い出される。韓信にとって剣は、それを持つことによって相手に妙な気をおこさせないための抑止力というべきものだったが、それが今試されているのだった。

 その若い男は仲間に向かってからかうような口調で叫んだ。

「あの剣は飾り物に違いない」


 沈んだ街角にどっ、と笑いが起こった。これによりさらに勢いづいたその男は、

「おい、死んでも構わないなら、その剣で俺を刺してみろ。その勇気がないのなら、ここで俺の股の下をくぐれ」

 と韓信を挑発した。


 この男はおそらく酒に酔っているに違いない、と韓信は察し、しばしの間彼を見つめていた。しかし、やがてそそくさと、なにも言わずに四つん這いの姿になって彼の股の下をくぐった。

 その姿を見て彼らは大笑いし、韓信のことをしきりに罵倒したのであった。

「なんと、臆病者よ」

「腰抜け」

「恥も知らぬ男め」

 あらゆる罵詈雑言をあびせられながら、韓信はひと言も発せずにその場を立ち去った。それを彼らは、再びあざ笑ったのであった。


 評判は市中全体に広まった。その後韓信が剣を携えて外を出歩くと、市中の者どもは失笑したという。にもかかわらず、常に彼は平然を装い、逆上して自らことを荒立てたりしなかった。


 しかし、韓信が何も感じない、まるで無神経な男だったかというと、そうではない。彼は久しぶりに栽荘先生のもとを訪れると、初めて胸の内を明かした。

「思うに、私がこのたび受けた屈辱というものは、私自身に非があるわけではなく、相手側の傍若無人な態度こそ責められるものでありましょう。私はあの連中をこの長剣で一人残さず斬り殺そうと思えば、そうできました。彼らはほとんど丸腰でしたし、少なくとも私以上に武芸に達している者がいないことは一目瞭然だったからです。しかし、斬れば私の方が犯罪者となり、囚人として身にげい(いれずみ)され、どこかよその土地に送られて過酷な労役を強いられることとなります。それが嫌で私は斬らずに、おとなしく彼の股の下をくぐりました。恥を忍べば屈辱が残り、逆に恥をすすごうとすれば獄におとされるわけで、どちらにしても私のような者には良いことがないわけですが……これは私が思うに、政治が悪いのです。およそ政治というものは法を犯した者を犯罪者として罰することではなく、どうやって犯罪者を作り出さないか、ということを目指すべきで、それには国民を教化し、規律を正しめることが求められます。あの街のごろつきどもは犯罪者予備軍と言えましょう。ああいう者どもを放置している時点で秦の政治は間違っているのです」


 これを聞いた栽荘先生は、韓信が負け惜しみを言っているように思えたので、次のように反問してみた。

「では、おまえはいったいどうしたいのか。お前自身が彼らを教化したい、というわけなのか」


 韓信は涼しい顔をして答えた。

「それもいいでしょう。しかし、少し違います。思うに、彼らが見せた振る舞いは、私自身に力がないことの証なのだと思います。残念ながら人というものは、自分より弱い相手の前では、傲岸な態度をとりたがるもののようです。これを解決するためには、まずは私自身に強大な力があればいい……。私は、やはり将となって秦を倒し、次の世を生み出す存在となりたい」


 この話が広まったとき、たいていの者は韓信が仕官のあてもないものだから、次に訪れる世を夢想しているのだ、と評した。

 しかし後世になると逆に、韓信は若いころから気宇壮大であった、と評されるようになったのである。


 正反対の評価をしているように思えるが、私にはどちらも事実のようにも思える。

 

 

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