第5話 決断
研究所の扉のドアノブを回す。
開かない。とりあえず外部の者が開けた様子はない。
内心ヴェルトが安堵する中、トムが持っていた鍵で扉を開く。
トムの先導で中へ入ると、人影はなく物音も聞こえない。それにやはり荒らされた気配は微塵もない。
「大丈夫みたいだな。よし、地下に向かうぞ」
いつものように床を外し、隠し階段を下って地下へと向かった。
しかし途中で、先導するトムが呟いた。
「灯りが点いてるな……」
緊張感が走る。
誰かいる。
「誰か先に来ている?」
「誰だ……?」
トムに次いで降り、地下室を見渡そうと部屋内を見渡す。
そこにはやはり人影があった。その人物がこちらに視線を向ける。
「よお、お前ら、遅かったな」
「おおっ、ザムエル。お前は早かったんだな」
ザムエルだった。足を組みながら椅子に座り、こちらに体ごと向けている。
しかしパソコンは起動されている為、何事か操作していたようだ。
その態度は余裕綽々とし、ここ一週間自分は何事も無かったぜとアピールせんばかりの普段通りの雰囲気だった。
「まあな。俺は昨日から来てたもんでな。一日待ってたよ。悪いが、食料をちょっと貰ったぜ。ここから一番近い建物に避難させられてたからな」
「昨日だったのか……。ということは、そっちでも暴動が起こったんだな」
「ああ、だからその機に乗じて俺も脱出してきたのさ」
へっと何故か誇らしげに語るザムエル。
「後の二人は?」
「いや、見てねえな。まあ、どうせあいつらも今頃脱出を試みてんじゃねえの」
「……二人も私達と同じ施設にいた筈」
「俺達のいた所では見かけなかったけどな」
この研究所のメンバーで違う地区に住んでいるのはザムエルだけ。ヴェルト達と同じ地区に住むルドルフとアリーナも同じ施設にいたから、あの混乱に乗じて抜け出しただろう。
「そういえば、ザムエルさん。パソコン着けて、一人で何やってたんだ?」
「まあちょっとな。ただの準備だよ」
画面を見つめたままで、応答するザムエル。
それに対してトムが反応を返す。
「ってことは、あっちも見てくれたのか?」
「当然だ。俺を誰だと思ってるんだ。あともう少しで使える筈だ」
「悪いな」
「気にすんなよ」
「あっち? 準備? 使える筈? 何の話してるんだ?」
ヴェルトが要領を得ない二人の会話に疑問を呈したその時だった。丁度チャイムが鳴った。
トムは歩いてインターフォンに近付き、モニターを確認する。
「二人とも入ってくれ」
二人とも……つまり、一人じゃない。
トムの言葉にヴェルトとミリアはいち早く反応する。
「二人とも来た」
「父さん、ルドルフさんとアリーナさんでしょ!?」
「ああ、そうだよ。さて、行くか」
そう言って、鍵を開けにトムは上がっていく。
その後しばらくしてから、ドタドタと騒々しい足音が聞こえて来た。
「やあ、皆、久しぶり! もしかして、俺早く来ないかなって待っててくれた?」
そのまま騒がしい音を立てながら階段を降り、トムに次いで部屋に到着するやいきなり賑やかが過ぎる声を発し始めたのはルドルフだった。
「いや、別に待ってないけどな」
「えっ、ちょっと、ザムエルさん!」
「大丈夫だよ、ルドルフさん。誰も全く待ってなかったから」
「ねえ、ヴェルト、嘘って言ってよ! なあ、ミリア、君は待ってたよね」
「いえ、別に」
「うおっ、全滅だ! もう皆酷いね!」
「大丈夫だ、ルドルフ。私は心の片隅の更に四分の一ぐらいでお前と会いたいと思っていたさ」
「トムさん、それ要するにほとんど思ってないじゃないですか! 全然フォローになってません!」
ガーンとか言いながら頭を抱え、ショックを受けた様子を体に表すルドルフは相変わらず騒々しい。
そのルドルフの様子を見ながら、その後に到着したアリーナは溜息を溢す。
「ルドルフさん、こんな状況でも変わらないですね。凄いというか、空気がまるで読めないただのバカというか」
「やっぱり一番酷いのは、アリーナ、君だね!」
「おうっ、アリーナ。待ってたぜ」
「大丈夫だったか、アリーナ?」
「アリーナさん、久しぶり! 遅かったな」
「……アリーナさん、やっと来た」
「なんか皆、俺に対してと全然扱い違うんだけど!」
このいつも通りのやり取りに皆の頬が緩む。
へっと笑うザムエル。暖かな笑いを溢すトム。ニコリと微笑むミリア。的確な反応にくすくすと笑うアリーナ。文句を言いながらも、その後腹から笑うルドルフ。
いつも通りではない状況で、いつも通りのこの空間。その中にいて、ヴェルトも腹を抱えて笑っている。
ルドルフが変わらないのは状況が分かっていないからではなく、状況を分かった上でいつも通りでいることを選んでいるから。ヴェルトはそれが出来るのは素直に凄いと思った。
いや、ルドルフだけじゃない。皆、自然と笑えている。だからヴェルトも心から笑える。
「ミリア、何だかんだ変わった人達だけど、この人達はやっぱり凄いな」
笑いが収まってから、ヴェルトはひっそりとミリアの元に寄って話掛ける。
「ヴェルト、それは今更過ぎると思う」
「ああ、全くその通りだな」
ヴェルトはハハッと軽く笑い、ミリアも微笑みを見せる。
「でも、凄いっていうならヴェルトも凄いと思うよ」
「俺が? 何で?」
ミリアの予想していなかった言葉に思わずヴェルトは質問で返す。
滅多に言われることのない言葉に、嬉しさ訝しさ半分で。
「ヴェルトはあの人達にもないものをたくさん持ってるから」
それを聞いたヴェルトは、おいおいと肩を竦めてから、へっと自嘲気味に笑った。
「俺はお前と違って天才的な頭脳なんてもんも無いし、そんなものねえよ。ていうか、それをお前が言っても嫌みにしか聞こえないんだが」
ヴェルトはじとーっと横目で、冗談めかして睨め付けてみる。
それにミリアはフルフルと首を横に振って答えた。
「違う。確かに成績は私の方が上かもしれないけど、でもヴェルトには私も誰にも負けないものを持っている」
「……誰も持っていないもの?」
「そう。そんなあなただから私は救われた」
春に花が開くように、静かにミリアは精一杯であろう、綺麗な笑顔を咲かせた。
ヴェルトは見慣れた筈のその顔に一瞬見惚れてしまった。
「おい、そこの二人! 何二人でこそこそ話してるんだよ。お前らもこっちに入って話そうぜ」
不意にヴェルトの肩に重みが掛けられた。
そのままルドルフが二人の肩に腕を巻き、ぐいっと四人が集まっている輪にヴェルトとミリアを引き込んだ。
「えっ、いや、ちょっ、話そうって、唐突に何だよ。さっきまで話してたじゃん。急に気持ち悪いんだけど……」
というか、そんなことを言い出すのも珍しいし、裏がありそうと、ヴェルトはかなり懐疑的な目でルドルフを見つめる。
「おいおい、何だその目は! てか、気持ち悪いって失礼じゃねえか!」
「うん、そうだよね、ヴェルト君。分かる、分かる。この人気持ち悪いよね」
「おい、アリーナ、何で君まで共感しちゃってんの。ていうか君さ、俺が先輩だっていうの絶対忘れてるよね」
「大丈夫です、そんなのちゃんと分かってますよ。……くっ、先輩……」
「うん、あのさ、笑いながら言われても全然説得力ないんだよね!」
興奮気味に反論するルドルフ。
二人のやり取りを見ているのは相変わらず微笑ましい。が、それよりもヴェルトは疑問の方が大きかった。
「でも、今更だけど、こんな時にこんなゆっくり話してても良いのか。このままじゃここも危ないんじゃないのか。ウイルスの侵入とか、あとは誰か押し掛けてくるかもしれないし」
「まあ、そう言うな、ヴェルト。少しぐらい大丈夫だろ。あとちょっと話そうや」
「そうだな。こういう時だからこそ、皆でいつもみたいにゆっくり話したいじゃないか」
ザムエルさん所か父さんまで、っとますます慣れない状況にヴェルトの疑問は膨らんでいく。
そもそもここに連れてきたのは父さんだ。何か目的があったんじゃないのか。
「そうだね。ずっと気を張ってたんだから、ちょっとぐらい気持ちを緩めないと。焦ってばかりも良く無いよヴェルト」
「いや、ミリア、確かにそれはそうかもだけど――」
「ヴェルト、父さんにもたまには学校の話でもじっくり聞かせてくれないか」
「……分かったよ。そうだな、焦ってもしょうがないよな」
それにいつも研究で忙しいトムとは、ヴェルトはそんなにじっくりと話す機会も無かった。勿論皆とも。
だから、ヴェルトもじっくり話した。時には冗談を交え、皆も各々遠慮無く楽しげに。
その時間はあっという間で、早く過ぎ去っていった。気が付いた時には、話始めてから一時間程経っていた。
「さて、そろそろかな」
急にそう言い出してから、ザムエルが自分のパソコンの前に向かう。
「よし、完了だ。もう皆、良いよな」
「ああ」
「はい」
「オッケーです」
ザムエルの問いかけに、トムが、アリーナが、ルドルフが、応える。
それまで皆で笑いながら話していたのに、全員急に顔を苦しげにしながら。
「どうしたんだよ、皆? 何で急にそんな、辛そうな表情してんだよ」
「……何かあったの?」
ミリアも急な変化に戸惑いを隠せていない様子だ。
どうした。急に。そもそも完了? 何が?
「完了って何の話さ? そうだ、そういえばここに来てすぐの時もザムエルさん準備とか言ってたし、これから何かやるのか?」
ヴェルトの質問に、ルドルフとアリーナは下を向き黙り込む。ザムエルもパソコンに顔を向け、ただトムだけがこちらを真っ直ぐ見つめながらはっきりと告げた。
「ヴェルト、ミリア、お前ら二人にはこれからタイムマシーンで過去に行ってもらう」
その言葉をすんなりと納得することが二人には出来なかった。
突如、不意に全く予想していなかった言葉を告げられ、ヴェルトもミリアもただ戸惑いの様子を見せることしか出来ない。
「過去に……? って、何でだよ。何でそんな突然……」
「急に言われても……」
二人の様子を見たザムエルがへっと軽く笑う。
「どうしたんだ、お前ら。まさか、びびってんのか」
「なっ! 違うよ! びびるとかそういう問題じゃなくて――」
こんな状況でザムエルが普段通りに、嫌みな口を聞いてきた。
思わず反論するヴェルトを遮って、ザムエルは尚嫌みな雰囲気で問うてきた。
「じゃあ、何でそんな表情してんだよ。ヴェルト、お前いっつも過去に行って世界を変えてやるって言ってたじゃねえか」
「そっ、それは……」
先の言葉に詰まるヴェルト。
勿論今までヴェルトが言って来た言葉に偽りの気持ちなどない。過去に行き、病気の根源を絶つことで、病気に満ちたこの世界を変えるという夢は未だ変わることのない、ヴェルトの中で強い行動原理になっている。
しかし、次々と変動していく現状の中で、全くもって予想すらしていなかったことを言われヴェルトの中に現れるのは疑問と戸惑いばかり。
高校を卒業してから医療を学びに大学に進み、充分な設備と人数の下で抗ウイルス薬を作ってから、タイムリープするという構想があった。だというのに、何の準備もしていない状態で今から過去に行く?
……俺は何をすれば良い? どう救えば良い?
「確かに急にこんなこと言って申し訳ないな、ヴェルト、ミリア」
トムが一歩前に出て、こちらを見ながら言う。
しかし直後にその瞳は若干伏せられ、それを見たヴェルトはその目が哀しみの色に染められているように見えた。
「でもな、こんな緊急事態に陥ってこのまま過ごしていたら、いつ病気に罹ってもおかしくない。もう中に入ってきた以上、感染者は増える一方になるだろう。そしてその脅威はもうすぐそこまで近付いている。……それから逃れる為には過去に行くしかないだろう」
「なら、皆で行けば良い」
「そうだよ、皆で行こうよ! 俺とミリアだけじゃなくて皆で行けば良いじゃん。あれっ、でもタイムマシーンはまだ未完成だったよな。そもそも過去に行くこと自体出来るのか? 危険じゃないのか? いつもタイムリープは危険だって父さん言ってるじゃないか。そんな危険なことを俺達だけにやらせるのか。それに――」
ミリアへの同意をトリガーに次々と口から言葉が溢れ出す。
混乱しているヴェルトは、ひたすら出てきた想いを口にすることしか出来ない。
「ヴェルト、聞いてくれ!」
それを制しようとせんばかりに、トムが強い口調で声を出す。
普段、声を荒げないトムの聞き慣れない声。それを聞いてヴェルトははっと我に返る。それから深呼吸をして気持ちを落ち着かせようと務める。
「ミリアにも聞いて欲しいんだが、確かにヴェルトの言う通りあのタイムマシーンは未完成だ。だが、度重なる実験である程度の安全は確認してきた。……とはいえ、何度も言って来た通り、タイムリープは自然の摂理に逆らう、言うなれば神に逆らう大きな罪を犯すようなものだ。完全な安全なんて保障出来ないし、結局何が起こるか分からない。それにな、物体を過去に飛ばす以上かなりのエネルギーが必要になる。だから一回のタイムリープで飛ばせるのは、精々二人が限度なんだ。それらを踏まえた上で決めるのはお前達だ。お前達が行きたくないと言うなら、無理にとは言わない。タイムリープなんかしなくても良いさ」
続けて、「結局お前らに苦しい選択を強いることになって申し訳ないんだが……」っと呟くように告げる。
そう言うトムの顔の方が、悔しさを必死に噛み殺すように、そしてそれを感じさせながらも、しかし平常でいようとする意志を感じさせた。いや、違う。皆同じ様子だ。
苦しい選択を迫られたのはこの人達の方だ。
「いや、でも……なら、何で俺達なんだよ……? 俺達以外の人が行った方が、成功率は高いだろ、どう考えたって」
「そんなの決まってるだろ」
ニッと悪戯っぽく、無理していると分かる笑顔でルドルフが答える。
「えっ……」
「ヴェルト君とミリアちゃんには生きて欲しいからだよ」
アリーナがふっと優しい笑みを浮かべた。
「そういうことだ。もしも緊急の事態に陥り、過去にタイムリープするべきだと判断した時は、お前達二人を過去に飛ばすとあらかじめ皆で話し合って決めておいた。お前達は、私達全員の大切な家族だ。皆、死んで欲しくないと思っている。――それに、私はもう大切な人が死ぬ所を見たくないんだ」
遠い過去を思い出しているのだろうか。
儚く作られた笑顔が、とても寂しげで、それは滅多に見せないが今まで一度だけ、最初に出会った時に見せたトムの表情だった。
しかし、その言葉は嬉しく、同時に異様に腹が立った。
「そんなの俺もだよ!」
自分だけだと思うな、人の気持ちも考えろと、意志を込めてヴェルトは大きく声を出す。
「私も! 私もお父さんや皆には死んで欲しくない。私達が今生きてるのはお父さんのおかげ! 私達が楽しく過ごせてきたのは皆のおかげ! 死んで欲しくなんかない」
ミリアが必死に叫ぶ。珍しい光景に、ヴェルトも、他の者も驚いた表情を見せる。
ミリアも同じ。過去に大切な人を失い、深い心の傷を負った。ヴェルトと同じだ。
二人だけじゃない。皆、失う辛さは分かっている。気持ちは一緒な筈なのだ。だから、誰には生きて欲しいとかじゃないのだ。
「ならお前達は、俺らの中の残った奴らと一緒にただ死を待つなんてバカらしい運命を選ぶってのか」
ザムエルが微塵も冗談などないと分かる真摯な表情でヴェルトを見つめる。
「それは……」
「大体、お前らが残った所でタイムマシーンに関わるプログラムなんか碌に扱えないだろ。俺らが残って、プログラムを調整しながら、起動し続けるしか無いんだよ。じゃないと、どうやって過去から戻ってくるんだよ」
この研究所でのタイムマシーンは誰か複数人が、起動、調整し続けていないと時間移動することが出来ない。
つまりヴェルトが何と言おうと、タイムマシンを使う場合、現状では他の四人がここを離れることは不可能なのだ。
そんなこと今まで何度も聞いてきた。それでも頭じゃない。気持ちが納得が出来ない。
「でも、過去を変えたらその戻る場所だって失うかもしれない! この場所も無くなっているかもしれない。皆と過ごした日々が無くなるかもしれない! いや、多分無くなるんだ……」
そして度重なる実験で何度もヴェルトは見てきた。
何回タイムリープしても全く同じ事柄しか起きないなんてことは一度も無かった。世界はその時々に応じて形を変えた。
だというのに、病気発症の二十五年前に抗ウイルス薬を送っても、現時代の状況を書いた手紙を送っても、病気が消えることはなかった。些細な出来事は変わっても、赤体病という世界規模の災害の歴史を変えることは出来なかった。
それでも、確かに微妙な誤差程度だけだとしても歴史は変わってきた。間接的ではなく、直接的に病気の根源を絶つことが出来たならば、病気の無かったこの世界を変えることが出来るかもしれない。
しかしそれはつまり、病気さえ無ければ集うことの無かった仲間達とはどう足掻いても同じ関係ではいられなくなるということである。
病気のお陰で何て思いたくはないが、それでも病気が蔓延したこの世界だから出来た仲間もいるのだ。もし病気が無くなったらその人達とは関係が変わっているかもしれない。
いや、仮に変わった世界でも仲間だったとしても、この世界で過ごしてきた時間は失ってしまうのだ。
「何、今更んなこと言ってやがるんだ。今までだってそんなの分かりきってたことだったじゃねえか」
ザムエルの言葉が重くのし掛かる。
そうだ、全くその通りだ。今までだってずっとそんなの分かって言って来た。
でも、今はとても自覚する。あれが、どれほど無責任な発言だったか。一人になる勇気もまだ碌に持たずにただ自分の感情のままに言っていた愚かな発言であったことを。
そのことを突如突きつけられた選択で気付かされた。
そしてヴェルトは考える。
それなら自分が小さい時に刻んだ想いは偽物だったのか。怒りや憎しみに任せ、ただ衝動に駆られて出てきた想いだったのか。
――いや、違う。
確かに、怒りや憎しみから衝動的に生まれた想いだ。でもあの時の気持ちは本当だった。エルボやミリア、他の皆に言って来た言葉は嘘偽りの無い、全くの本心だった。
俺は、世界を変えてやる。俺が、こんな腐った世界を変えてやるんだ。
それは今でも揺るぎない、自分の願いだ。
困難でも、誰かと別れることになっても、変わった所でどうなるか分からないとしても、そもそもどう変えれば良いか分からないとしても。言い過ぎかもしれないが、絶望と希望が同時にあったとしたなら。
俺は――
「……行ってやる。そうだ、そんなの分かって、でも変えたいって願いばかりでリスクなんて考えないできた。でも、大丈夫。俺は行く」
キっと、強い意志を込めた目に変わるヴェルト。
ガキだ、子供だとバカにされて、今まで否定してきた。でも確かにその通りだったのだ。
結果ばかりを求めるただの子供だった。
「そうか……」
どこか安堵した顔を見せながら、トムが呟く。
「ヴェルトが行くなら私も行く。誰も死なせない。――ヴェルト、あなたを一人で死なせはしない」
「何言ってんだ、俺は例え一人になっても問題ねえよ。それよりお前の方が大丈夫かよ、ミリア。覚悟は出来たのか?」
なんて聞いてはみたものの答えは分かりきっている。
ミリアは必死とも言える、覚悟を秘めた顔をしている。
「私は大丈夫。ヴェルトが決めたなら私はそれに着いていく。あなたが世界を変える時に一緒にいてサポートする。それが私の願いだから」
「あっ、ああ、そう、か……」
ミリアの純粋な想いが固められた視線が照れくさく、ついヴェルトは目を逸らしてしまう。
「よし、二人ともよく決めてくれた。あとはすぐ終わる準備の最終段階が残ってるだけだ。早速行ってくれるか?」
「ああ、大丈夫だよ」
「……行く」
「じゃあ、これを腕に填めて、二人とも」
トムの問い掛けに迷いなく答えたヴェルトとミリアは、アリーナから黒い腕輪状の機械を手渡された。
傍から見ればただの腕時計に見えるこれはタイムリングと呼ばれるタイムリープに必須なアイテム。
リングの先には液晶画面が着いていて、そこには日付や時刻、それから意味の分からない数字と文字が混ぜられて並べられている。その中には座標を意味する文字もあり、どうやらこの文字と数字がこのタイムマシーンの座標を示しているようだ。というか、そんな説明を前使った時に受けたな、とヴェルトはふと思い出す。
リープする際にはこの機械で、現代のタイムマシーンと連携し、時間を移動する。
輪の太さは自由に調節出来る。それぞれ大きさを変えて手首にはめる。
「それとこれも持っていってくれ」
ルドルフが差し出してきたのは、五十センチ程の大きさをした長方形の白いケース。
それを見た瞬間、理由は説明出来ないのだが、ヴェルトはまだ聞いてもいないケースの中身を理解してしまった。それは状況から判断した予想などではなく、まるで分かっていたかのように、というより何かを思い出す時のようにぱっと中身が脳内で浮かび上がったのだ。
「これは薬、だよね?」
「そうだけど、何で分かったんだ?」
驚いた表情を見せるルドルフ。
しかし、ヴェルト自身も何故かなんて自分ではよく理解出来ていない為戸惑ってしまう。
「いや、何となく、勘で……」
「勘ってお前、凄いな」
その言葉が正しいのかはよく分からないが、他に適当な言葉が見つからないヴェルトにはそう答えるしかなかった。
更にもう一つ。これも思い浮かんだことだが、ヴェルトはルドルフに問うた。
「これって、入ってるの一本?」
「それも勘か? 本当に凄いな。その通りだよ」
「すまないな、現時点で用意出来たのはその一本だけだったんだ」
トムが申し訳なさそうに発言する。
それを聞いて、やはりとよく分からない納得をした後に、自分でも得たいの知れない胸騒ぎを覚えるヴェルト。
嫌な予感がしてならない。客観的に見ても一本じゃ足りない。感染者が多数、一斉に見られたらアウトだ。それでもそれだけじゃなく、何というかそのままだと取り返しのつかない事態に陥るような、そんな実感に似た不穏なイメージを持ってしまった。
「一本だけか……。父さん、他には本当に無いの?」
「ああ、悪いがな」
「いや、でもトムさん。まだ開発中ですけど、完成間近の薬ならありますよ」
それを聞いた瞬間、トムの顔に険しさが増す。
「あの、薬か? いや、ダメだ。完成は近いと言っても未完成なことに変わりはないんだ。国に認可も貰っていない、危険な薬だ。下手に使うことで、事態が悪化してしまうかもしれない。その人を更に苦しめて殺してしまうかもしれない。ウイルスが予想もしない化学反応を起こして更に力を増してしまうかもしれない。未知な部分が多すぎる」
ルドルフの発言に対して、否定の意志を見せるトム。
薬は国に使用許可を得るまでは使用してはいけない。これは法律によって決められている。もし使用した場合、それは法を犯すことになってしまう。
とは言っても、それは過去では適用外だから問題ないのだが、問題なのはまだ国が許可を与えていないということ。つまり国に試作してもらっていないということだが、それはトムの言う通り未完成だから。危険な代物とは言えど、安全な保障なんてどこにもない。
時間があればと、ヴェルトは悔しい気持ちになる。しかしそんなこと考えるだけ無駄。今はもう時間なんて無いのだ。
それに最新作ということは、今ルドルフの持つ元の薬よりも尚ウイルスに対抗する力を強めるように試行錯誤してきたということになる。
危険でも何でも、それが必要になるとヴェルトは思った。
「父さん、それ持って行かせてくれ」
「……! ……危険だと分かっていてもか?」
トムは驚いた表情を見せた後、静かに確かめるように尋ねてきた。
「それでも、それが必要になると思うんだ。――明確な理由はない、ただの勘だけど」
「……そうか」
じばらく考える様子を見せた後、深く息を吸い、何かを覚悟したように頷いたトム。
「ちょっと待っていてくれ」
そして、部屋を出て行った。
それから戻ってきたのは数十秒後。手には注射器を持っていた。
「ヴェルト、これがまだ試作段階の薬だ。……でも、悪いな。これも今用意出来るのは一本だけなんだ」
「良いの?」
自分で言っておきながら、そうヴェルトは尋ねてしまった。
「ああ、仕方ないさ。この薬が必要になるというお前の言葉に、俺も同感してしまったからな。お前なら大丈夫だって俺は信じているんだ」
無色透明な液体が入った注射器を、ルドルフの持つ白いケースにトムは収めた。
そしてそれをルドルフが手渡してきた。
「分かった。ありがとう、父さん、ルドルフさん」
どうすれば良いのか全く見通しが立たなかった中、これで助ける見込みが出来た。
白いケースを受け取ったヴェルトは、そのことにとりあえずの安堵を感じ若干頬を緩めた。
「それが役立てば良いんだけどな」
「……ああ、そうだな。出来るなら、それで死ぬべき筈だった命が助かることを私は望むよ」
「絶対、そうして見せるさ」
ルドルフとトムの言葉に対して、ヴェルトは強い覚悟を持った顔で誓った。
「でも良かった。二本あるってことは、一本はヴェルトが病気になってしまったら使える」
「おい、ミリア、何で俺が病気に罹る仮定の話してんだよ」
「無いって信じてるけど、もしもの可能性はない訳ではないから、その時は……」
「それはそうだけどな……」
そんなことある訳ねえよ。続けてヴェルトが言おうとした時だった。
ドンドンと扉を叩くような音が上からした。
アリーナが急いでインターホンの方に向かう。
「トムさん、多数の人が研究所の前でひしめきあっています!」
大きな声を上げるアリーナ。その声からは大分焦っていることが伝わってきた。
「スピーカーにしてくれ」
インターホンをスピーカーにした途端に聞こえて来た大きな音。それと共に入れてくれとただ救済を求める人々の声が聞こえてきた。
もうここに助けを求める人が押し寄せているのか。
その光景に、全員が苦々しげな表情になる。
そしてトムが呟く。
「……本当に急がないといけないらしいな」
「そうみたいだな」
ザムエルが応えると、最後に少しの起動調整を残すザムエルを除く全員で、タイムマシーンが置いてある奥の部屋に向かった。
部屋の中には、たくさんのコードが集結されている鉄の筒のような銀に輝く機械が置いてあった。
この部屋にタイムリングを付けた状態で入れば、あとはタイムリングの電源を着け、パソコンで操作することでタイムリープすることが出来る。
部屋に付き、五人は見つめ合う。聞こえて来るのはウィーンというファンの音だけ。声は誰も出さない。
そんな中、ヴェルトは全員を見渡し、そして遂に口を開く。
「そろそろ皆とお別れだな」
「ちょっと待て、ヴェルト、ミリア。その前に、言っておきたいことがある」
ルドルフに呼ばれ、振り返るヴェルト。
その先ではいつになく寂しげに笑うルドルフが立っていた。いや、ルドルフだけではない、全員だ。ミリアも、ヴェルトも。
「お前達、無理はするなよ。特にヴェルト、お前は目標の為なら自分を犠牲にしそうだからな。ちゃんと自分のことも考えろ。それからミリア、傍でヴェルトを見守っといてくれよ」
「はい、分かってるし、そのつもりです」
「分かってるよ、それぐらい……」
「なら、良いけどな」
力強く答えるミリアとそんなの当然だろとばかりに言うヴェルトを見て、ニシシっと悪戯っぽく笑うルドルフ。
「ヴェルト君、ミリアちゃん、私達全員の悲願、病気の無い世界に二人なら変えられるって信じてる。どうか、お願い。平和な世界を実現させて。……でもね、例え叶えられなかったとしても、何より私達が辛いのは二人が死んでしまうこと。どうか、生きて帰ってきて、二人とも……」
瞳を濡らしながら、それでも必死に堪えて、変わらない笑顔でアリーナが言った。
その直後、足音が聞こえ、部屋にもう一人入ってきた。
「へっ、準備完了だ。あとはリングを起動させれば移動出来るぜ。これでやっと、バカなガキとお別れ出来る訳だ」
相変わらずニヤニヤと悪態を吐くザムエル。
「誰がバカだよ」
反論の声にいつもの勢いはない。
若干ムッとはしたものの、それだけで、それ以上、いつものように怒りなど沸き上がる訳がない。ただ込み上げてくるのはこんなやり取りも出来なくなるかもしれない寂寥感だけだ。
何故なら再び視界に入った父の同僚は、今度は自分と同じ、寂しさを隠しきれていない顔をしているのだから。
「バカだよ、お前は本当のバカだ! どうしようもなくガキで、バカで……。でも、そんなバカだから、俺もいつのまにか感化されちまったんだよ。すまねえな、お前の夢を無理だ、無理だと言っておきながら、いつの間にか本当にお前なら、いや、お前らならって思っちまってた」
「えっ」
予想もしていなかった言葉に、即座にヴェルトは言葉を返せなかった。
あの皮肉屋なザムエルが初めて聞かせた本音。
俺だって、まだ言い残した、訂正しなきゃいけないことがある。
「あと、ミリア、お前は普段は俺と同等、いや、俺以上の頭脳を持ってるくせに、誰かさんのこととなると途端にバカになっちまうところがあるからな。程々にしとけよ」
「多分、無理だと思う」
ミリアがここまで沈んだと分かる表情を見せることは滅多にない。
何故だろう。さっさと目標を果たして、変わった未来に戻れば良い筈なのに。ヴェルトは嫌な胸騒ぎがする。
これは単に、失敗を恐れているだけなのだろうか?
いや、どちらにしろ、ここで言わなきゃ後悔するのは間違いない。
ヴェルトは叫ぶように、否定と本音の言葉を口にする。
「俺もさ、今まで仕事してないとか、薬が全然出来ないとかさ生意気なことばっかり言ってきたけど、本当は凄いと思ってた。誰もが心の中ではもうある訳無いと思い込んでいるウイルスの消えた世界を本気で目指して、実際にここまでやれて、ずっと、ザムエルさんも、他の人達も本当に凄いんだって尊敬してきたんだ。いつの間にかこの人達なら変えられるって本気で思ってた。……今までごめん、なさい」
次で良いやと先延ばしにし、しかし言う機会を失っていた言葉。照れもあり、視線を逸らしてしまったが言えた。
良かったとヴェルトは安堵する。
それに対して、最初に聞こえて来たのは鼻を啜る音だった。驚いて音の発信元を見てみると、ザムエルが右腕を両目に押し当てている姿が見えた。
「んなこと一々気にしてんじゃねえよ。なら、俺はお前に何回皮肉を言ってきた。お互い様だろ……」
強がる言葉や口調とは裏腹の姿がどこかおかしく、ふと笑いが溢れた。
だが数秒後、腕を目から外したザムエルは、まだ少々光っている目をこちらに向けながら真剣な表情で言った。
「お前が俺達のことを凄いっていうなら、そんな俺達にお前らは託されたんだぞ。だから、あえてこんな酷なことを言うが、必ず病気に冒されたこの世界を救ってやってくれ。頼んだぜ、ヴェルト、ミリア」
「私もザムエルと、皆と同じだ。お前達なら出来ると心から信じているよ」
ザムエルとトム。自分が本気で凄いと思っていた二人に言われて、ヴェルトは誇らしい気持ちが沸き起こる。
だがそれに比例して、増していく悲哀感。その言葉はヴェルトの心を揺さぶる。
それでも自分が尊敬する人達に頼まれた以上、ここで曲げる訳にはいけない。覚悟はとっくに出来ている。
「お前達に出会った時からだったんだ。お前達ならきっと世界を変えられるって本気で思った。根拠もないし、出会ったばかりの筈なのに、本気でな。……きっとお前達があの人達に似てるから」
「あの人達……?」
初めてトムが口にした真実。それにヴェルトは首を傾げる。
「今じゃ、何故か顔も名前もよく思い出せないけどな……」
そう呟いた後、顔を引き締め直すトム。
そして気にするなと言わんばかりに声を張り上げる。
「さあ、言ってこい。私や皆を信じろ。お前達なら大丈夫だ」
「ありがとう、父さん、ザムエルさん、ルドルフさん、アリーナさん」
「皆、ありがとう……。私は、ヴェルトと一緒に、きっとまたこの場所に戻る」
研究所の皆が頷く。
「そういうこと。また帰ってくるから、その時はまた仲良くしてよ」
「当たり前だ。私達は血が繋がっていなくても、家族なのは変わらないからな。――それからもうダメだと思ったらいつでも戻ってこいよ。誰も責めたりなんかしないからな」
トムの叫びに二人が頷いた後、リングの電源を入れた。
二人の体を、光が纏っていき、数秒後光が消えたかと思うとそこに二人の姿は無かった。
☆★☆★☆★☆★☆★☆
ヴェルトとミリアが過去にタイムリープしてから二分程経った。
その間、呆然と二人が消えた後の虚空を四人は見つめていた。
久方ぶりに、最初に口を開いたのはトムだった。
「行ったな……」
他の三人は首を縦に振る。
「さて、二人のタイムリープがちゃんと成功したのかの確認と、あとは細かい調整をしていかないとな」
「大丈夫だよ。何せ、設定したのは俺なんだからな。あいつら、今頃二十五年前に行ってるよ」
ザムエルの発言にトムが「そうだな」っと、納得したように呟いて返す。
「そういえば、トムさん。外の人達はどうするんですか?」
「中にあげたい気持ちは山々だが、ここにいた所でどうにもならない。それにタイムマシーンは繊細だ。冷静さを失っている人達を近づけさせる訳にはいかない。しばらくこのままでいよう」
アリーナの問いに対するトムの解答に三人は同意し、各々の振り分けられた机の上に置かれているパソコンと向き合う。
そのまま皆が仕事を始めようとした時、ルドルフが言葉を発した。
「でもなんか、二人がいなくなって寂しくなるっつうか、既に寂しいっすね。ねえ、ザムエルさん?」
「何で俺に聞くんだよ!」
「だってザムエルさん、さっき一番悲しそうにしてたんで。泣いてたじゃないですか」
「はっ、泣いてねえよ! ていうか、それならお前の方が悲しそうにしてたじゃねえか」
「いっ、いや、別にそんなことないですよ」
「俺もそうでもなかったからな!」
「はいはい、二人とも。そんなしょうがないことで張り合わないでください」
溜息を溢してから、アリーナががザムエルとルドルフの間に入る。
だが、アリーナもザムエルもルドルフも皆分かっている。
一番悲しいのは、トムであると。
それでもトムはそんな三人のやり取りを見て、ふっと微笑んだ。
「きっとまた、いつもみたいに冗談でも交えながら皆で話すことが出来るさ。きっと病気が無くなった世界でな」
そのトムが言ったから。皆も同じ顔をトムに向けた。
――その時だった。
急に胸の辺りが苦しくなり、ごほっとトムの口から咳が出た。それと一緒に飛び出したものがある。
赤い液体。
「なんだ、これは……?」
その時、トムの脳内にパッと映像が思い浮かんだ。小さい時の自分。過去に自分が大切な人を失った時だ。その時、彼女が吐いていたものと同じものが目の前にあった。
そのままトムは激しく咳き込み、倒れた。
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