ウンベルトとジル①

「ありがとうございます。あなたは、美しい人ですね」

 幼なじみの手を握ったまま、ウンベルトが言った。

 いつのまに治癒の力を使ったのだろう。大した怪我でもなかったのに、それでもレオナはウンベルトの傷を治した。おまじない。そう言って魔法をかける。緑色の淡い光はすでに消えていた。

 軍師の苛立ちが限界に達する前に、二人を引き剥がさなければならない。

 レオナとウンベルト、そのあいだに割って入ろうとしたブレイヴには気付かずに、ウンベルトはつづけた。

「でも、俺のジルはもっと美しいです」

 厄介な少年と関わってしまった。何の悪気もないというのは、ある意味才能のひとつなのかもしれない。軍師にしてはめずらしく、強めの力で少年を責付いた。幼なじみはきょとんとしたままだった。

 露天商を抜けてから、ウンベルトはひたすら東へと進んでいる。

 どこまで行くつもりだろうか。少年は自分の恋人を迎えに行くと言ったが、こうもぞろぞろ歩くのはどうしても目立ってしまう。こんな人の多いところでも構わずに襲ってきたくらいだ。逃がしたのは失敗だったのだろうか。

 とにかくいまは先を急ぐしかない。ウンベルトを先頭にぴったりブレイヴが隣に付く。うしろにセルジュが回ったので、レオナとアステアも大丈夫だ。

「あれは兄が放った刺客です」

 まるで他人事の物言いだ。この少年は自分が狙われているという自覚があるのだろうかと、ブレイヴはため息を吐きたくなる。たぶん、軍師の苛立ちはそれ以上だ。面倒なことになりそうな予感がする。いや、もう遅いのかもしれない。

「兄というのはダビトか?」

 少年の耳元でささやく。声が返ってくるまですこしの間があった。

「いえ、別の兄です」

「ずいぶん兄弟が多いんだな」

「言ったでしょう? 俺は末っ子だって。兄弟は十三人いました。クライドは十番目、ダビトは三番目で、そのあとにもイグナーツとガエリオがいます」

 ブレイヴは思わず足を止めるところだった。この少年は、いま何を言ったのだろう。

「イグナーツは、この国の女王?」

「そうですよ。あれ? 知らずに話していたんです? 聖騎士殿は思いの外、察しが悪いんだな」

 ブレイヴは微笑で応える。何から確認すべきかわからなくなってくる。

「じゃあ、クライドさんはこの国の王子様だったのですね」

 アステアだ。小声のつもりが、しっかりうしろにも届いていたらしい。

「兄にその自覚はなさそうですよ。でも、俺も似たようなものです。ナナルで生まれ育ったとはいえ、王宮でずっと暮らしてたわけじゃありません。他の兄弟だってそうです。みんな、前の王が死ぬ前に呼ばれただけですから」

「では、嫡子は」

「いませんよ。だからイグナーツが王なんです」

 ナナルの歴史をもっとしっかり学んでおくべきだった。とはいえ、士官学校では南のユングナハルはさらっと学んだだけだ。特別な興味を持たなければ関心を抱かない。イレスダートは北のルドラスと戦争をしている国だからだ。

 ふたたび問いかけようとして、少年はぴたりと止まった。どうやら目的地に着いたようだが、ブレイヴの頬は引き攣った。話に集中したあまりに、いつのまにか路地裏に入り込んでいたのを気づかなかった。

「セルジュ。ここまできて悪いが、二人を連れて先に帰ってくれないか?」

 皆まで言わずとも軍師ならわかってくれる。そう目顔を送るブレイヴに、セルジュの方が元よりそうするつもりだと言わんばかりだ。

「あのう、ここってお酒を飲むところですよね? 大丈夫ですよ。僕たち、ここで待っていますから」

 そういう問題じゃない。ブレイヴは頭を抱えたくなった。表向きは普通の酒場だろう。酒精アルコールのにおいに混じってきつい香油の香りがするのを、魔道士の少年は気付いていないようだ。

 客引きする女たちがたむろしていないのはその必要がないから、昼間から堂々と店を開けているのなら、近隣の店も似たようなものだろう。

「ああ、大丈夫。ここは初心者でも飲みやすい酒を扱っていますよ」

「子どもには十年早い」

「僕は子どもじゃありませんよ」

 弟の首根っこを掴んで、うしろにさがらせたセルジュがじろっとこっちを見た。冗談じゃない。怒りをぶつける相手を間違っている。こんなところに幼なじみを連れてきたくはなかったのは、ブレイヴの方だ。

 兄弟喧嘩を無視してウンベルトが木扉を開けようとする。ところが扉は勝手に開いたかと思えば、中から給仕娘が飛び出してウンベルトに抱きついた。

 熱い抱擁と口づけ。たっぷり見せつけられたところで、止める機会を見失った。戦場からひさしく戻って来た夫婦でもここまで激しくはないと、ブレイヴは思う。それこそグランのレオンハルトが苦笑するくらいに。

「ああ、ウンベルト! 会いたかった!」

「僕もだよ、ジル」

 ブレイヴはそれとなく背中で幼なじみを隠したが、間に合ったかどうかわからない。セルジュは両手でちゃんと弟の視界を塞いでいた。人通りはけっして少なくない裏通りだが、誰も気にしてなどいない。ここらでは日常というわけだ。

「ひどいじゃない。こんなにあたしをほったらかしにして!」

「ごめんよ、ジル。でも、君に言われた白粉はちゃんと手に入れたからね」

「まあ、うれしい! だからあたし、あなたが大好きよ」

 また口づけがはじまった。何を見せられているのだろう。そもそもこの二人は本当に恋人なのだろうか。一人の客が、熱心に給仕娘を口説いているようにしか見えない。

 硝子容器を大事そうに包み込む給仕娘も、ウンベルトとそれほど変わらない年の少女だ。波打つ豊かな黒髪、気の強そうな紫紺の瞳、砂漠の民の証である褐色の肌、少女の着るカミーズはふつうの給仕娘というより旅芸人の踊り子のようだ。実際、そうなのかもしれない。この少女の仕事は給仕娘が本業ではないのだ。カミーズの薄布からのぞく四肢、成人した女性と遜色ない膨らみは男たちを誘惑するための武器だ。

 軍師がわざとらしく咳払いした。そこでようやく二人だけの世界が終わった。

「この人たちが新しい護衛なの? なあに、てんで弱そう。子どもだっているし」

「僕は子どもじゃありませんよ」

 兄の腕を掻い潜ってアステアが反論する。ジルと呼ばれた少女は値踏みする目でこちらを見ている。

「心配要らないよ、ジル。この人は聖騎士なんだ。ちゃんと僕らを守ってくれる」

「まあ! あたしのために騎士さまを連れてきてくれたのね!」

 水を向けられた時点で嫌な予感はした。予想どおりだった。ジルはウンベルトを押しのけて、今度はブレイヴの胸に飛び込んできた。

「うわあ! ジル!」

「はじめまして、騎士さま。あたしはジル。しっかりあたしのこと、守ってね。お礼はちゃあんとするからね」

 ウンベルトの悲鳴なんてきこえなかったように、少女がぐいぐい胸と太腿を押しつけてくる。あまったるい香油のにおいに頭痛がしてきた。覚えがあると思ったら、これはウンベルトの香油とおなじ香りだ。彼が少女に贈ったのか、それとも少女と一緒にいるから移ったのか、いまはどちらでもいいから早く離れてほしい。

「ちょっと、ジル! くっつきすぎだよ、離れて」

「いやあよ。せっかく騎士が来てくれたんだもの」

「だからって、こんなにべたべたしなくてもいいじゃないか!」

 ブレイヴを挟んで二人が喧嘩をはじめた。迷惑でしかない。どこか余所でやってほしい。ため息を吐きながらブレイヴは半ば無理やり少女の腕を解いた。自分が拒否されるとは微塵も思っていなかったのだろう。ジルはちょっと驚いた顔でいる。

「いやだわ。騎士さまって、案外ウブなのね」

 片目を瞑るジルを無視してブレイヴは軍師を探す。助けが入らないはずだ。セルジュもアステアも、そしてレオナも。とっくにその場からはいなくなっていた。

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