イ・サハト-月の双剣-
ダナンにて
「失敗した、だと……?」
雇兵たちの報告に、男は低い声でそう言った。
だいたい報告に来るのが遅すぎる。その上、戻って来たのはたった三人、それだけでも男は強い憤りを感じている。大暴れしないのは場所が場所だからだ。
べつに乱闘になってもかまやしないのに。
彼は口のなかでつぶやく。呼ばなければ貴賓室には助祭も修道女も入ってこないし、客人に対して香茶すら用意されていなかった。
この男が力任せに雇兵たちを殴りつけ、暴力の限りを尽くしてその結果死人が出たとしても、彼は顔色ひとつ変えずにその死体を
「もういい。……行け」
三人の雇兵たちはそれぞれ顔を見合わせた。男の声が信じられないといった風に。
「きこえなかったのか?」
苛立ちを抑えきれないその声に、雇兵たちは震えあがった。
可哀想に。捨てられたあと、どこに行くつもりなのだろう。とはいえ、理不尽な暴力を免れただけでもあの三人は運が良かったのかもしれない。ここが教会という場所であったことに、あとでいたく感謝するはずだ。
「あの村はじきに落ちる。偉そうにのたまったのは、どこの誰だったかな?」
彼はふと男を本気で怒らせてみたくなった。その結果、どうなろうと知ったことではない。ただの興味本位だ。
男はじろりと彼を睨んだものの、それだけだった。なんだ面白くない。彼は男をまじまじと見る。ぼうぼうと伸びたくった
それなりに値の張るシャルワール・カミーズを着ているが、出自の貧しさは隠しきれていない。
男の肌は他のユング人よりももっと濃い黒檀のような色をしている。身体のあちこちに傷が見えるのも、長いあいだ強制労働を強いられてきた証だ。聖王国イレスダートや西の大国ラ・ガーディアなどでは禁じられている奴隷制度。このユングナハルでは大昔の悪習がまだ残されているらしい。
幼い頃に母親に売られたのか、死に別れたのか。そこまでの興味はなくとも、しかしこの男――ダビトがいわゆる普通の生活を送っていなかったことだけはたしかだ。
艶のないぼさぼさの黒髪には白髪が目立つ。四十代後半かそれ以上か、それくらいにも見える。もっとも彼は男の年齢など知らないのであくまで推測だ。人間の見た目なんて、彼からすればどいつもこいつもおなじに見える。
とはいえ、それだけの年月をこのダビトという男は過重な労働を強いられてきた。人間という扱いをされずにそれがやっと解放されたのは、ユングナハルの前王が死ぬ間際だった。
王家の
だからこそ、すぐ下の弟がそれに選ばれたとき、ダビトは我慢がならなかった。
長い労働生活で鍛えられた肉体は、人を簡単に殺せるほどだった。自由を得るそのときまでダビトが己を抑えていたのは、奴隷という習性のためだ。なんの抑圧もなくなったその男は、自分の弟を
しかし、ダビトは王にはなれなかった。
最初から王の器ではなかったという、そう単純な理由の他にもなにかあるのかもしれない。彼は人間の世界に起きていることに興味を持たないので、それ以上は追わなかった。だからこの憐れな男に同情したりもしないし、こうやって接触するのも新しい遊び道具を見つけたようなものだった。
ただ、ひとつだけ興味深く感じたのはダビトの辛気くさい生い立ちなどではなく、いったい誰がどうやってこの男を牢獄から出したのか、だ。
ユングナハルで大罪を犯した者は王都ナナルから離れた流刑地に送られる。
周りは砂と岩しかないそこで看守を務めるのは刑期を終えた罪人だ。ダビトはここでも人間の尊厳を奪われる。まともな人間がこの男に接触するはずもなく、しかしいまのダビトはヴァルハルワ教会の庇護下にある。
この男は辛抱強い。そして学もない上にどういうわけか頭も良い。狡猾とでも言い換えるべきだろうか。ともかく、教会はダビトを使って月光石を手に入れるつもりだ。
「なにを嗤っている?」
彼にもわかりやすい癖があった。考えごとをするときにどうもにやにやしてしまうのだ。
「いいや……。きみがどうやって檻のなかから出てきたのか、気になってね」
ダビトは苦虫を噛み潰したような顔になった。どうやら教えてくれる気はないらしい。
「そんなくだらん話を長々としたいのか、貴様は」
「ははっ、話の種のつもりだったんだけどね。気に障ったなら悪かった」
微塵も思っていないのに、彼はそう言う。これでもまだダビトは怒り狂わない。もしかしたら、彼の正体に薄々気がついているのかもしれない。
「さて、こちらの話をしようか」
彼は目顔でダビトにカウチへ腰掛けるよう促した。傲岸不遜なこの男でも立場が上の人間には逆らえないのは、これも奴隷の習性だろう。不承不承といった風にダビトは腰をおろした。
「知ってのとおり、ダナンは王都ナナルの次にユングナハルで大きい街だ。ゆえにそれだけ多くの人間が集まる」
「それで?」
まったくせっかちな男だ。彼はくすっと嗤う。
「ダナンがいまふたつの問題を抱えているのはご存じかな?」
「……いいや」
「なるほど。君はすでに罹っていたというわけだ」
「流行病か」
ご名答。そう、彼はうなずく。
「大聖堂のあるダナンには他国の人間が多く行き来する。でも、どういうわけか異国人にはうつらない。ユング人にはおそろしい病気なのにね。特に大人が罹患すると厄介だ」
ダビトの反応が薄いのはこの男が子どものうちに病気に罹っているからだ。
一度罹患すれば体内に免疫ができるらしく、次におなじ病に罹ろうとも重篤化はしない。それに普通の感冒とちがうのは、高熱と下痢に十日も苦しめられるという点だ。特効薬は高額だから下流階級の市民はとてもじゃないが買えない。おまけに患者が多すぎて薬の取り合いになっている始末だ。こうなると、健康な大人でも薬がなければ手遅れになってしまう。
「おかげで僕らは大忙しさ」
人々は今日も大聖堂に長い列を作っている。敬虔な教徒を見捨てたりしないのがヴァルハルワ教会である。
「つまり、儂に関わっている暇はないと?」
「あはは。そこまでは言わないよ。上は君の月光石に期待しているんだ。金もない奴らに飲み食いさせているし、おまけに高額な薬まで与えてる。寄附金もろくに集まらないから金には困ってる。それが本音さ」
「ふん……」
ダビトの雇兵たちは、この男を心酔する者と力で縛られている者と二種類だ。
たぶん、誰もこの男はナナルを奪えるなんて本気で思っていない。欲しているのは金と武力だ。
「ともかくがんばりなよ。君には弟がたくさんいるんだろう? そいつを使えばいいじゃないか」
占有するはずだったそこは、ダビトの弟の村だ。兄弟殺しは大罪であっても、すでにいくつもの罪を犯しているダビトに恐れるものなんてない。
「使いものになればな」
男はやおら立ちあがると、そのまま貴賓室を出て行った。こちらの協力が望めないと理解はしたらしい。理性などまるでないように見えて頭は良く回る。野放しにしておいて害になると判断したときこそ、教会がダビトの敵となるときだ。
まあ、その前に飽きるんだろうけど。
彼は誰もいない部屋で独りごちた。ふう、と。ため息をひとつ落とす。そのひと呼吸のあいだに彼の容貌が変わっていく。青年から少年へ、
「まあ、でも……ユノだったら、もうすこしうまくやるのかな?」
演じていたのが司祭の息子だったのか、自身が助祭だったのか忘れてしまった。それでも騙せてしまえるのだから、人間という生きものは実に滑稽だと彼は思う。
「さて。そろそろ行こうかな。我が同胞たちもなんだか騒ぎ出しているみたいだし。ああでも、後片付けが先かな」
本物の死体はどこに置きっぱなしだったのかと、彼は思い返す。ちゃんと後片付けをしておかないと、面倒なことになるのが人間の社会だ。それなら最初から骨まで残らず燃やしておくんだったと、彼はすこし後悔した。
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