ガエリオという男

 いきなり殴られた男は、その一発ですぐに気を失ってしまった。

 大理石が敷き詰められた床に血が飛び散る。飛び出さないようにとしっかり腕を掴まれているので、レオナは動けずにいる。悲鳴が出なかったのは恐怖よりも怒りが強かったからだ。

「それで? この落とし前はどうつけてくれる?」

 浅黒い肌をした大男が睥睨へいげいする。レオナを捕らえた男の一人は伸びているが、もう一人は主に睨まれて胴震いさせている。

 シャルワールの上からでもわかる鍛えあげられた鋼の肉体。濡れ羽色の癖の強い巻き髪。長身のその男はイスカの獅子王を彷彿させる巨軀きょくだ。いや、あの人と比べるなんて烏滸おこがましい。レオナは口内を噛む。スオウの目は為政者のそれだったが、この男はただの支配者だ。

「あ、あの小娘は捕らえ損ねましたが、代わりに上玉を手に入れました」

「で?」

「う、売れば大金が入ります。ですからこれで」

 皆まで吐く前に、床へと額を擦りつけていた男が吹き飛んだ。隣でルテキアが緊張しているのがわかる。容赦のない暴力に怯えているのではなく、レオナを抑えているのが限界だったからだ。

 魔力を内に宿さない者は他者の魔力の漏れやにおいには気付けない。となると、傍付きも多少は魔力を宿しているのだろう。ただし扱えなければ意味がないし、どのみち自分よりも強い魔力の持ち主の前では圧倒的に不利だ。

 この男が、ガエリオ。

 レオナは男の容貌をいま一度見る。人好きのする笑みを絶やさなかったあの少年とはまるで似ていない。ただ瞳の色だけはおなじ、翠玉石エメラルドの宝玉を思われる色だ。おそらくは異母兄弟なのだろう。多兄弟の家系ならばよくある話、レオナだって上の兄たちとは母がちがう。

 重要なのはそこではない。これでは、掴み取った選択が間違いだったと認めざるを得なくなる。そもそも対話が可能ならば、ウンベルトは狙われてなんかいなかった。

 それでも、と。レオナは拳を作る。侵入者だった男たちはぴくりとも動かない。死んではいないと思う。だとしても、理不尽な暴力を振るったこのガエリオという男が、自分の雇兵たちの治療をするだろうか。レオナは傍付きの手を振り払って二人の男たちのところへ駆け寄った。ルテキアの制止が間に合わなかったのは、彼女もおなじ思いだったのかもしれない。

 二人とも、殴られた顔がいびつに曲がっている。殺すつもりでなければこうはならない。レオナは順番に男たちの頬を撫でた。治癒の力は一瞬でいい。緑色の淡い光はすぐ消えたものの、ガエリオの目にもレオナが何をしたのか見えただろう。

「なんのつもりだ?」

 詰問する声は怒りに満ちていた。臆さずに、レオナは声の主へと向く。

「わからないの? 治してあげたの」

 それがたとえ自分たちを捕らえた相手であってもだ。

「貴様はなんだ?」

「イレスダートの王女。レオナ・エル・マイア」

 問うた声音には何の興味もなかったくせに、返ってきた声には不快そうに眉を寄せる。すこしこのガエリオという男がわかってきた。

「厄介な女を拾ってきたな」

 ガエリオが舌打ちする。レオナは無意識に笑みを描いていた。マイア王家の末姫、その存在は白の王宮の箱庭にてずっと隠されてきた。異国の人間が知っているのならば、竜人ドラグナーの力もわかっているはずだ。

「あなたが求めているのは、ジルね?」

 ふつうの娘ならばここで怯えたり泣き出したり、あるいは血を見て失神しているところだ。レオナはまっすぐにガエリオを見る。ランドルフのときは、声が震えないようにするだけで精一杯だった。でも、いまはちがう。ここで引くわけにはいかない。

「だとしたらなんだ? あれは俺のモノだ」

「人はものなんかじゃない。あの子を所有物のように言うのはやめて」

「俺が金で買った。貴様に何の文句がある?」

「人をお金で買うなんて、許されない」

 少なくともイレスダートでは禁じられている。たとえユングナハルの法がそれを許しているのだとしても、そんな非人道的行為をレオナは認めない。

 にらみ合いの途中だったが、これに飽きたかのようにガエリオはカウチへと腰を沈めた。硝子の円卓には葡萄酒の瓶が見える。寝酒を飲んでいたところに邪魔が入った。つまりレオナたちは迷惑な客というわけだ。

「では、貴様があの女の代わりを務めるとでも?」

 くっと、喉を鳴らすガエリオからレオナは目を離さない。冗談じゃない。ガエリオの太腕がレオナへと届く前に、白い光が男を貫いている。

「そっちの女は、イグナーツにでもくれてやる。あれが好みそうな顔だ」

 言っている意味がわからない。イグナーツとはこの国の女王の名だ。それとも他にイグナーツという名の人間がいるのだろうか。そもそもその名は男性の名だ。

「勝手なことを、言わないで」

「貴様らがいるのはどこだ? 俺の屋敷だ。どう扱おうが俺の勝手だろうが」

「そうやって、ウンベルトも殺すつもりなの?」

「だったらなんだ?」

「あなたの、弟でしょう?」

「くだらん」

 一方的に話を打ち切ってガエリオはグラスへと葡萄酒を注いだ。この男は人を人だとも思っていないし、気に入らないものはたとえそれが兄弟であろうとも消す。気に入らない玩具おもちゃをすぐに壊す子どもさながらにたちが悪い。いや、子どもの方がまだききわけがあるのだから、手に負える。

 ガエリオの喉へと流し込まれる葡萄酒が、血のように見えた。この男がおかしいのか、それともこの国がおかしいのか。レオナにはわからない。

「他人の心配よりも自分の心配をしたらどうだ?」

 背中がぞくりとした。ガレリオは目顔で部屋の外へと合図を送っている。傍付きから離れてしまったのは、たぶん失敗だった。廊下にはガエリオの雇兵が複数人控えている。自分の身を守りながらルテキアを守るのは不可能だ。力の加減を見誤れば、この屋敷ごと壊してしまう。

「あなたの好きなようにはさせない」

 それは虚勢だった。殺すのは簡単だ。でも、レオナにはそれができない。楽な道を選んでしまえばここへと来た意味もなくなる。

「くだらない矜持きょうじだ」

「なんですって?」

「貴様がここでどう吼えようが、無意味なことがわからんか?」

 この男を殺す。そして廊下に控えている者たちも全員をほふる。そのあとは、どうすればいい? 馬を奪うまではよくてもどこへ向かうべきかわからない。着の身着のままで連れて来られた。馬車のなかに押し込まれ、外は暗闇で道など覚えられなかった。

 レオナは肩が震えないように気をつける。怯えているのでない。自分の無力さに怒りが勝っているのだ。話し合いなどまるで通じない相手だとしても、これが無意味な時間だと思うには早すぎる。そうだ。レオナがここにいることで、少なくともジルやウンベルトは無事だ。

 きっと、幼なじみは怒っているだろう。勝手に飛び出していったのはもう何度目だろう。失望されてもおかしくはない。だからここで、幼なじみを頼ろうとするのは間違っている。

「交渉なんて、はじめから成立していない」

「ほう……?」

 何の興味も関心もなかったくせに、はじめてガエリオの目にそれが見えた。

「ユングナハルが、イレスダートに本気で戦争を仕掛けるはずがない。あなたは、それほど馬鹿には見えないから」

「なんの話だ?」

「ナナルの王族が、に手を出すことなんて、できない」

 葡萄酒を呷っていたガエリオの手が止まった。

「貴様がだという証がない」

「そんなに見たいの?」

 レオナは身体に雷光を纏わせる。視界の端でルテキアの目を見た。やめろ、と。傍付きはそう言っている。心配しないで。レオナは目顔でそう応える。殺しはしない。でも、こんなやり方はきっと間違っている。力で人を掌握する。対峙するこの男と何も変わらないことだって、レオナはわかっている。

「ねえ、なにを騒いでるの?」

 はっとして、レオナは纏っていた力を消した。レオナの魔力は部屋の外まで届いていたはずだ。だから、ガエリオの部下たちは主の危機でも介入することができなかった。

 いったい、誰が。レオナは声のした方へと目を向ける。裾の長い寝間着を引き摺りながら、一人の少女が部屋へと入ってきた。

「ガキが起きている時間じゃない」

「うるさいから目が覚めちゃったの。で? この人たち、なに? ガエリオの新しい愛人?」

 レオナは目を瞬かせる。瞼を擦りながら言った少女は、レオナの魔力を見ていなかったらしい。褐色の肌と赤い髪、卵形の輪郭に翠玉石エメラルドの大きな瞳、その容貌はウンベルトやジルよりももっと若い。ガエリオの娘だろうか。それにしては似ていない。では、この少女もジルのようにこの男の愛人なのだとしたら、さすがに度が過ぎている。

「でも、ちょうどよかった。ねえ、香茶を淹れてくれない? 喉が渇いちゃった」

「ガキはあっちへ行ってろ」

「やあよ。だって、目が覚めちゃったんだもん」

 舌を出しながら、赤毛の少女がガエリオの隣に座る。ずいぶんと気安い仲に見えるものの、レオナは緊張を解けずにいる。いきなり殴ったりはしないだろう。でも、このガエリオという男の凶暴性をレオナは見ている。

「勝手にしろ」

 ところが、ガエリオはそう吐き捨てると、レオナたちを置いて部屋から出て行った。助かったのかもしれない。レオナはまじまじと少女を見る。欠伸をしたり腕を伸ばしたりしていた赤毛の少女は、目が合うとにこっと笑った。その笑みは、あのウンベルトという少年にどこか似ているような気がした。

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