麦酒と愚痴と酔いと
まだ完全に日が落ちる前だというのに、酒場では早くも席が埋まりつつある。
吟遊詩人の美声も男たちの
待ち合わせの時間よりも早くにクライドは席に着いていた。
彼の向かいに腰掛けて、ブレイヴは給仕娘を呼ぶ。
「まるで話にならなかった」
ため息混じりにクライドはそう言った。
だろうなと、内心でブレイヴは相槌を打つ。イレスダートの聖騎士、そして聖王アナクレオンの使者として女王イグナーツに謁見した。にべもなくあっさり追い返されたあの時間を思い出しても、苦笑いしか出てこない。
「ひさしぶりの姉弟の再会だったのに?」
「あの人にはそういった概念がないんだろ」
ブレイヴはもうすこしで吹き出すところだった。彼がそういう表現を持ち出すのは意外だった。給仕娘が戻ってきて麦酒とともに料理を置いていった。ブレイヴが注文したのはナナルの名物を三品ほど、レンズ豆のスープに肉団子の煮込み、羊肉の串焼きだ。どれも香辛料をたっぷり使っているらしく、食欲をそそるにおいがする。
ブレイヴは目顔でクライドにも勧めたものの、彼はむっつりとした表情を作ったままだ。
さて、どうしたものか。ブレイヴは頭を悩ませる。あの村からクライドを連れ戻したのはブレイヴだ。狐顔のヤンと狸顔のタル、それに
それでも、と。ブレイヴは思う。
故郷のユングナハルを出奔してイレスダートや周辺諸国を彷徨っていた彼が、どうしていまになって戻って来たのか。そういった概念がないというのはクライドもおなじ考えで、だとしても彼は兄弟たちを忘れたわけじゃない。
ナナルを奪おうとするダビト、危険な男を野放しにするイグナーツ、ガエリオとウンベルトとジル。血の繋がった兄弟たちに何の感情も持っていないのなら、真っ先に怪我した弟に会いに行かないし、女王である姉のところに押し入ったりもしない。
ともかくまずはダビトをどうにかするべきだ。
まずクライドに彼の姪であるファラのところへと連れて行ってもらい、レオナとルテキアを返してもらう。そうしてナナルを後にしてイレスダートへと戻り、あるがままをアナクレオンに伝える。おそらくそれが最も早くて正しいやり方だ。
西の大国ラ・ガーディアやグランのときのように、深く関わるべきではないことだってわかっている。女王イグナーツがそんなものを求めてはいないからだ。
ふと、視線を感じてブレイヴは顔をあげる。
やっぱり食べる気になったのだろうか。ピリッとした強い辛みの羊肉は麦酒によく合うし、肉団子の煮込みも絶品だ。クライドは気まずそうにブレイヴから目を外した。せっかくの故郷の味なのに、彼を憂鬱にさせているのはやはり姉との再会のようだ。
「イグナーツはあれでよくやっている方なんだ」
身内を庇う発言は彼らしくない。でもそうじゃない。ブレイヴの主君は聖王アナクレオン、他にも名高き王をたくさん知っているなかで、どうしてもイグナーツが劣っているように見えてしまう。
「俺もガエリオも、他の兄弟たちもそうだ。イグナーツに王を押しつけてしまった。悪いとは思っている」
ここで向かい合っている相手を間違えているのではないかと、そうブレイヴは思った。ブレイヴは白皙の聖職者クリスのように、人の告解をきくのに馴れていない。たぶん、彼が素面だったらこんな声はきけなかった。
「イグナーツの夫はヴァルハルワ教徒だった。あの人とファラもよく教会に通っていた。けっして裕福とは言えない暮らしでも、三人家族で仲が良かったんだ」
他人に興味関心の薄いクライドがずいぶんと詳しく知っている。もしかしたらクライドはあの集落を出たばかりの頃、イグナーツのところで世話になっていたのかもしれない。
「夫は教会関係者だから収入と呼べるものはほとんどなく、イグナーツは針仕事で日銭を稼いでいた。面倒見の良い性格だから、同業者の女たちから好かれていた」
「イグナーツがダナンからナナルへと行ったのは、きみとおなじ理由で?」
「ああ。俺は正直迷っていた。ナナルへ行くべきかどうかを。ダナンに着いたときにイグナーツが俺を見つけてくれた。いま思うと、あの人も一人でナナルへ行くのは心細かったんだろうな」
レンズ豆のスープも肉団子の煮込みも綺麗に平らげた。羊肉の串焼きが二本残っていたが、クライドは見てくれない。
「俺たちが集まってほどなくして、前王は死んだ。次の王は決まっていたから戴冠を見届けてからナナルを去るつもりだった。俺もイグナーツも。だが、王になるはずだった兄をダビトは殺した。手が付けられないくらいに兇暴で、どうにか押さえつけて牢獄へと送った」
「兄弟殺しはユングナハルでは大罪だろう? そんな者はそもそも王になど」
「ああ、なれない。でもダビトは力ですべてを奪おうとするような男だ。奴を排除したはいいものの、玉座を長く空けるわけにもいかずに別の兄が推挙された。だがその兄は逃げた。ダビトを恐れてな。だから、イグナーツが女王になった」
その身に流れる血筋のみで王として君臨するのは限界がある。おそらくブレイヴが会った女王イグナーツは本当のイグナーツとは別人なのだろう。たいした演者だ。ブレイヴは失笑しそうになる。
「イグナーツというのも、あの人の名前じゃないんだ。あれは夫の名前であの人の夫は混乱の最中に死んだ。だから一人娘のファラだけは守ろうとしているのかもしれない。市井に紛れているよりも宮殿の奥の方が安全だからな」
「イグナーツが守れるものは限られている」
「そういうことだ。ナナルの王だって万能じゃない。知力も武力も胆力も足りないなかで、あの人が選べるものなんてごくわずかだ」
「だけど、このままではナナルは」
「わかってる」
クライドは卓上で拳を固く作っている。これ以上彼を責めるような物言いは酷だ。
イレスダートの王アナクレオンならどうするだろうと、ブレイヴは考えそうになって止めた。ブレイヴの主君は
「おそらくはダナンだ」
ブレイヴの心中を読み取ってクライドが言う。ダビトを野放しにするわけにはいかない。思いはおなじだ。
「ダビトの協力者は、教会だけではないのかもしれない」
「奴は強奪した月光石で膨大な資金を得ている。支援者なんていくらでも沸いて出てくる。組織がどんどん大きくなる前に手を打ちたい」
ブレイヴはうなずく。イグナーツがダビトに手が出せないもうひとつの理由がそこだ。女王になる前とはいえ、イグナーツはヴァルハルワ教会の縁者だった。ダビトが教会の保護下にあるのなら、素知らぬ顔をつづけるしかないのだ。
それでも、と。ブレイヴは途中で唇を閉じる。わかっているのだろうか。ダビトを排除したとして、月光石を巡る問題は解決しないことに。
今日のクライドは真面に目を合わせてくれない。不自然に逸らされた視線に対してブレイヴは苦笑する。
「俺をあの村から引っ張り出したんだ。あんたには最後まで付き合ってもらう。当面の目的はダビトだ。ダナンで奴を見つけ出して抑える」
「ダビトの協力者たちがそれで大人しくなるだろうか? 第二のダビトが現れるかもしれない。イグナーツを王と認めてない者だっているだろう?」
「そのときは、」
どうするのだろう。声はつづかずに、クライドは目顔で給仕娘を呼びつけた。そろそろ止めるべきだ。これが何杯目の麦酒か知らないが、クライドを抱えて宿に戻るのは大変だ。
「月の双剣があれば、皆がイグナーツを認めるんじゃないか?」
「なんだって?」
ブレイヴのつぶやきにクライドがおかしな声を出した。なんであんたが知っていると、言わんばかりの顔だ。
「ヤンにきいた。初代ナナルの王は双剣使いだったと。
「あんたまでそんなおとぎ話みたいなものを信じてるのか?」
「あいにく、それと似たようなものを俺は持っている」
鞘に収まっているのは
「そんなものが本当にナナルにあるのなら、イグナーツはとっくに使ってる。言っただろ? イグナーツはただのお針子だと。それに剣なんてとても扱えない」
「俺も代理のようなものだ。見つけ出して、きみが持てばいい」
「それで俺が王になれと? 冗談じゃない」
そこまでは言っていない。やっぱり麦酒のお代わりを止めるべきだった。クライドはそこそこに酔っている。
ブレイヴはそれとなく周囲を見回した。声には気をつけているつもりでも油断は禁物だ。こちらがダビトの行方を追っているのなら、向こうだってこちらの動きを注視していてもおかしくはない。月光石のある村で中心人物はクライドだ。いまさらダビトは弟殺しなど厭わないだろう。
「明日、ファラに会いに行く。ガエリオはそのあと、だ」
口をもごもごさせながらクライドが言う。半分寝ているな。ブレイヴはため息を吐きたくなった。
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