第一部

楚の滅亡

 漢は秦を否定する人々の意志によって勃興したが、それを説明するためには秦の功罪をも説くべきであろう。秦は諸国を滅ぼし、天下に覇を唱えた。その滅ぼされた国々のひとつに、楚という国がある。韓信は、この楚に生まれた。



 一


 かつて栄華を誇り、互いに覇権を競い合った諸侯国は紀元前三世紀頃になると衰え、それぞれに滅亡の危機に瀕している。このとき韓、趙、魏は秦によってすでに滅び、戦国時代は終焉の時を迎えようとしていた。しかし、戦国の次にくる時代が平和だという保証はどこにもない。


 江南に位置する楚にも秦は触手を伸ばそうとしていた。秦王政(後の始皇帝)の命によって発せられた二十万の軍隊が楚の首都、えいに近づいている。


「秦軍はいま二手に分かれており、合流しようとしている。我々はその合流地点に先回りをし、現れたふたつの軍を各個に撃破するのだ」


 楚の宿将、項燕こうえんは広げられた地図を前にして部下に説明を始めた。

「李信、蒙恬もうてんの軍が集結するのは、斥候から得られた情報によると、ここだ」

 項燕の指は地図上にある城父じょうほという都市の位置を指し示した。

「集結地点に先に現れるのは、李信の軍である。そこで我々は林の中に身を潜め、これを取り囲み、殲滅する……。蒙恬の軍が現れるのは、半日後だ。我々は余裕を持ってこれを迎え撃つことができるだろう」

 項燕は淡々と語ったので、かえって部下たちは安心できない。李信は平輿へいよでさんざんに楚軍を撃ち破り、蒙恬も寝丘で同様に楚軍を敗走させ、ついこの間も郢周辺で彼らは翻弄されたばかりなのである。項燕の感情が抜けたような物言いは、部下たちにとっては彼が虚脱状態にあるように思えるのだった。


「奇襲によって李信の軍を破るのは可能かもしれませんが、あとから無傷で現れる蒙恬軍を迎え撃つことは可能でしょうか……敵の数は半分と言えども、十万の軍勢は我々を上回ります」

 部下の質問に項燕は答えた。

「秦軍には慢心がある、とわしは思っている。蒙恬は李信以外の者が集結地点で待っていることなど想像もしていないに違いない。蒙恬が無能だとか、驕慢だとかいうわけではなく、勝ちに乗じている将軍とはそういうものだ」


 部下たちはまだ信じられず、軍議の座に不安の空気が流れる。項燕はそれを察し、もうひと言付け足した。

「秦が楚を討つに際して、ある秦の将軍は六十万の兵が必要だと言ったそうだ。しかし李信は二十万で充分だと主張し、秦王はそれを可としたという。これは李信はおろか、秦王も慢心している証拠であろう。そして慢心しているうちが逆襲する機会である。よって今、この瞬間から作戦を決行する」


 こうして項燕は部下を率い、林間に身を潜めて李信を待ち伏せした。

「見よ……。油断とはこのことだ。李信は陣も固めていない」

 項燕は李信軍が食事の支度をし始めた頃にこれを急襲し、完膚無きほど撃ち破った。そして間をおかずに兵を返し、言葉どおり油断していた蒙恬軍を破ることに成功した。

 ここで秦軍は七名の上級将校を戦死させる大敗を喫し、城父はその城外まで、おびただしい数の遺体で埋め尽くされた。


 戦いは楚の勝利に終わり、秦は壊滅的な打撃を受けたが、国力があるために回復は可能である。しかし楚にとって次の敗北は国の滅亡を意味し、このたびの勝利は余命を繋いだというくらいの意味しかもたなかった。


 韓信が生まれたのはこのころで、場所は淮陰という東方の国境の入り組んだ土地であった。


 二


 韓信の父は、庶民というものを絵に描いたような男だった。生活は楽ではなく、これといった定職もない。矛盾しているようだが、それでいて働き者であった。ある日に畑を耕していたかと思うと、次の日は城内で井戸を掘る作業をし、昼前に重い材木を肩に担いで歩いていたかと思えば、午後にはやはり畑を耕している、といった具合である。

 しかしそれもこれもすべて人にいいように使われて働いているのだった。


 そんな彼に良縁が舞い込み、邑(村)でも一、二を争うほどの美女を嫁としたのだが、当初彼は自分のそんな幸運が信じられず、あるいは騙されているのではないかと疑い、妻を抱くこともできなかった。

 あり得ない幸運が信じられず、あるいは寝首をかかれるかと思っていたのである。

 妻はそれを悲しみ、ある日夫に訴え、涙ながらに言った。

「私は日夜汗水たらして働くあなた様を尊敬していますのに、なぜ抱いてくださらないのですか」

 それまでの人生で人に尊敬などされることもなかった韓信の父は舞い上がり、わだかまりを捨ててその夜からしきりに妻を抱くようになった。

 その結果、韓信が生まれた。


 韓信の父に転機が訪れたのは、韓信が生まれてから半年もたたないころである。

 なにが転機だったのかというと、国から戦地処理の命を受けたことであった。戦地処理といっても実際は死体を片付ける作業が主なので、誰もが気味悪がってやりたがらない。そんな仕事が回ってくるあたり、彼は自分の運の悪さを感じるのであった。美女を妻とした反動であろうか、と思ったりするのである。

 彼はそれを悪い意味での転機と捉えたのだった。


 手のかかる赤ん坊と妻を残し、長い間家を空けることには申し訳なさを感じたが、国の命を受けて働くということは、考えようによっては名誉なことに違いない。そんな彼の考えを証明するように、楚の朝廷は彼に爵一級を授けたのである。

 ――今日から私は公士(一級爵の爵名)だ。


 喜び、意気込んだ夫を妻は笑った。

「楚の国は圧迫され、よき人物がおらず、宮廷はあって無きようなもの、と聞きます。民爵をもらったといっても、おそらく名ばかりのものでしょう。与えるものがないから、爵を与えてごまかしているのです」

 本来爵に応じて農地や家屋が与えられるものであるが、妻のいう通り韓信の父にはいっさいそのようなものは与えられなかった。しかしもちろんそれを理由に命令を辞退するわけにはいかない。彼は出発の前に妻に告げた。

「留守の間は、私の知り合いに栽荘先生という方がおられるので、そのお方を頼るといい。すでに私からおまえ達のことは依頼しておいた。ご高齢で林間に隠れ住んでいるようなお方だが、智が高く、温和な方でもあるゆえ、いずれ(息子の)信の教育をお願いしようと思っていた。安心して身を寄せなさい」

 妻は寂しそうな顔をしたが、一方でその腕に抱かれた韓信は、父の出発に際して泣きもしなかったという。

 これには父の方が泣きそうな顔をした。


 その韓信の父が赴いた先が、先に戦闘のあった城父である。国を守ろうとして命を落とした名もなき兵士たちが、そこに遺体を晒しているのであった。

 彼らを弔うことに大きな使命感や義務感をもった彼であったが、城外まで漂ってくる屍臭を嗅ぐと、それらはぐらつき、腐乱した遺体の群れを目にしたとき、それらは完全に失われた。


 戦地処理といっても後世のようになきがらを遺族の元に届けるようなことはせず、大きな穴を掘り、その中にどんどん遺体を放り込んでいくだけである。非情なようでも感情を抜きにして効率的に働かなければ、作業する人間の方が耐えられなかった。

 黒の甲冑は秦兵の証である。遺体は秦兵のものばかりだった。秦は敵軍であり、なおかつ虎狼の国と知りながらも、韓信の父には哀れとしか思えなかった。

 ――なんと秦兵の姿の無惨なことよ。戦に負けるとはこういうことか。

 しかし、もし立場が逆だったら、と思うと末恐ろしくなる。秦には逆襲する力が有り余るほど残っているが、楚にはそれがまったく無いのだ。


 ――秦の男子は皆、徴兵されると聞く。いずれは私にも、この黒い甲冑を着て戦う日がやって来るのだろうか。

 そう思いながら作業を進めていくと、珍しく帯剣した遺体が目に入った。たいていの遺体は武具を奪い去られていたが、慌ただしさもあったのだろう、何体かは武装したままの遺体があったのだ。

 その遺体の腰の剣は使い込まれて多少年季が入っていたが、柄の部分に青銅の装飾が施されており、長大なものだったので、見栄えもした。

 ――これは、いただいておこう。

 金目のものを見つけた、というわけではなく、幼い息子の韓信の護符にしようと思ったのだった。つまり、お土産に丁度いいと思ったのである。


 遺体を片付けたあと、穴を埋め、最後に儀礼的に哭礼を行う。韓信の父は最初、泣きまねだけをしていたが、そのうち本気で涙が流れてきた。泣き終えたあとは、気分もすっきりし、剣をみやげにして上機嫌で淮陰の自宅へ帰ることができた。

 しかし剣については家に持ち帰ったのはいいが、妻に、

「あなた様は幼い信を兵にさせるつもりですか。私は死んでもそうはさせません」

 などと言われ、これには韓信の父も、

「そんなつもりはない。ただ、子供というものはこういうものが好きであろうと思って持ち帰ったまでだ」

 と、いっそう妻に詰問されるような返答しかできなかった。

 しかし、まだ乳児の韓信はこの剣をたいそう気に入ったようで、父や母が韓信の見えないところに剣を片付けてしまうと、とたんに機嫌を悪くし、泣き喚いた。


 韓信の父は、半ば本気で剣を持ち帰ってきたことを後悔した。


 三


 秦国内では、二十万の兵で充分だと主張し、その結果失敗した李信が更迭され、王翦おうせんが楚討伐の指揮官に任命されている。

 実はこの王翦こそが最初に六十万の兵が必要だと主張した人物であり、今回はその主張どおり、六十万の兵を引き連れていた。この六十万という兵数は楚を撃ち破るに充分なものであったが、王翦がその気になれば秦をも撃破するに充分な兵数でもある。秦王政のよほどの信頼がなければありえない人事であった。


 しかし王翦は大軍を擁しながらむやみに戦うことをせず、堅牢な砦を築くと防御に徹した。

 このため項燕率いる楚軍は攻めあぐね、戦況は膠着状態となった。


 両軍の我慢比べの中、先に軍糧が尽きた楚軍が退却を始めたところで王翦はついに出陣を命じ、背後からこれを襲い、敗走させた。

 そして翌年になると王翦は首都郢へ侵攻し、楚王負芻ふすうを捉え、捕虜とすることに成功する。これにより事実上楚は滅亡した。

 国体を失った楚の残党たる項燕は、当時秦の国内にいた楚の公子である昌平君という人物を担ぎだし、これを楚王として抵抗しようとしたが、これも無駄に終わった。昌平君は乱戦の中で戦死し、項燕は自害してその生涯を終えた。

 ここで名実共に楚は滅んだのである。


 秦の治世になると、韓信の父の暮らし向きもなんとなく変わった。貧しいのはそのままである。ただ、うっかり立ち話もできないような緊張感が、淮陰の街全体に流れているのが肌で感じられる。


 ――国が滅ぶとはこういうことか。

 決して自分のことを誰かが見張っているわけでもないのに、なぜかそのように感じる。秦という国の厳しさがそこにあった。

 ――爵一級などもらっても、もともと無意味だとは思っていたが……。

 まさかこれほど早く国がなくなって意味をなさなくなるとは思っていなかった。

 しかし、考えようによっては、よい機会かもしれない。

 楚の時代、自分は不遇であった。よく働く人物が、まっとうな暮らしを送れる時代が来るかもしれない、と韓信の父は考え、気分を良くしたのである。

 少なくとも息子の時代には、家柄で人生が決まるような社会ではなくなるだろうと思い、彼は韓信に学問をさせようと決めた。手始めに栽荘先生のところに彼を預け、読み書きを覚えさせようとしたのだが、それというのも父である自分がそれをろくにできなかったからである。

 将来息子が秦の地方役人にでもなって、自分のことを養ってくれるかもしれないと想像すると、韓信の父の気分はさらに良くなった。他力本願なような気もするが、彼が将来に初めて希望を抱いたことには変わりがない。彼は秦に期待したのである。


 しかし、秦の国王の嬴政えいせいは他国を征服すると、その国の富裕な者を首都咸陽に根こそぎ連れて行ったので、これを受けて地方は貧しい者ばかりになった。

 韓信の父が小作する畑の地主は相応の金持ちだったので、やはり咸陽に連行された。

 地主は連行される前に畑を手放さざるを得なかったのだが、当然ながら彼は韓信の父には土地を譲らず、自分の親戚にこれを与えた。したがって韓信の父はまたその親戚に雇われ、小作を続けるしかなかった。韓信の父の生活は、まったく変わることがなかった。


 そんな折り、隣人の楊という男が人夫として国から徴発された。いわゆる徭役が課せられたのである。

 秦王政はひとつの国を滅ぼすたびに、その国の宮殿と同じ宮殿を咸陽に作ったため(六国宮殿と呼ばれる)、おびただしい数の人夫が咸陽に駆り出された。秦王政が大陸の統一を果たした後、六国宮殿の数は百四十五を超え、そのひとつひとつに美女がおさめられた。その総数は一万人以上だといわれている。


 楊が咸陽に呼ばれたのも、この六国宮殿の建設のためだったが、あろうことか彼はこの話を断ってしまった。老母の世話をしたいというのが表向きの理由であったが、実情は彼の父親が秦との戦いで戦死していることを恨んでいたところに原因があったらしい。

 しかし、たとえそのような理由があろうとも通じるはずもなく、秦の役人は有無を言わさず楊を獄に入れてしまった。


 この噂を聞いた韓信の父は、役所へ出かけ、楊の弁護をしようとした。

 しかし弁護といっても現代のように裁判の場があるわけではない。彼のしたことと言えば、役所の建物にむかい、大声で「楊を助けてやってください」と喚くことだけであった。

 最初のうち、役人たちは聞こえない振りをしていたが、四日も五日もそれが続いて、さすがにうるさく感じたのだろう、喚く韓信の父のことを建物の中に引き入れた。

 韓信の父はようやく話を聞いてもらえると思い、喜々として役所の中に入ったが、二度と戻ることはできなかった。

 牢獄で再会した彼と楊は、囚人として咸陽に連行され、そこからさらに北方の名も知れぬ土地で匈奴の侵入を防ぐための長城を建設する作業に徴発された。


 韓信の父は、隣人の楊とともに、おそらくそこで死んだ。

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