第16話 タイムビーイング・ゴールライン

1.


「結晶はね、全部ベッキーにあげちゃったの」

 祐輔の仰天に笑顔でうなずく愛美を、詩鶴もまた驚いて見つめていた。

 『部室に一旦戻ってきて』

 パトカーは後池たちの帰りの足で満車だったため、別の車両を呼んでもらっていた。そこへ、夜那岐からメールが来たのだ。さっき確かに『じゃあね』と言って去ったはずなのに。不思議に思いながらも戻ってきた部室の机の上には、部員全員、レベッカ、そして後池と右田川にあてた小切手が1枚ずつ置かれていた。それも結構な金額が、夜那岐の字で記入されている。

 ほかに書置きもないため、意図がさっぱり分からないと頭を抱える愛美たちに向かって、詩鶴は愛美が持っている結晶をどうするのか聞いたのだ。取りあえず話題を変えようと思ったからなのだが、その答えがこれである。

「ベッキーがほら、昨日途中でピストル撃つの止めちゃったから、弾が無くなっちゃったんだろうなと思って。で、うちにいっぱいある結晶をベッキーに使ってもらおうと思って」

「改めてサンキューな、メグ」とレベッカが笑う。

「前借りした分を相殺してお釣りが出たんだぜ。でも、全部さっき使っちまったから、次の仕事はまた前借りスタートだけどな」

 詩鶴が淹れたお茶を配ると、みんな礼を言っていそいそと飲み始めた。もうすぐ12月とはいえ、あれだけの荒事をこなしたのだ。少し走っただけの――そして無様に転んだことを思い出して赤面した――詩鶴ですら喉が渇いていた。何より、温風ヒーターを付けたばかりの部室は寒く、温かいお茶は何よりのごちそうだ。

「それにしてもすげぇ撃破数だよな、ベッキー」と浩二がレベッカを見やる。

「その刻み痕、刻む場所が無くなっちまうんじゃね?」

「刻まないよ」とレベッカは苦笑する。

「なんで?」

「だって、アトイケたちが吹き飛ばしたのを撃ってただけだからさ。射的の命中なんか誇れるかよ」

 愛美が両手で包むようにして飲んでいた湯呑を下ろして、目を丸くした。あの時の情景を思い出しているようだ。

「すっごい大きな音と光がいっぱいで、なんか戦争みたいだったねー!」

「そうそう! もう俺これから映画とか見ても、すっげーとか思わないかもな」と祐輔も和す。

「結局、何者だったんですか? 後池さんて」

 詩鶴の問いに、右田川は脱力感溢れるしゃべり方で教えてくれた。諸々の後始末で先に署に帰ったため不在の後池の過去を、できれば本人の口から聞いてみたかったが。

 1970年代後半、銃器を使用した凶悪犯罪の増加に対応するため、警察の特殊部隊(いわゆるSAT)が整備されていった。その過程で、腕前は一流であるにもかかわらず、様々な点でSATの選抜から外された警察官が出た。その面々をリクルートして、主に暴力団の武力抗争の鎮圧や外交関係施設への武力テロに対するカウンターなど、SATには出動させにくい任務をこなすための集団が編成されたのだという。

「後池さんはねぇ、そういう曲者ぞろいの部隊を取り仕切る団長だったんだってさ。あ、これ、オフレコでお願いね」

「だったら漏らすなよ、ポリス!」

 レベッカがうなる。

「ねぇねぇ詩鶴ちゃん」

「なに?」

「これって、スペシャルワンの報酬にはちょっと多すぎるような気がするんだけど……」

 目の前に置かれたままの小切手を指さして、愛美は困ったような顔をした。どうやら本当に理解していないらしい。詩鶴はお茶のお代わりを淹れるためポットに向かいながら、さらりと言った。

「口止め料、だと思うよ」

「口止め料?」

 と声が揃う一同に可笑しみを覚えて、詩鶴は微笑んだ。ポットの給湯ボタンを押しながら、推測を話してやる。

「シェイクハンズのことを口外するな、ってことだと思う」

 まだ分からないようだ。

「夜那岐さんの口ぶりだと、スペシャルワンの数はそう多くはないらしい。少なくとも、ちょっとメソーラや近衛兵の襲撃が増えただけでてんてこ舞いになるくらい、手が足りない。そんな中で、シェイクハンズの情報がスペシャルワンたちに流れたら、どうなると思う?」

 急須を持って振り向くと、やっと理解したらしい祐輔の顔を拝むことができた。

「そうか……極端な話、スペシャルワンの集団お見合いが発生しかねないんだ……」

 詩鶴はみんなと一緒に吹き出して、続きを切り出すのに時間を食った。

「ま、それは本当に極端にしても、男女ペアで行動する奴らは増えるだろうな。ヘブローマとしても、スペシャルワンが大勢減ることは望んでいないだろうし」

「してみると、結晶をいっぱい集めて大金を払えば手術が受けられる、ってのも眉唾だねぇ」

 言い終えて、右田川が年配の人のような湯呑の持ち方で、お茶を味わってほのぼのしている。

 詩鶴も右田川にならってお茶を呑むと、肩をすくめてみせた。

「まったくです。解放率も眉唾ものですしね」

「え?」

 愛美たちの驚く顔を見ると、世の中というのは実は詩鶴が考えているよりもっと単純なからくりで回っているんじゃないかと錯覚しそうになる。特に今は祐輔の惚けた顔に、苛立ちと、それにも増して彼女にも分からない感情を覚えているのだ。

「そもそも、おかしいと思わないのか? 解放率について」

 レベッカと右田川は部外者だし、浩二もそこまで深い考察はしない性質だ。まあいい。愛美は論外としても、

「祐輔……お前……」

 なんだこの感情は?

(詩鶴ちゃん、どうして怒ってるの?)

(俺、なんか気に障るようなこと言ったかな?)

 2人の聞えよがしのひそひそ話をあえて無視して、詩鶴は続けた。

「解放率とはなんだ? 祐輔」

「えーと、スペシャルワン状態から脱して、なおかつ異性との結婚まで至った人のパーセンテージ――」

「なぜ、状態脱出人数じゃだめなんだ?」

 詩鶴は椅子に座り直すと、さらに斬り付けるように問いかけた。

「まあとりあえず、成婚率が分子として、分母のことを考えようか。祐輔!」

「は、はい!」

「スペシャルワンの歴史について述べよ」

 祐輔は詩鶴の静かな剣幕に押されたのか、おずおずと挙げ始めた。

「えっと、古代のギリシャで最初の男性が発見されてローマ帝国で組織化されて、中世は修道士や修道女から多くが見出されて、近世以降は各国で採用が広がって現在に至る……これでいいか?」

「それが分母、ってことは?」と愛美がまた首をかしげる。

 もしかして、他人が言ったことの裏を深く詮索しないのがスペシャルワンの特質なのか? そう考えたところで、詩鶴にも我慢の限界が来た。

「本当に分からないのか? 修道士や修道女が結婚できるわけ無いだろうが! 水増しされてるんだ! 分母が! 大幅に!」

 浩二がお茶を吹き出した後叫んだ。

「あー! それで分子が結婚まで至った人数なのかよ!」

 右田川はマイペース。さすがレキダン、雰囲気から察するに、どうやらからくりに気付いていたようだ。

「解放率って呼称自体が、真実を隠すための誤解を招く表現だよねぇ」

「そうです」と詩鶴はうなずく。

「お前たちを絶望の底になるべく深く沈めるための、水増しだったんだよ! まったくもう……」

 溜息をついて、詩鶴は椅子から立ち上がった。彼女の心の悩ましき感情に、ようやく整理がついたのだ。代わって、わたしには行動が必要だという黒い詩鶴の囁きが、心の隅々まで拡がってゆく。

「ん? ていうか、結婚できないなんて常識だろ?」

「常識じゃねーよ! 俺たちは切支丹じゃねぇっつーの!」

 レベッカに浩二がツッコミを入れて、にらみ合いが始まった後ろをぐるりと回って、詩鶴は祐輔につかつかと近づくと、座っているその肩を掴んだ。

「さあ、行くぞ祐輔」

「どこへだよ?!」

「きさまがそんなにダメ人間だとは思わなかった。修正してやる。いや――」

 詩鶴は驚く祐輔を見つめた。同じく驚愕で静まった部室に響く自分の声に、熱っぽさと潤いが乗っているのを自覚する。

「わたしが導いてやる。お前は、このままでは現実と平凡の海に沈んでしまう」

 言いながら詩鶴は手を彼の肩からゆっくり擦り上げて、その赤く染まった頬に手を添えた。

「そんなの、絶対にいやよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ詩鶴ちゃん!」

 愛美が慌てて詩鶴の腕を抑えてくる。

「観察対象に近づきすぎちゃいけない、って言ってたよね?」

「ああ、あれね。無理」

 詩鶴はあっさりと前言を覆した。

「な?! なななななんで?!」

「分かってるくせに」と詩鶴は嗤う。

「ガラスの壁が消えたから。ほかに理由が必要なのか?」

 ゴリッ。

「 H~i ,Ja~ck!」

 なるほど、銃口を後頭部に押し付けられると、こんな嫌な感じになるのか。詩鶴は落ち着いて、背後のエギリス娘を親指で指した。

「おまわりさんこいつです」

「恐喝と傷害未遂の現行犯だねぇ」

 右田川にゆったりとにらまれて、おどけて両手を挙げるレベッカ。だが、口は減らないようだ。減らせないわけもあるしな。

「いやソーリーソーリー。つい試しに銃を抜いてみたら、ちょうどいい位置にちびっ子の頭が」

「ちびっ子言うな! エギリスでは、つい銃を出す時ハイジャックって言う風習があるのか?」

「うん」

「抜かせ戯れ! わざわざドローしなくてもいいように、その寸胴に内蔵したらどうだ!」

「ガッデム! ズンドウって言うな!」

 レベッカと言い争いながら、詩鶴は部室の戸をこっそり開けて出ていく人影を知覚していた。しばらくこちらの騒動をぽかんとした顔で見ていたあと、浩二に耳打ちされるやいなや慌てて出ていった残念な子のことも。

 まあいい。今回は見逃してやろう。それよりも。

「じゃ、そろそろ行こうかな」

「ああ、能美さん、送っていくよ」と右田川の申し出を遮り、逆にみんなを誘う。

「今から祐輔の観察に行かないか?」と。

 賢明なる愚か者は、当面の愉楽を選択した。


2.


 珍しく北風の吹いていない宵の寒気を、祐輔は目一杯吸い込んだ。大きく吐いて、生還を実感する。

 桜の木を横目に東門を通過しながら、過日来の出来事を振り返る。あの時、当て馬を引き受けておいて、本当に良かった。でなければ、愛美は(少なくとも夜那岐にとっては)ただの同級生Aになってしまい、メソーラに襲われる可能性ナンバーワンとして護衛されることもなかったのだから。

 そして、彼女と手を握ることもなかっただろうから。

 シェイクハンズ。あれは、祐輔のロイヤル・ストレートフラッシュを見た彼女の感情が高ぶった結果だろう。そう、祐輔は推測していた。それが証拠に、帰りのパトカーの中ではこちらを見てももらえなかったし。部室でだって、1回しか話しかけてもらえなかったし。

 そうだ。当て馬を引き受けて、もう1つ良かったことがあった。愛美を解放できた。これであの子も、普通の女の子として生きてゆける。家族がいないから、これから大変だろうけど。

「そういえば、夜那岐さん、あのマンション引き払っちゃうんだろうな……」

 愛美はこれからどうするのだろう。そう考えたところで、祐輔は自分の名前を何度も呼ばれていたことに気付いた。驚いて振り向くと、愛美が息を切らせて近づいてくる。

「もー、佐上君、歩くの早いから」

「ごめんごめん。でも、征城さんのほうが速かったぞ。ストーカー騒動の時とか」

 言って後悔する。神田との苦い記憶を連想させるキーワードに触れてしまったことに気付いたから。

 すぐに謝ると、愛美はあっさりと許してくれた。一緒に帰ろうとダメ元で誘ってみたが、なにやらもじもじして切り出したい様子。

「あ、あのね」

「うん」

「その……メソーラ退治は、これでめでたしめでたし、で終わったわけなんだけど」

 そうだ。愛美と一緒に戦えた。そんな夢時間は終わったんだ。俺は現実に帰るべきなんだ。祐輔は改めて悄然とするが、愛美の話にはまだ続きがあった。

「で、その……」

「ん?」

 愛美は大きく深呼吸すると、思いつめた顔で本題を切り出した。

「妄想は、その、今後も禁止の方向で、お願いします」

 そうだよね、気持ち悪いよね。

「うん、分かったよ」

 寂しげに見えないように微笑んで、別れの挨拶をして帰途に着いた祐輔の左手が、そっと握られる。

 愛美の右手は河原での記憶とは違って、柔らかく、ひんやりとしていた。ゆっくりと躊躇いがちに添えてきて、甲を撫でてくれるその左手も。

「ほかの子の妄想なんて、絶対ダメだから……」

 祐輔は振り返ると盛大に照れながら、同じ表情の彼女の手に、その手をできるだけそっと重ねた。


3.


 日本国内、某所。夜那岐は苦悩の中にいた。目の前で暴れているのはメソーラ。そろそろ夕闇が濃くなってきた路地裏で、カップルを襲っている。

 が、苦悩の原因はメソーラではないし、異形の者からどうやら逃げ切れそうなカップルでも、もちろんない。カップル同様逃げる時に路地裏定番のゴミバケツを派手にひっくり返して転び、ガタガタ震えている男子高校生がそれなのだ。

(まさか、佐上君が超絶イケメンに見える日が来るなんてね……)

 例えて言うなら、ヒキガエル。いや、ヒキガエルなら虫やネズミを食べて人の役に立つだろうから、それ以下か。

(くそー、アレイめぇ、騙したわね……!)

 夜那岐はスペシャルワン候補の情報を提供してくれた同僚を呪う。いくらほぼ特定済みだからと言って、うかうかと話に乗るべきではなかったのだが。

 "力"を回復したら、まず第一にあいつを呪う。超呪ってやる。あの外道め。

 詩鶴の命名した『外道部』とは、言い得て妙だったのだな。夜那岐は不意に思いだし、声を立てず笑った。メソーラは元はヒトである。元であるから殺人罪等は適用されないとはいえ、ヒトがヒトを殺すのだ。まさに外道の極みであろう。

 そして、夜那岐は神仏に感謝する。なぜなら、愛美が本当の外道にならずに済みそうだから。

「こんなところにいたとはね……」

 目の前で暴れるメソーラは、警察の隙を突いて逃走した愛美の父だった。恐らく逃走中に他のメソーラにスカウトされたのだろう。

 愛美は本当に運がいい。父殺しなど、彼女の神経が耐えられまい。祐輔にしたって、想い人の父親を殺すなど、ためらうはずだ。

 あの2人は、これからどうするのだろう? いや、どうなるのだろうと言うべきか。先日前津を問い詰めて聞き出した様々な情報。それによると、"シェイクハンズ"の当事者たちが出戻る率は、90パーセント以上である。

(ま、末永くお幸せに……でも、出戻ってきたらまた私がコーディネートすれば、ノルマが減るのか。悩ましいわね……)

 夜那岐が不埒な悩みを抱えているあいだも、愛美父のギラギラした眼は変わらず、特に女のほうを執拗に追いかけている。……あ、カレシがカノジョを捨てて逃げた。

「ったく、男ってやつは! 本当に昔から変わらない……」

 経験者は語る? という浩二の声を振り払って、夜那岐は仕事モードに切り替えた。

「あと9人……」

 気合いとともに飛び出して、棒手裏剣を投擲。メソーラの影を地面に縫い付ける。

「ぐぉぉぉぉ! きっさまぁ! あの時のおんなぁぁぁぁぁ!」

 愛美父の絶叫をさっくり無視して、夜那岐はヒキガエル風男子高校生に向かって手袋を突き出した。

「あなた、右利きよね?」


『シェイク ハンズ シェイク!』Time being of the END

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シェイク ハンズ シェイク! タオ・タシ @tao_tashi

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