それは戒めとして
「おかえりなさい」
呼びかけると、騎士はにっこり笑んでくれた。
こんなにやわらかく笑う人だっただろうか。レオナはそう思う。目が合えばいつも笑みで返してくれたけれど、以前はもっと事務的な印象があった。でも、それはレオナが騎士を知らなかっただけなのかもしれない。
アストレアの
城塞都市ガレリアから自由都市サリタまで、最年長の騎士は騎士以外の表情を見せなかった。あのときは状況が逼迫していたので、そんな余裕もなかったのだろう。騎士には守るべく主君もいたし、王家の姫君であるレオナもいた。
「公子が心配ですか?」
レオナはまじろぐ。意地悪な質問だと気付いたのはそのあとだ。
「ううん。そんなんじゃ、ないけれど」
砂塵の街に来たのは二度目、イレスダートの国外に出て最初の街でレオナは怖い思いをした。あのとき、クライドに会わなかったからどうなっていただろう。レオナはかぶりを振って、悪い記憶を追い出す。
「レナードとノエルは?」
「疲れたと愚痴ばかり言うので、置いてきました」
冗談なのか本気なのか。でも、こんな軽口を吐けるくらいに、いまのジークは騎士の仮面を脱ぐことができたらしい。
「二人とも、もう子どもではありませんので」
では、酒場で一杯たのしんでいるのだろう。幼なじみと軍師の帰りも遅い。砂漠を行くための準備は必要だとしても、難航しているのだからこのくらいの息抜きは許されてもいいはずだ。
「香茶を淹れるから、すこし待っていてね」
「いえ、どうぞお構いなく」
そう返ってくるのは想定済みなので、カップも温めておいた。夏が過ぎて秋に入ったとはいえ、南へと近付くほど暑い。けれども、疲れを癒やすにはあたたかい香茶をゆっくり味わうのがいいのだ。
大人数で泊まっているから茶葉の減りも早く、ルテキアには大台所に行ってもらったばかり、シャルロットはクリスとフレイアと教会に出掛けたし、アステアも買いものに行った。デューイの姿も見えないので魔道士の少年と一緒だろう。迷子になりやすい少年には相方が必要だ。
だから、いまこの広い部屋でレオナと騎士は二人きりだった。
ちょっと緊張してしまうのは、騎士とこうして話をする機会がなかったせいだと、レオナは香茶を淹れながら物思いにふける。ジークは大人しくカウチに腰を沈めていた。
「ありがとうございます」
品行方正な騎士の
「なにか土産でも買ってくるべきでしたが、取り合いになってしまうといけないので」
「ううん、いいの。気にしないで」
ああ、そうか。さっきの声といい、騎士はレオナを落ち着かせようとしているのだ。レオナも笑む。ここには育ち盛りの男子がいるから、喧嘩がはじまってしまうのは本当だ。
レオナは騎士をまじまじと見る。アストレアの面々は皆揃いの軍服を着ているけれど、騎士が一番よく似合っている。無造作に括られている黒髪、前髪もずいぶん伸びているから、一年前から切っていないようだ。でも、騎士には前にはなかったものがある。黒髪に隠れたその下、額から鼻筋に掛けて傷が見える。
「ほんとうに、治さなくても、いいの?」
言ってからレオナはすこし後悔した。触れてしまってはならない、そう思ったのだ。アストレアの鴉とはサリタで別れた。追っ手から逃れるために、ジークは主君の盾となったのだと、あとからきいた。あのときのレオナは自分のことばかりで、いなくなった人を気に掛ける余裕もなかった。
「あなたはお優しい方ですね」
「そんなことは、」
「どうか、私のことなど気になさらないでください。存外、気に入っているんですよ」
嘘か本当か。レオナは探ろうとしてやめた。
代償は、きっとその傷だけではなかったはずだ。
矜持を捨ててまで生き抜いて、怨敵とも言えるランドルフの傍で仕えた。ジーク一人では不可能だったそれを助けた者がいる。幼なじみの従兄弟であるダミアンだ。
ダミアンがあの時期にサリタを訪れたのは偶然だったのか、それとも。レオナには知る術はない。たぶん、ダミアンは彼にきっかけを与えただけだ。己の心を偽っても、騎士の矜持を失っても、それでも待つか。ジークがブレイヴを信じていたからこそ、耐えて忍ぶことができたのだろう。
「この傷は、戒めです」
騎士は言う。それは自分に対してなのか、それとも己の主君に向けてなのか。きっと、両方だろう。
あのときは、弱くて無力で逃げるしかなかった。ブレイヴもレオナもおなじだった。
「あなたが帰ってきてくれて、ほんとうに嬉しい」
騎士はやさしい笑みを返してくれた。
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