月虹

石女ほおずき

第1話

 月虹


 例えば、どうしようもなく独りで、眠れない夜。

 彼の事を、思い出す。




 あれは、普段よりも春の訪れが少し遅かった年の、もうじき桜が綻ぶかという三月の半ば。家の前を通る者も絶えた、夜更けの事だった。

 私の部屋の窓を、叩く音がした。

 普段のように机に向かっていた私は、背中の窓から響くこつこつという音に手を止め、時計に目をやった。元より知人の類は少ない。まして、こんな時間に訊ねて来るような、同好の奇人の友人を私は持っていない。

 振り返ると、丁度机と正反対の側にある窓には、薄いレースのカーテンがかかっている。それ越しに、人影が窓に映っているのが見えた。一度首を傾げてから、私は窓に近寄り、そっとカーテンを引いた。

 一人の青年が立っていた。年は二十歳より少し前だろう、繊細な顔立ちをして、何故か子鹿のように大きな目を、少し脅えたように瞠っている。

 目が合うと、青年はその大きな目をより大きく見開いた。私はただ、困惑した。

 こんな時間に、一体何用だというのか。町の方から酔狂に散歩にでも来て、道に迷ったのか。考えながら、私は錠を外し、硝子窓を半分程開いた。暖房に慣れた身には些か厳しい、冷えた空気が入り込んで来た。

「あの」

 私がそうするのを待ちかねていたように、青年は声をかけて来た。

「あの、少し話をして貰えませんか。出来れば、外に出て」

 何かひどく切羽詰まった様子だった。色白らしい頬が、恐らくは光の加減なのだろうが、ひどく青白くも見えた。

 その剣幕に、私は鼻白んだ。だが、捜してもその申し出を断る有力な理由も無かった。仕事は気が乗らず手が止まっていたし、その日は月が明るく、夜の散歩と洒落込むには中々の天気だった。

 だから、私はただ肩を竦め、その見ず知らずの青年にそこで待つように言い、上着を取って玄関から書斎の窓の側へ行った。青年は、相変わらず何かに脅えたような顔をして、じっとそんな私を見つめていた。

 月の明るい夜だった。満月には少し早い、十三夜程の幾分欠けた月。大気は肌を刺す程冷たい訳ではなく、かと言って快適と言える程の温度は持っていない。寒さには弱い私は室内にいるときから持っていたカイロを、手袋をはめた手で包んだ。早くも、暖房の効いた室内が恋しくなりつつあった。

 話がしたいと言った青年は、先刻に私を誘ったきり口を閉ざし、水揚げされた貝のように口を閉ざしていた。私が先に立って来た土手の、草を踏む音だけがさくさくと聞こえる。まだ、虫が鳴くには早過ぎる季節だ。他には、時折川の方で何か生き物が立てるらしい、ほんの微かな水音。

 私は苛立ち、仕方なく自分から口を開いた。

「ところで、君は何を理由にこんな夜更けに、こんな所にいるんだね。まさか、私と語り合うのが目的だとは思えないが」

 私が声をかけると、青年は弾かれたように、自分の爪先を見つめていた顔を上げた。いやに白目の部分が青白い大きな目が、私を見る。何か、小動物か赤ん坊に理不尽な暴力を働いたような気にされ、私は一層苛立ちを覚えた。

「あ……ああ、いえ」

 青年は気弱な笑みを浮かべて見せた。

「確かにそうなんです。別に、誰でも良かったんです。貴方でなくても、人間なら、誰でも……」

 奇異な物言いに、私は疑問を覚えた。だが、その疑問を口にする前に、青年は自分の言った言葉を弁解するように、矢継ぎ早に口を開いた。

「ああ、違う。そういう意味じゃないんです。誰でも良かったってわけじゃない。貴方じゃなきゃいけなかった。でも、その貴方でなければいけなかったっていうのは、貴方が貴方でなければいけなかったというわけではなくて……」

 そこで、唐突に青年は口を閉ざした。自分で話していて混乱したらしい。数秒、目を閉じて苦しげな表情で黙り込んだ後、彼は短く「済みません」と謝罪の言葉を述べた。

「人と話したのは久しぶりで……。思考を言葉に変換する過程が、故障してるらしい」

 それは私にも経験のある事だった。なので、私はただ、彼に一つ肩を竦めて見せた。恐らく、試験勉強か何かでずっと家に籠もりきりで、生活のサイクルも狂い、話し相手のいないような日々を送っていたのだろう。そして、不意に人恋しくなって家を出、さまよっていた所、明かりの点いた私の部屋を見付け、衝動的に窓を叩いた。そんな情景が、私の脳裏に浮かんだ。

「気にする事はないさ。長い間、他人と話をしていなければ、誰でも多少おかしくなる。私を相手に練習して、少しでも気が晴れるならそうすればいい」

 青年は、私の言葉に泣きそうな顔をした。どうやら、余程人間の存在に飢えていたようだ。若者らしい筋の目立つ手で顔を覆い、彼は声も無く泣き出した。

「初めてです。こんな……まともに、誰かに相手をして貰えたのは。違う……『誰か』に会ったのも……初めて、かも知れない」

 あまりに取り乱した青年の様子に、私は思わずその肩に手をかけようとした。途端、彼は熱い物に触れたように肩を跳ね上げ、私から離れた。

「あ……あ、済みません、済みません……でも、駄目なんです……」

 繊細な顔立ちが、ひどく苦しげに歪む様は痛々しかった。だから私は、慌てて差し出した手を引っ込めた。

「な、何が駄目なんだね」

「貴方は、僕には触れない。それが、貴方に知られるのが嫌なんです」

 私は一瞬、青年の言葉を理解しかねて眉を寄せた。だが、哀しげなその表情を見つめ、幾度も言葉を反芻して、私は漸くその意味を飲み込んだ。

「私が、君に触れない? どういう意味だ」

「僕は、ここに存在していないんです。存在しているけれど、存在する事が出来ない。貴方の目には映っているかもしれないけれど、僕はここに存在してはいないんです」

 ますます理解が出来ない。解り難いその言葉を再び頭の中で幾度も繰り返し、私はやっと青年のいわんとする事をくみ取った。

「つまり、君は自分が幻影だと主張するのか?」

 青年は憮然とした。

「違います。僕はここに存在しています。物を考える事も出来るし、感じる事も出来ます。何より、こうして自分の意志で、貴方に話しかけてもいる」

 私は当惑した。

「だが、君は自分がここに存在していないと言った。ならば、本当の君は別の場所にいて、今私の目に映っている君は、他の何処かからここに姿だけが投影されている、誰かの虚像であると言いたいのか?」

「違います」

 青年は一層哀しげに応えた。

「僕は、ここに存在しています。息もしています。物を感じ、自分で思考する事も出来ます。自分で胸に触れれば、鼓動を感じる事も出来る。主観的には、僕は普通の人間で、息をしていて心臓が動いていると感じられます。……でも、僕はここに存在していないんです」

 青年は再び両手で顔を覆った。

「僕はここにいるんだ! どうして、誰も気付いてくれないんだ!!」

 私は鼻白んだ。これは、もしや俗に言う受験ノイローゼの学生と出会ってしまったのではないかと考えた。そのとき、青年は右手だけを外し、右半分だけの顔で、私に笑顔を作って見せた。

 喜びや楽しさ、そんな感情からではないと一目で判る、絶望的な笑顔。

「僕の気が触れているとでもお考えになったのでしょう? そうではないんですよ。むしろ、その方がずっと良かった。気が狂ってしまった方が楽だった。死んでしまえれば、もっと楽だった。……でも、僕はそうする事さえ許されていない」

 彼は、白い掌を私に差し伸べた。神経質そうに整えられた、白い爪が見えた。

 その時。不意に、月の光が僅かに陰った。薄い影が、私達の頭上にかかった。途端、身も凍るような悲鳴が周囲に響き渡った。私ではない。当然、青年だ。

 その時、私は見た。

 月が陰ったその場所だけ、影に食い荒らされたようにその『映像』の抜け落ちた、青年の姿を。さながら、写真をでたらめに切り抜いたような。

 悪夢の情景だった。

 私は思わず、一歩後ずさった。恐らく、月にかかった雲が通り過ぎたのだろう。再び、太陽の四十万分の一の光度の光が、辺りを照らし出す。

 いつの間にか、青年の姿は元に戻っていた。彼が天を振り仰ぐのにつられ、私も空を見た。いつの間にか、星座の見本図のように晴れ渡っていた空に、幾つもの雲が生まれていた。

「……もう、時間がない……お願いです、聞いて下さい」

 半ば逃げ腰になっていた私に、青年が哀願するように言った。より伸ばされて来る手から、私は意識せず逃れようと身を捩った。だが、その必要は無かった。

 私の上着の襟を掠めた青年の指先は、まるで手品のように、厚手の布を通り抜けた。

 青年の顔が絶望に歪んだ。

「貴方の言う通りかも知れない。僕は、確かに多くの人にとってはただの幻影です。いや、幻影ですらありません。僕の姿は、ほとんどの人の目には映りません。貴方の前に三人、僕の姿を見る事が出来た人がいました。だけど、その内の二人は僕を見た後、僕の声に耳を傾けてはくれませんでした。もう一人も、僕の言葉を聞いても、煩わしそうに無視しました。僕の言葉に耳を傾けてくれたのは、貴方が初めてです。

 僕の意識は常に存在しています。普通の人間のように眠りに就くことはありません。でも、こうやって、人の目に映る事が出来る姿をとる事が出来る時間は限られています。詳しい事は判りませんが、月が出るある一定の時間帯、月の光を浴びている間だけです。それ以外の時間は、意識だけが存在しています。手も、足も口もありません。移動をすることは自由です。視覚や触覚、聴覚を伴った『眼』だけが、空中を漂っているとお考えになれば、一番近いでしょうか。物に触れる事は出来ませんが、風や、温度の変化を感じる事は出来るし、物を考える事も出来ます。

 僕は、自分が誰だかを知りません。名前もありません。いつから存在していたのかも知りません。気が付いたら存在していて、ある一定の期間の月の光に当たったときだけ、今、貴方が見ている姿を取る事が出来ます。と言っても、僕は自分の姿を見た事はありません。鏡に映らないので、ね。

 貴方に理解が出来るでしょうか? 誰にも触れる事が出来ず、誰にも声が届かない、あの感覚が。なのに、意識は常にはっきりしている。眠りに就く事も出来ない。そして、誰の計らいかは知りません。僕は、狂気に陥る事も許されていないんです」

 青年の端正な顔が、狂気じみて歪んだ。だが、彼が正気を保っている証拠に、その大きな目は哀しみに満ちていた。

「貴方とは、二度とお会いする事はないでしょう。僕の姿が人の目に映るのは、その人の状態、月の光の状態、様々な要素が複雑に絡みあって初めて起こる奇跡なんです。現に、一度僕を見る事が出来た人に再会したとき、彼は全く僕に目をとめる事はありませんでした。彼の前に立っていても、彼は気にせずに僕を通り抜けた。……僕の姿を認識する事すら、出来なかったんです。きっと、貴方もそうなるでしょう」

 不意に、彼の姿は、私の目の前で薄れ始めた。私は慌てて手を伸ばし、消えて行く彼を捕まえようとした。だが、まるでそれがホログラム映像であるかのように、彼に触れる事は叶わない。

「きっと……貴方のような人には、もう二度と会えないでしょう。でも、忘れないで下さい。貴方の目に映らなくなっても、僕はここにいるんです。忘れないで下さい。僕は……ここに…………」

 大きな目に涙が滲み、こぼれ落ちたその瞬間、彼の姿はかき消えた。




 どうしようもなく孤独を感じ、目が冴える、そんな夜。

 私は、彼の事を思い出す。

 今も、ここにいるのだろうか。

 それとも、今夜のような月夜の晩は、言葉を交わす事が出来る人間を捜し、さまよっているのだろうか。

 月の光の元、様々な条件が合わなければ出現する事が出来ない、月の虹のような、彼は。

 自分はここにいるのだと、孤独に叫びたくなるような、こんな晩は、彼の事を思う。

 そっと窓に映る自分の顔を見て、安堵する。また、そこに映る自分の顔が思いの外彼に似ている事に、幾分改めて驚いてみる。

 そうして、誰よりも、誰よりも声を嗄らして叫びたかったであろう、彼の代わりにそっと呟く。

 私は、ここにいるのだ、と。


0303220223


 

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