鴉の独断
「戻って来ませんね」
ため息を繰り返すこと三度目、セルジュは自分が苛立っているのをやっと自覚した。
カウチに向かい合う相手はこれを独り言だと思っているようで、声すら返さずにナナルの香茶をたのしんでいる。きこえていないふりをされているらしく、セルジュは心中でもう一度嘆息する。
とっくに日は落ちている。帰りがいつになるかわからないので、主君を待たずに早めの夕食を取った。朝昼晩と
ついで言うならば、この香茶もあまり好きではない。
ピリッと辛い香辛料とミルク、おまけに砂糖をたっぷり入れるのがナナルの香茶のたのしみ方らしく、ぜんぶ飲み干そうものなら胃もたれ決定である。これのどこが気に入ったのだろうか。アストレアの
セルジュを苛々させている理由はもっとある。
せめて味の薄い食事を求めて外に出たのはいいが、小一時間のあいだに子どもの
王都ナナルは広くとも街中がごちゃついているし、ともかく人が多すぎる。
そもそも白膚のイレスダート人などいいカモなのだ。こうなると白皙の聖職者クリスとともに教会に行くのが正解であるものの、毎日教会通いをつづけるほど
今朝、セルジュの元に手紙が届いた。王宮に潜伏しているルテキアからだ。
たった三行の短い文章で
「年頃の息子を持った母親のようだな」
眉間を揉みほぐしていたセルジュは、ぴたりと動きを止めた。アストレアの鴉がこちらを見ながらくすくす笑っている。
「エレノア様を見習ったらどうだ? 一年ぶりの再会もそこそこに、公子をすぐ送り出したぞ」
軽口に付き合う気にもなれずに、セルジュは香茶に逃げた。甘い。おまけに冷めている。
「早くもアストレアが恋しくなったと見える。軍師殿らしくないな」
「アストレアの鴉もずいぶんと丸くなったものですね。冗談のひとつが言えるようになったとは。昔とは大違いです」
反撃に出たはところでジークの笑みは消せなかった。
同世代のセルジュとジークは昔なじみである。軍師のエーベル家と騎士の家系のフリード家。二人の両親は息子たちに多大な期待を寄せていたのだろう。それがどちらも出奔するとは、つい先日再会した父親には長々と説教され、母親にはさんざん泣きつかれた。
兄上はこれから親孝行をたっぷりしないといけませんね。にこにこ顔で諭してくる弟アステアには、なにひとつ返せなかった。
ふたたびアストレアを離れると告げたとき、両親そろって泣かれた。軍師として公子の傍から離れるという選択などないと、わかっていてもだ。
「あなたの方はどうなんです? 見ないあいだに不貞不貞しくなったように思えますが?」
「おや? 軍師殿は他に当たる人間がいないので、私に狙いを定めたらしい」
「茶化さないでください。……せっかく公子の傍に戻ったというのに、また離れるつもりですか?」
ブレイヴはクライドを迎えに行った。すぐ戻って来ないので酒場で盛りあがっているのかもしれない。昔のジークなら公子を一人で行かせたりしなかった。ここが異国の街なら、なおさらだ。
「公子はもう子どもではないからな」
「それはそうですが。私の言っているのは、そういう意味ではありません」
一昨日、ブレイヴたちは王都ナナルへと戻って来た。
セルジュにしてもジークにしても、四六時中主君の傍にいるわけではないので、こうした空き時間には好きにさせてもらう。しかしセルジュは気づいていた。アストレアの鴉は公子の目を盗んで準備を進めている。砂漠越えには入念な支度が必要だからだ。
「勝手なことをなされば、怒るのでは?」
「どうだろうな? いまの私は亡霊のようなものだからな。いてもいなくても、それほど困りはしないだろう」
「そう言う物言いは確実に怒ると思いますがね」
まったくお守り役を押しつけられた気分になる。いまさらなんだと、ジークはそういう目顔をする。
「だが、目を離すべきではない人間は他にいるだろう?」
「わかっています」
セルジュは声を低くする。忘れてなどいない。アストレア城奪還の際、身を潜めながら森を進んでいたのに、どういうわけかこちらの動きは読まれていた。アストレアを占有していたのはランドルフ、あの男をジークは仮面の騎士と正体を偽って見張っていた。だからあれはジークの与り知らないところで起きたことだ。
内通者がいる。あのとき、そう言ったのは誰だったか。ともかく、このナナルまで同行してきた物好きのなかにそいつがいるのだ。
「遅かれ早かれ尻尾を出すだろう。そのときを待つしかないのだが、気になるのはそいつの狙いが何か、だ」
「公子が
「そこまで不貞不貞しいやつならば、そいつの背後にいるのは相当厄介だな」
くつくつと笑うジークにセルジュはひときわ深い皺を眉間に刻んだ。そもそもが人を疑うということを知らない主君だ。おかげでこっちはいつも要らない苦労まで背負わされる。
「いや……、さすがの公子もあれには気づいているだろうな」
「そうだといいのですが。まったく、公子も面倒な女に付き纏われたものです」
自分の命を狙われていることなど、なんとも思っていないらしい。だからブレイヴはオリシスのロア公女を野放しにしている。
「ずいぶんな言い草だな。お前にも関わりある人だろうに」
「まあ、私も憎まれているのは確実でしょうね」
何もかもが片付いたそのとき、ブレイヴはオリシスへと行くだろう。
同行は強要でなかったとしても、セルジュの足はやはりそこへと向かう。忘恩の徒を責めるどころか笑って迎えてくれるのが、アルウェンという人だった。オリシス公爵はいま、冷たい石の下で眠っている。
「そうやって思い詰めるな。悪い癖だぞ、セルジュ」
「あなたにだけは言われたくありませんね」
一人で何もかもを抱え込んだ男にだけは説教される筋合いなどないと、セルジュはそう思っている。
「まあ、悪いように捉えるな。これは私の役目だ。お前もわかっているだろう? 内乱が終わっても、イレスダートにはまだ火種がいくつも残っている」
「ムスタールにランツェス」
「そうだ。元老院はムスタールに逃げた。あそこはヴァルハルワ教会の力が強いからな。黒騎士ヘルムートが、奴らを保護するとは思えないが」
セルジュはしばし黙考する。自分たちよりももっと黒騎士を知っているのは、聖王アナクレオンと聖騎士ブレイヴだ。
誠実であり忠実である騎士と、ヘルムートは言える。彼がアナクレオンへと刃を向けたのは、それが本物ではないと見破っていたからだ。だからこそ、主君たちは黒騎士を信じているのだろう。それでも、と。セルジュは思考を止める。
「先の戦いでムスタール公は重傷だったときいています。身体が癒えたとしても精神はどうか」
「彼には負い目があるだろう。主君をその手で斬ったという」
アナクレオンは真実を綴った文をムスタールへと送っている。だが、それをヘルムートは素直に受け入れたのだろうか。
「彼だけじゃない。注視すべきはランツェスのホルスト」
セルジュはうなずく。ランツェスの公子ならば知っている。ブレイヴの幼なじみであるディアスだ。その異母兄のことにまで明るくはなくとも、悪い知らせはホルストという人間を語るのに十分だった。
「陛下はウルスラ公女をルドラスから返してもらうと約束したようだが、そう上手くいくとは思えない」
「まったく、頭の痛い案件ばかり残っているものです」
「そう言うな。ムスタールもランツェスも白騎士団が見張っているだろうが、フランツ・エルマンにも限界がある」
「我々よりもずっと苦労しているでしょうね。心中お察ししますよ」
それも王の盾としての役目と言えばそうなる。フランツ・エルマンのおかげで、王の剣であるブレイヴが自由に動ける。
「しかしそうだとしても、あなたの独断はその理由に当たらないのでは?」
「私が警戒しているのはその先だ」
「その先?」
ガレリアだ。セルジュはジークの目顔でそれを読み取った。
「城塞都市ガレリアはルドラスに占有されているが、そこから南への侵攻は未だ見えない。となると、会っておくべきだと思う」
「いったい、誰に?」
「銀の騎士ランスロット」
セルジュは正直にあきれた。大胆にもほどがある。
「正気とは思えませんね」
「いや、本気だ。向こうも私の顔を覚えているはずだからな」
「さすがに危険すぎるのでは?」
ジークは一度死んだ男だ。だからもう死など恐れてはいないと、そう言いたいのだろうか。
「ともかく、こちらのことはお前に任せた」
どうせ止めても勝手に行くつもりだ。頃合いだとばかりにレナードが部屋に入ってきた。
「どうだった?」
「どうも何も……。やっぱり俺じゃ相手にされないから、ウンベルトに協力してもらったよ」
「ならよかった。彼は良い駱駝を用意してくれるからな」
さすがに手回しが良すぎる。セルジュの詮索から逃れるようにレナードは目を合わせない。それが答えだ。このふたりはずいぶん前から計画を練っていたらしい。
「監視役、必要……だろ?」
正当な理由だとばかりにレナードは言う。セルジュは五度目のため息を吐いた。
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