黒い渦

 朝からいきなり失敗したと、レオナは思った。

 昨夜は大聖堂の一室でファラと一緒に眠ったはずだった。湯浴みを終えて夕食のあとは赤毛の少女とたくさん話をした。ファラはずっと家族の話をしてくれたし、レオナも自分の兄妹や幼なじみのはなしを彼女にきかせた。

 なんだか、少女の頃にいた修道院みたい。

 レオナは十歳のときから数年間を王都マイアからすこし離れた修道院で暮らしている。隣室はルダのアイリオーネ。年も近いことからアイリオーネとはすぐ仲良くなり、夜にこっそり隣室へと忍び込んでお喋りをたのしんだ。翌朝、ふたりがおなじ寝台で寝ていたので修道女に見つかり、ちょっとあきれられたのも良い思い出だ。

 思い立ったらじっとしていられない性分が、レオナとファラは似ている。

 レオナは寝台がふたつあってもファラと手を繋いで眠った。ファラとは歳が離れていても、友達になれたような気がしたのだ。

 だから、目が覚めたとき赤毛の少女が消えていて、レオナはしばし呆然としてしまっていた。お喋りをたくさんしても、朝寝坊をしたわけでもなかった。ただレオナがまだ眠っているあいだに、ファラはこっそり寝台を抜け出しただけなのだ。

「たぶん、ジルに会いに行ったんだわ」

 魔道士の少年の前でレオナは悄気しょげていた。ファラもジルもナナルにつれて帰ると、意気込んでいたのはレオナ自身だ。それがこの始末はなんだろう。ジルとは物別れになってしまったし、ファラはまた勝手に行ってしまった。

「大丈夫ですよ。たぶん、ジルさんはここに来ると思います」

「えっ……?」

 レオナは目を瞬かせる。アステアはにこっとした。

「ジルさんの妹さんですが、やっぱり教会で預かってもらえることになりました。クリスさんが説得してくださったんです」

「そうだったのね……」

 全部が悪いことつづきというわけではなさそうだ。ほっとするレオナにアステアはにこにこしている。

「教会にはお医者様もいますから、きっと大丈夫です。あんなに大きなお腹で、教会に通うのも大変でしょうから」

「そうね……。でも、ジルはだいじょうぶかしら?」

「姉さんに心配掛けたくないって、ずっとそうおっしゃってました。でも、自分が枷となっているのなら、教会に保護してもらうのが一番良いって……。きっと、ジルさんもわかってくれます」

 レオナはうなずきで返す。あのとき、ジルはお金のことを心配していたが、この分だとその心配は要らなさそうだ。きっとクリスが教会関係者たちに事情をしっかり伝えてくれたのだろう。

 教会の鐘が鳴っている。すぐファラを追い掛けたいところだが、まずは祭儀に出席するのが先だ。レオナもアステアも敬虔な教徒ではなかったものの、教会にはたくさん世話になった。祭儀に顔を見せなければ、教徒ではないと疑われてしまう。

 回廊にはすでに他の教徒たちの姿もなく、レオナは駆け足で向かった。途中で見かけたはフレイアだった。

「あの子たち、喧嘩してるよ」

「えっ?」

 レオナとアステアは顔を見合わせる。フレイアは自分よりも年下の子をと呼ぶ癖がある。

「ファラとジル?」

「そう。あっちで、大きな声で言い合ってる」

 フレイアは左を指差してくれる。回廊の向こう、中庭を挟んだそこは大聖堂の裏口だった。

「ありがとう、フレイア。ちゃんとふたりを連れてくるから」

 返事を待たずにレオナは駆け出した。昨晩、ジルの妹は家に帰らずに大聖堂で泊まった。朝、仕事から帰ったジルが妹の姿がないことに気付いて、心配するのは当然だ。

「でも、喧嘩だなんて……」

「お二人とも、ちょっと気の強そうなかんじでしたね」

 ちょっとと言いつつも、そこにはだいぶの意味が含まれていそうなアステアの物言いに、レオナは苦笑する。しかし、ジルは怒りの矛先を間違えている。勝手にジルの妹を教会に預けたのはレオナたちだ。

 ともかく喧嘩とならば止めなければ。そう思っていたレオナだったが、二人のあまりの剣幕にびっくりしてしまった。姉妹喧嘩でもここまでならないと、レオナは思う。もっともレオナと姉のソニアは口論さえしたものの、互いを罵り合うような喧嘩はしなかった。最後は物別れとなってしまったので、どうしようもない寂しさを感じたくらいだ。

 しかし、ファラとジルはともすれば取っ組み合いがはじまりかねない勢いだった。

 レオナは隣をちらっと見た。魔道士の少年は固まっていた。レオナと同様に、兄弟とこんな喧嘩などしたことがないのだろう。

「と、とにかく……、ふたりを止めなければ」

「待ってください。あのふたりに割って入ったところで、火に油を注ぎかねませんよ。それに……、僕は殴られたくありません」

 レオナはちょっと笑う。たぶん、後者が本音だろう。

「でも、このままじゃ……」

「クリスさんを呼んできましょう」

 こうなると白皙の聖職者が何でも屋さんのようだ。でも、実際それは名案なのかもしれない。クリスが怒るとものすごくこわいというのを知っているのは、ごくわずかな人間だけだ。

 アステアを送り出そうとしたレオナは彼の長衣ローブを掴んだ。ふと感じた違和に寒気がしたのだ。これは、魔力。この大聖堂に残っていた竜人ドラグナーの魔力ではなく、別の――。

 レオナは少女たち二人の名前を叫んだ。だが時は遅かった。何もなかった空間に闇が現れるのが見えた。あれは魔力の渦だ。そこからぼろぼろの長衣ローブを纏った者が出てくる。老爺か老婆か。落ち窪んだ眼窩かんがの下から青の色が見える。

 目が合った。レオナはそれを、人間ではない存在だと認めている。

 とっさに放ったレオナの光は彼らへと届く前に弾けた。

 黒い渦のなかにファラとジルが引き摺り込まれるのが見えた。レオナはふたりを追うつもりだったが、今度はアステアに止められていた。魔道士の少年がなぜ邪魔するのかわからなかった。多勢に無勢だとでも感じたのだろうか。いいや、レオナならできる。相手が人間じゃないのなら、力の加減をする必要なんてないからだ。

「だめです、レオナ……!」

 魔道士の少年が叫んでいた。レオナは目をみはった。黒い渦は消えてなどいなかった。それどころか、次第に大きくなってこちらへと向かってくる。

 逃げるべきだと、アステアはそう言った。けれどももう間に合わない。レオナは魔法障壁を作り出す。闇が近付いてくるのを止められずに、視界のすべてが黒に塗り替えられたその間際、竜人たちが嗤っているのが見えた。

 

  

 

 







「いけませんっ!」

 これまで発したことのないくらいの大きな声だった。彼女はすぐに振り返った。

「なぜ、止めるの?」

「だめです。もう間に合いません」

 蒲公英たんぽぽ色の髪をした少女が怪訝そうな表情で見つめていた。彼女の従者になったときから、主人の言うことには従順だった。しかし、いまはそれに従うときではない。ここが止めなければ誰が一番危険なのか、この少女はわかっていないのだ。

「レオナさんの力でも届かなかったのです。魔力に耐性のないただの人間があれに巻き込まれたら、間違いなく死にます」

魔法防御マジックシールドの魔法なら、以前にあなたが掛けてくれた」

 そのとおりだ。誤魔化すつもりはなかったので、微笑んだ。

 祭儀が終わったそのあとだった。彼女は敬虔なるヴァルハルワ教徒ではなかったが、こうしていつも自分の時間に付き合ってくれた。とはいえ、いまのダナンはひどく混乱していて、この大聖堂でも人がごった返している。聖イシュタニア象を拝めない者たちが、大聖堂の外にまで列を作っている状態だ。

 だから彼女は自分の席を敬虔な教徒たちに譲っている。祭儀のあいだ、無聊ぶりょうを慰めるためにうろうろしているのは彼女なりに気を遣っているのだろう。

 くだんの少女たちを見つけたときいて、迎えに行くところだった。

 ダナンの大聖堂は魅力的な場所ではあっても、長居するよりもナナルへと戻るのが得策だと思った。回廊の途中からでも少女たちの喧嘩がきこえた。ほどなくして、イレスダートの王女と魔道士の少年の背中が見えた。どうにも困っているようで、それなら助けてやるべきだと思ったそのときだった。

 二人もまた、闇を見た。

 黒い渦は最初に少女たちを呑み込んだ。彼は、このダナンで起こっている事件を思い出した。いずれも姿を消したのは若い娘たちだった。イレスダートやラ・ガーディアの南部ならともかく、異国で人が攫われるなどよくある話である。だが、これはそういう類いの事件ではない。人ならざる者が関わっていると、彼は瞬時に理解した。

「お願いがあります、フレイア様」

 蒲公英色の髪をした少女が瞬きもせず、こちらを見つめていた。彼はいつものように微笑して、それから声を紡ぐ。

「聖騎士殿にこれを伝えてくださいませんか? 姫君たちまで巻き込まれたとなれば、彼はすぐ動くでしょう」

「わかった」

 数呼吸のあいだ、二人はただ黙っていた。黒い渦は消えていたし、人ならざる存在もまたいなくなっていた。動かなくて正解だった。きっと、探していたのは魔力を持った娘たちなのだろう。こうしてじっとしていれば、こちらにまで気が付かなかったらしい。

「あなたはどうするの? クリス」

 呼ばれてクリスはにっこりした。

「教会にも助けを求めます。ファラという少女はここの関係者のようでしたし、力を貸してくれると思います」

 ただしそれには時間が掛かるかもしれない。今日も教会は薬や食糧を求める人を捌くために忙しくしている。

 彼女はしばらくクリスを見つめていたが、自分のやるべきことを理解したようだ。砂漠越えには案内人が必要となる。ダナンへと連れてきてくれた案内人はヴァルハルワ教徒だったので、まだこの教会に留まっているはずだ。

 大丈夫、我が主ならば。

 クリスは口のなかでつぶやく。この選択が何をもたらしたとしても、彼女はきっとわかってくれる。

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