第4話 逃走

 本来暦上では、熱気漂う夏本番である今日、しかしこの中の世界ではそれは過去の話。

 ウイルスと共に太陽の光も遮断してしまっているこの世界では、調節の為の人工の熱と風が快適とされる気温を作り出している。その為、普段からこの時期でも涼しさすら感じられることもある程だ。

 しかし、今ヴェルトがいる場所はそんな快適さなど微塵もない。


「私達、一体どうなるの……」


「病気はどうなったんだよ……」


「くそっ、こんなことになるって分かってたなら、ここに来る前の日にもっと酒を飲んでいたのに!」


 体中から感じるのは、人々の熱気。

 五万人以上という人を収めているこの場所は、普段は総合アミューズメント施設とショッピングモールを複合した商業目的の建物だが、緊急の事態に陥った際には避難場所として各地にいくらかずつ用意されていた施設の内の一つ。

 いくつのもの区画が存在し、ヴェルトがミリアとトムと共に入れさせられた場所は普段は体育館として利用されているスペースだが、その広さはそこだけで約七千人収まっている程だ。しかしその所為で、重なった体温によって作られた熱気はなかなかのものになる。

 来る前に急いで着替えた服は、ヴェルトは白が基調で黒の線が入った長袖で、ミリアも長袖のワンピースを着ている。その為余計熱を感じる。

 勿論二人だけではない。普段から暑さに慣れているならともかく、快適さを身が覚えてしまっている中の世界の人達を辟易とさせるのにはそれだけで充分だが、それだけではない。希望を捨てたような人々の顔や四方から聞こえて来る混乱の声が作り出す、黒く淀んだ空気。それが更に場の空気を悪化させていく悪循環に陥っている。

 赤体病の赤、つまりレッドと死を意味するデッドを掛けてデッドウイルスと呼ばれるウイルスに感染した者が現れ、緊急警報が流れてから既に三日が経過した。その間、不備無く食物と水分は配給されていたが、安全保障の連絡が流れることはなく、そんなので治まる筈はない。いつ自分が病気に冒されるやもしれない不安や恐怖が人々に襲いかかっていた。


「くそっ、エルボの奴、何やってるんだよ! あのデブ、散々人のことバカにしといて、自分は病気にやられただあ。ふざけんじゃねえよ!」


「ヴェルト、いない人の悪口なんて言っちゃダメ。何より辛いのは、本人と家族なんだから……」


「それはそうだけど……」


 ここに移動してからすぐに、先に述べられた五人の病気の感染が確定された。

 自分の身近にいた人物が病気に感染した。そのことにヴェルトは戸惑いが隠せない。ただそれは他人事ではない。正直まだ大丈夫だと幻想に浸っていたヴェルトの元に、急に病気という存在が影を見せた、そのことに動揺が隠せない。あの恐怖が再び自分に襲いかかろうとしている。

 とはいっても、流された情報によるとエルボ含めた感染者達は壁内で北に位置する地区に住む人達らしい。ヴェルト達が住む南の地区とは離れている上に感染者は早期発見で隔離され、とりあえずその五人から今後被害が拡大する可能性は少ない。だが、今日侵入経路がはっきりしていない為、まだ発症していないウイルス感染者もいる可能性はあるのだが。その為、完全な安全が確認出来るまで避難を余儀なくさせられた

 いや、エルボなんて人が密集している学校に通っていた。他の人も多数の人と接触している可能性が高い。っとなると、いくら発見が早かったとはいえ、伝染した可能性の方が高いか。

 そして感染者達の死亡情報はまだ出ていない。それが人々を混乱させない為、もしくはウイルス対策に特化した設備を以てして死者が出てしまったという事実を隠蔽する為に情報を流していないか、それは分からない。

 いや、流石にそこまではしないか、っとヴェルトは首を横に振って考え直す。流石に死亡者が出たら、伝えられる筈だ。ということは、まだ死亡者は出ていない。


「だから何だってんだ……」


 拳を強く握りしめながら、ヴェルトは呟くように吐き捨てる

 病気は発症から一週間で感染者の命を奪っていく。それをヴェルトは嫌と言う程、心に刻みつけられている。

 五人いるんだ。あと数日経てば、ほぼ確実に誰かは死ぬことになる……。


「いつ俺らは外に出られるんだよ……」


「中は安全じゃなかったのかよ」


「もう、早く病気なんか治しちゃってよ」


 未だ収まらない苦痛の声が耳に入る。

 気持ちはヴェルトも同じ。いつまでもこんな閉塞した空間にいることに耐えられる訳がない。今すぐにでも出て行きたいが、扉は厳重に閉ざされ、一人たりとも外に出ることは出来ないようになっている。

 それでも腹が立つ。口から出すのは文句ばかりの奴らが多いことが許せない。自分の都合しか考えないこいつらと俺は違う。ヴェルトはきっと周りを睨み付ける。


「何だよ、今更文句言いやがって。何なんだよ、今までの状況と何が違うってんだよ。自分達以外の人間を見捨てて、自分達は安全な殻の中に閉じ籠もる。規模が小さくなっただけで、何一つ変わってないじゃねえか。なのに、自分達に危険がすぐそこまで迫ったと知ったら、こうなんのかよ。言った所で、何が変わるって訳でもないのに。――自分達は何もしようとしないくせに。文句ばっか言ってんじゃねえよ」


「ヴェルト、それは仕方の無いことだ。この状況じゃ誰も平常心でいられないさ。正しいとか間違っているとかではない。ただ皆、不安と恐怖に押し潰されそうな心を自分の中だけで留めておくことが出来ないだけだ」


 見上げた先、声のした方に顔を向けるとトムが普段通りの顔で、ヴェルトを見つめていた。


「それに、この場でお前が違うように皆が同じとは限らない。現状を間違いだと認識している者も少なくともいる筈だ。だが、どうすることも出来ずにこの場でただ事態が収まるのを待っているのは同じだよ」


「……父さんはずっと冷静だな」


 父親の言葉で少し落ち着きを取り戻したヴェルトは、意識的に肩の力を抜く。

 ここに来てからトムの口からは、ヴェルトやミリアを励ます言葉か、もしくは心配して調子を聞いてくるぐらいしか聞いていない。全く暗い表情は見せず、気分が下がるような言葉は口にしない。この状況でそれを出来るのは凄いと思っていた。

 そして今回もトムは笑みを見せた。しかしその笑みに一瞬陰りが見えた気がした。


「ヴェルト、それは違う。私は冷静なんかではないよ。努めて冷静でいようと無理をしているだけだ。正直に言えば、寧ろ悔しさばかりが募っている。こういう事態を防ぐ為に私達は、私は研究をしているんだ。お金だって貰っているのに、私は今はただお前達の不安を和らげてあげようとすることぐらいしか出来ていない。自分の無力感に腹が立つよ」


 この三日間で初めて父親が口にした、自分の内心。それはヴェルトが想像していたものとは違うもので、正直ヴェルトには予想も出来なかった言葉に驚きが隠せなかった。

 でもそれはずっと抱いてきた思いなのだろう。自分は病気を消そうと研究に努めているのにウイルスの進行は進んでいくばかり。ずっと自責の念に駆られていたのだと思う。

 この人はそういう人だというのをヴェルトは知っている。

 ヴェルトが十歳の時、ミリアと共に始まりの街で出会ったトムは、言った。「もっと早く来て上げられなくてごめんな」と。「私がもっと早く来てあげれば、君達の大切な人が死ぬことも無かったかもしれないのに」とも。

 トムの所為である筈がないのに、でも確かに自分達のことを思って涙を流しながら。


「ちょっと待ってよ。父さんが無力なら、俺はどうなるんだよ」


「大丈夫。お父さんは充分、世界の為になることをやっているから」


 ミリアも隣からトムを励ます。

 凄いと思った。こんな状況でも自分のことより他者に気を遣える父親が。この事態に全く動じていないトムがとんでもなく大きく見えていた。

 でも、内心は自分と一緒だと分かった。心配かけまいとしていた自分達に自分の気持ちを吐き出すぐらい疲弊しているのだと知って、ヴェルトはよりトムが大きく見えた。

 自分も見習わなければと思った。

 そのまま何も情報が流れないまま、一日、二日と過ぎた。

 そして、避難から六日経った日の朝、遂にその時が来た。


『今朝未明、六日前から赤体病の感染が確認されていた男性、ヨハン・アーデルハイトさんの死亡が確認されました』


 甲高い声で努めて冷静に話そうとしているのは分かるが、反面どこか自重したように沈んでも聞こえる女性の声がアナウンスで流れた。

 それと共に訪れる一瞬の静寂。

 しかし直後、事態を飲み込んだ人々は、より現実味を帯びた危険に悲痛の声を上げる。


「もうダメだ、俺達もいつか死ぬ!」


「また昔みたいに毎日病気の恐怖に耐えなきゃいけないの……」


「ふざけるな、俺はこんな所に閉じ込められたまま死にたくない!」


 もう限界は近付いていた。

 アナウンスを継続する女性も、出入り口を守る警備員も必死に落ち着かせようとしているが、その声が収まることは無い。各々溜め込めた恐怖をひたすら言葉に出し、まさにこの場は阿鼻叫喚の様相を描いていた。

 トムは黙って目を瞑り、ヴェルトは呆然と立ち尽くす。そんなヴェルトの右手をギュッと握る感触があった。隣を見ると、ミリアが自分の手を両手で力強く握っていた。


「どうしたんだよ」


「……ヴェルト。一人、死んじゃった……」


「ああ、そうだな」


 ミリアは伏し目がちにしている。表情ははっきり窺えないが、見なくともヴェルトには分かる。

 こんな弱々しいミリアを見るのは久しぶりだな、とふとヴェルトは考える。


「更にたくさんの人が死んで、遂にはここまでウイルスが来て、そして私達もウイルスに感染して死んじゃうのかな……」


「おいっ、ミリア」


「えっ」


 左手を重なる手の上に添え、ヴェルトはミリアの目をぶれること無く見つめる。


「大丈夫だ。遠回りして、随分時間も掛けてきたけど、人類はただ無駄な時間を過ごしてきた訳じゃない。この状況だってすぐに何とかなるさ」


 その言葉はミリアに言っているようでいて、何より自分自身に言い聞かせるようにヴェルトははっきり口にする。

 今はまだ自分は無力だから、いるとも分からない不確定な他人に頼ることしか出来ない。だからただそうであると信じるしかないのだ。


「それにこれ以上易々と死者が増えていくようなことはないさ。エルボも大丈夫だ。口は悪いしむかつく奴だけど、図太さだけは認めてんだよ。……それからお前が死ぬなんてこともない」


「違う! そうじゃない。私は、ヴェルトが……」


「俺か……? 俺も大丈夫だよ。前も言っただろ。俺は病気なんかにやられない」


「……うん、そうだよね」


 ミリアは不安が消えたように、安堵の笑みを見せる。

 ただの希望であって、でもそれに縋るしかないから言った言葉。そんなことミリアなら分かっている筈なのに、笑った。

 どうあっても、今は信じるしかないと分かっているからだ。ピンチに立たされた人類の底力ってやつを。人類の反撃の時を。ミリアもヴェルトも。

 だからその報を、皆が待った。しかし、現実と理想には確かなギャップが存在する。

 次の日に更なる感染者が見つかり、更に一日経って新たに死亡者も増えた。

 そしてここに避難してから九日目。


『同地区の避難施設にて、デッドウイルス感染者を確認。しかし、慌てず――』


 昼前に流れたそのアナウンスの声は、最後まではヴェルトの耳には入らなかった。

 もうそんな近くまで……。

 鼓動は増すばかり。徐々に迫りつつあるのに何一つ好転しない事態に動揺は隠せず、焦りは増していくばかり。そしてそれはミリアもトムも、そして他の人々も同じようだ。

 同地区でウイルス感染者が発見された。その最初の言葉だけで、ここにいる人達に追い打ちを掛けるには充分過ぎた。

 そして、更に一日経った、十日目。朝のことだった。

 このヴェルトが避難している施設内で一人倒れたという情報が随所から聞こえて来た。

 アナウンスは流れていない。病気の所為とは限らない。どころか本当にそんな人が現れたかすら不明瞭。

 それでもその出来事は人々を絶望させるには充分だった。

 本当に倒れたのかではない。本当に感染者が現れたのかではない。

 安全な場所などどこにもないという恐ろしい現実と一つの空間に押し込められる、逃げ場の無い監禁さながらの生活。そしていつ感染するかも分からない状況から徐々に恐怖が蓄積していき、最早耐えられなくなっていた。そんな緊張で張り詰められた中で、少しでも可能性のある情報が流れた。それだけで皆の負の感情は爆発した。

 もう無理だ、もう死ぬ、俺達もウイルスにやられる。そんな悲痛の声が飛び交う。

 遂に自分達の領域に侵入してきたウイルスへの恐怖に慟哭する者、ひたすら罵倒を叫ぶ者、悲鳴を上げるもの。その状況は正に阿鼻叫喚という言葉が相応しい、地獄絵図だ。

 他者との隔離を図り、危険を排除した閉塞的な空間は確かに安全と言えるのかもしれないが、逆に言えば一度危険に冒されたら逃げ場はないということになる。

 もし本当にこの場に感染者が現れたのだとしたら、最早逃げることすら許されない。しかも、現にウイルスは長年人々を支えてきた厳重な防御を突破し、中に侵入してきていた。

 何を頼りにすれば良いのか分からない不安も、人々の恐怖を助長させた。


「治まりそうもないな……」


 トムも現状を嘆き、苦しそうな表情をしている。

 ドクン、ドクンと跳ねる鼓動。ついさっきまで人類を信じていた筈なのに、希望に縋っていた筈なのに。状況を聞いた途端やはりこうなったと何故か納得している自分にヴェルトは疑問を抱く。


「ヴェルト……」


 弱々しい声が耳に届き、そちらを見やる。

 ミリアが怯えた顔でこちらを眺めていた。

 周囲を見渡す。多くの人がひたすら泣いている。何が起きているのか理解が追いついていないのか、ただ呆然と立ち尽くしている人もいる。こんな所にいても意味がない、閉じ込められながら死を待つのは嫌だとこの場を脱出しようとしている者もいる。

 ――俺は……俺はどうするんだ。

 こんな状況になってもまだ他人に縋って待つのか? ただ泣き続けるのか? ただ呆然と立ち尽くすのか? 

 ――何だそれ。バカげてる。


「ミリア、父さん! 俺達もここを出よう」


 ドシン、ドシンとどこかから何かが衝突する音がしている。

 おそらくあれは、ここを出ようと暴動を起こしている者が扉や壁に体をぶつけてこじ開けとしている音だろうとヴェルトは予想する。

 後方であるそちらに指を差し、想いを込めて真摯な表情で二人を見る。


「でも、ヴェルト! 外に出ても危険は増すだけだよ」


「ここで泣いていれば何か変わるのか。呆然と立ち尽くしていたら病気は消えるのか。……今日までここにいて何か変わったのか。これ以上こんな所にいたって死ぬことは変わらない。こんな所で死を待ち続けるのはごめんだ」


 ミリアの肩を掴み、必死に想いをぶつけるヴェルト。それを聞いたミリアは何か言い掛けて、しかし悔しそうに歯を噛み締める。

 その顔は、内容は違えど今のヴェルトの気持ちを代弁しているようだった。

 誰かが何とかしてくれる。今は自分は何も出来ないから、だからそれを信じるしかないと自分に言い聞かせた。しかし、そんなことしていても今まで何も変わることは無かったし、これからも変わることはないだろう。

 本当に俺は何も出来なかったのか。ただ何もしなかっただけじゃないのか。ここを無理矢理にでも脱出して出来ることもあったんじゃないのか。そんな考えばかりがヴェルトの頭を過ぎる。

 そのヴェルトの意志を聞いて、トムはただ黙ってこちらを見つめる。そして数秒後、口を開いた。


「……そうだな。一緒に出よう。ヴェルト、ミリア」


「でも! ……これからどこに行くの? 家に帰るの? ヴェルト、お父さん、何か考えがあるの?」


 否定しかけて、しかし口を噤んでミリアは二人に問う。


「いや、家に帰ってもどうしようもない。なら、向かう場所は一つだけだ」


「そうだ。ここを出たら研究所へ向かう。回線が混み合って電話は全く繋がらないが、多分皆も向かう筈だ。こういう非常事態に陥った時は、研究所に集まることに決めてるからな」


「そっか。久しぶりに皆に会えるのか」


 久しぶりと言っても一週間とちょっとだけど、っとヴェルトは少し自嘲気味に笑う。

 しかし事態が目まぐるしく変化した所為だろう。たった一週間前のあの何気ない日常がヴェルトにはとても懐かしく感じる。

 全員別々の部屋、もしくは建物に分けられて筈だが、感染者の情報で他の三人の名前は出て来てはいない。生きているのは間違いないしそこまで心配はしていなかったが、やはり会いたくなるものだ。

 ミリアもはっきり表情には表していないが、ヴェルトには長い付き合いだから分かる。杞憂そうな顔は相変わらずだが、どことなく嬉しそうな感情も見えた。

 そんなやり取りをヴェルト達がやっている間も、衝突の音は止まずに続いていた。

 そして、人混みを掻き分け、三人は暴動の中心へと向かっていく。

 もうこれ以上は進めないという所まで行き、遠目にその光景を見ると、素手やタックルだけではなく、そこら辺にあったのか、掃除用具の棒や木製の箱で壁や扉を殴りつけていた。壁は頑丈そうなガラス素材だが、度重なる打撃によりヒビがが入り、その向こうのシャッターにも攻撃が加えられている。

 次第にその衝撃とボリュームは増し、参加する人数、それから「ぶっ壊せー」や「早くしろやー」と煽るような言葉を吐きつづける者も増えてきた。

 そんな時だった。


「これを使え!」


 雑踏のざわめきの中の一つの言葉が聞こえたかと思うと、三人の横を人による手渡しで、ある物が通り過ぎていった。


「消化……器……?」


 赤い筒状の物体が前方に向かっていく。そして最前列に渡ったその物体で受け取った男が扉を思いっきり殴り付ける。

 それが続き、ヒビが酷くなってきた所で少し後方へと戻し、そこから思いっきり扉に向かって投げつけた。それにより遂にガラスがパリンと高調子で豪快な音を立て砕け散った。その破片を浴びながら、そのまま多数の者が続くシャッターをこじ開けようと藻掻く。

 それから五分ほど経ってからだった。再び凄まじい音が聞こえた直後、前方に向かって人々が徐々に流れ出していった。シャッターも破壊され、最早人々を抑え込めるものはなくなった。鳥籠から出された鳥が自由に空に飛び立つように、解放された人々は四散していく。

 三人も遂に外に脱出することが出来た。

 中の蒸し暑さから解放され、快適な人工の空気と気温を肌や気管が感じる。


「これも、随分久しぶりな気がするな……」


「でもヴェルト、言葉の割には複雑そうな顔してるな」


「えっ……いや、うん、そりゃまあ」


 まだ閉塞した世界であることに変わりないのに、仮初めの自由に歓喜する人達。しかし今はヴェルトも少しだけその気持ちを理解出来てしまう。

 太陽もない。青く広大な空もない。今まで空と呼ばれていた場所に広がる白い屋根を見ても悪い感情しか起きることはなかったのに、今は哀愁に似たような感覚を覚えている。そんな自分がヴェルトは少し情けなく思えた。


「ごほっ、ごほっ!」


「父さん!」


 安堵したようににこやかな表情を浮かべていたトムが、突如苦しそうに咳をし出した。

 その後すぐ治まったとはいえ、赤体病は初期は風邪と酷似した症状が出る。風邪だからと油断した瞬間、それが命取りになってしまうのだ。

 その為ヴェルトは今のを一瞬心配したが、対するトムは再び顔を崩して言った。


 「大丈夫だ、問題ない。ここ一週間以上、人に押し込められて過ごしてたからな。ちょっと避難施設と外の温度差に体が対応出来ていないだけだ」


 更に本当に大丈夫だ、とトムは改めて付け加えた。

 本当にそれだけか……?

 心配である故に、トムの言葉にヴェルトは疑念を抱く。


「さて、じゃあさっさと行かないとな。直に研究所に逃げ込む人も出ることだろう」


 しかしヴェルトが何か言う前に一転、今度は顔を真剣な表情に変えてトムが言った。

 街外れにあるが何も他と変わりはしない家を、研究所だとトムは安易な公表はしていない。しかし、ウイルスに対抗する薬を作る為には、危険なウイルスを調査の為に取り扱わなければいけない。そしてその為には、それに相応しい設備が整っているか国に審査してもらい許可を得る必要がある。

 ただもしそれが国にとって有用だと判断された場合、安くない援助金が出る。そして勿論トムの研究所も国に認可されている。いくらコストがかからず多額の寄付をしてくれる人員を集めたからといって、タイムマシーンまで並行して研究しているトムの研究所が持っているのはそれと更に他から伝で寄付してくれた人達のお陰だ。

 しかし国によって公認される。それはつまりいくらトムが研究所の存在を公表していないとしても、知る人は知るということになる。

 知人が多いとはいえ、冷静さを失った今この中に住む人が、国に認可され安全が保障された研究所に救いを求めにくる可能性は決して低くはない。

 研究所に最初に辿り着こうと三人は、急いで向かっていった。


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