赤い悪魔②

 イレスダートの季節が冬から春へと変わる頃、ディアスはふたたび王都マイアを訪れていた。

 しかし、その行き先は白の王宮ではない。離れの別塔に隠されていた王家の末姫は修道院に入っていたし、ディアスもまた士官生となるために王都に来たのだった。

 市街地を一望できる高台に士官学校は屹立きつりつする。

 白の王宮とおなじく、王都の主要な建造物には白の色が使用されていて、ディアスはこれから五年間をこの場所で過ごす。剣術に槍術といったあらゆる武術をはじめ、馬術や騎士道も本格的に学びはじめる。集う子どもらの顔はまだ幼い者も多かったが、上流貴族から下流貴族、商家やあるいは農家の子どもなど身分はそれぞれだ。

 兄ホルストは祖国ランツェスで帝王学を学んだので士官学校には通っていなかったものの、父親はディアスに士官生となるように命じた。公爵である父親の考えなどディアスにはわかるはずもなく、それに逆らうつもりもなかったので素直にうなずいた。

 だが、周囲は子どもにはきかせなくてもいい話題をあえて持ち出す。

 公子、父君はあなたに期待をされているのですよ。そうですとも。将来公爵を継ぐ者は、誰しもが王都の士官学校へと通っているのです。黒騎士ヘルムートをごらんなさい。彼は首席で卒業し、いまは教官を務めているとか。いずれはかの黒騎士も爵位を継ぐ者、しっかりと教えを請うのです。

 どうでもいいと、ディアスはそう思った。

 ムスタール公子ヘルムートの名は知っていて、また会ったこともある。教官としても彼は優秀で、たしかに尊敬できる人間というのもうなずけるものの、しかし黒騎士はディアスを懲罰室送りにした。それも入学してからさほどの時間が経ってもいないのにかかわらずだ。

 きっかけはディアスが上級生に目を付けられたことだった。

 十三歳の子どもにしては背が高く、それから赤銅の髪色も目立っていたのかもしれない。

 いや、理由などどうでもよかったのだろう。そもそもそういった洗礼がある自体ディアスにはくだらないものと感じられたし、媚びへつらうなどまっぴらだった。ディアスはいきなり上級生たちに絡まれて、それを返り討ちにしただけだ。

 正当防衛だと訴えるのも面倒だったので、教官を前にしてもディアスはだんまりを決め込んでいた。

 ただ上級生たちに怪我を負わせたのは事実、力の加減をするのは簡単でも謂われのない理由で因縁を付けられたのは癪だったというのも、教官はちゃんと見抜いていたらしい。

 教官ヘルムートに関わったのは他にもある。次はディアスもはっきりと覚えている上に、殴ろうと思ってそうした。

 イレスダートの雨期がはじまって外での演習が少なくなったせいか、士官生たちも無聊ぶりょうを覚えはじめた頃だった。

 雑談や噂好きな奴が集まり、情報屋に金を払ってまで外の情報を知りたがるような奴も出てくる始末だ。他人と群がるのをことに嫌うディアスはいつも自習室や図書室に籠もるのだが、私語を禁じられているはずのそこでも雑談をする奴らがいた。よほど暇を持て余しているらしい。

 外が大雨のせいか図書室は混み合っていて、いまさら席の移動は不可能だった。暇人たちの私語は小声ではあるとはいえ、それが却って耳障りだ。

「なあ、知っているか? 王女様の話」

「ああ。妹姫のことだろう?」

「あの姫様がいま修道院にいるっていう噂」

 レオナのことだ。ディアスは聞き流そうと思ったが、しかしひそひそ話と言えないほどに彼らの声は大きくなっていく。

「側室から生まれた姫君だろう? べつに普通じゃないか」

「ちがうちがう。あの姫様は特別なんだよ」

「はあ?」

 最初は二人だけだったのが、もう一人が加わる。

「それ、俺も知ってる。ドラグナーに選ばれたのは、その姫さまだっていうはなし」

「だからなんだよ。王家の人間から選ばれるのは当然じゃないか」

「そうじゃないんだよ。末の姫様は帝王学はおろか、王族としての教育だってまともに受けていない。そりゃ、ならばそれでいいんだろうけどな」

「なんだよ、それ。どういう意味だよ」

「つまり、王家の末子は危険なんだよ。いつまた力が暴走するかもしれないってこと」

「精神が未熟なまま、有り余る力を持ったなんて、いてもらったら困る。だから妹姫は修道院送りになった。そういうことだ」

 ディアスは意識して呼吸をする。落ち着け。ただのくだらない雑談だ。そう、自分に言いきかせる。

「だいたい、あの妹姫は側室の子なんだ。それだけでも厄介なのに」

「そうそう。白の王宮は大騒ぎ。元老院は焦っているってわけ」

「ああ、なるほど。それで、ミランダ王妃がおかしくなったって話か」

「しぃーっ! 声が大きいよ、お前。まあ、そのはなしも本当らしいよ。元から癇癪持ちの王妃さまが、いまはひどい有様だとか」

「ソニア王女も大変だろうなあ。あの王妃様は娘を溺愛してるっていうから」

「だからお前も声が大きいよ。そもそも、あの末姫さまのせいで、ミランダ王妃の精神状態がより酷くなったんだろう?」

「でもさ、ひとついいことがある。元老院と王妃様が繋がっていたのがわかったんだって」

「それのどこがいいことなんだよ。ミランダ王妃の愛人なんて、いまにはじまった話じゃないだろ」

 いつのまにか、ひそひそ話をする三人の周りに人が集まっている。情報屋でも入手できないような極秘情報だ。たぶん、あの三人のうちの一人は、親が元老院か、それに近しい人物なのだろう。ディアスにとってはどうでもいいことだが、他の皆は必死で耳をそばだてている。

「だったら、アナクレオン殿下はともかくソニア殿下だって怪しいところじゃないか? もしかしたら、ソニア王女の本当の父親は、」

 皆まできく前にディアスはもう相手を殴っていた。

 喚き散らす他の同級生をおなじように殴っていたし、逃げようとした残りの一人にも拳を打ち込んだ。上級生に羽交い締めされて、やっとその三人から引き離されたとき、同級生たちの意識はなくなっていた。

「それで私のところに来たの?」

 失笑混じりに彼女は言う。ディアスが懲罰室送りになってから十四日が過ぎていた。

「あなた、変なところで心配性ね。もっと自分のことを心配してほしいくらいだわ」

 会いにきたと言えば恩着せがましいかもしれない。

 いきなり押しかけてきたディアスにソニアは席を勧める。ずっと降っていた雨が今日は上がって、良い天気だった。

「それに、士官学校では外出するのに許可が要るのでしょう? こんなことに、」

「いい。俺があそこにいたくなかったんだ」

「外出なら、他にも行くべきところ、あったでしょう? レオナも喜ぶし、あなたの妹だって」

「修道院は男子禁制だ」

 ソニアがまだ何か言いたそうにしているので、ディアスは香茶に逃げた。ほんのり柑橘のにおいがするそれは、オリシス産の茶葉を使っているようだ。

「あ、気がついてくれた? 春摘みの茶葉ですって。レオナが好きそうな香りだと思わない?」

 目を細めるソニアを見て、ディアスはため息を吐きそうになった。

 いつもそうだ。ソニアはいつだって自分よりもレオナを案じているし、過度に心配もする。レオナを修道院に入れるのだって、ソニアは最後まで反対していた。たぶん、兄のアナクレオンと口論になったのだろう。それはディアスには言わなかったが。

 視線に気がついたのか、彼女はにっこりと笑んだ。

「私は大丈夫よ。私、お母さまにそっくりだって、そう言われているのよ。似ているの、知っているでしょ? そんな噂話なんて笑っちゃうくらいだわ。だいたい、あの人がなのは昔からよ。いつまで経っても中身が子どものままなの。ギル兄さまに冷たくされるから、だから私に余計に期待するのよ」

 見え透いた嘘を平気で吐くし、強がりだってことも知っている。ソニアはそういう女だ。いつか彼女は自分とディアスが似ていると言った。兄ホルストとディアスの関係を知っていて、あえてそういうことを言う。

「でも……、赤い悪魔だなんて。ねえ?」

「やめてくれ。俺はその呼び名が嫌いだ」

 くすくすと、可愛らしい笑みを彼女はする。似てなんかない。ディアスは、そう思った。


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