赤い悪魔①

 ディアスが目覚めると、そこは白の王宮の一室だった。

 白い光を見たそのすぐあと気を失ってしまったのか、それとも自分の足で白の王宮へと戻り、そうして大人たちに詰問された疲労からか、よく覚えていない。

 隣の寝台ではまだブレイヴが寝ている。穏やかに眠っているようで、ディアスはすこしほっとした。あれだけ殴られていたというのに顔は腫れていないし、傷も残っていない。宮廷魔導士が癒やしてくれたのだろうか、あるいはソニアかもしれない。

 夢だったのだろうか。ディアスはそう思った。

 王女の乳母や守り役を騙して白の王宮を抜け出したのも、炎と月と竜の円舞を見たのも、ぜんぶ夢のなかの出来事だった。

 けれども、ディアスは無意識に口元を押さえていた。気分が悪い。吐き気がする。目の前で人が死んだのはこれが最初ではなかったが、ディアスの母親はあんな死に方はしなかった。

 あいつらは死んで当然の人間だと思った。

 ディアスはごろつきたちを殺すつもりだったし、そうしなければ幼なじみを守れなかった。

 でも、あれはただの夢じゃない。あんなのは殺戮だ。

 肩が震える。涙が溢れる。眩い光が消えたあと、白のせかいの色は赤へと変わっていた。生々しい血臭がする。赤い色の正体は撒き散らされた血だ。

 はっとして幼なじみを探した。ブレイヴもレオナも倒れてはいたものの、怪我はなさそうだった。のろのろと身体を起こして、ディアスはごろつきたちがどうなったのか気になった。逃げられたのだと、最初はそう思った。

 ディアスは目を見開いた。

 引き千切られた腕が転がっていた。ぐちゃぐちゃに潰れたその顔は、ディアスを嘲笑っていた男だったのかもしれないし、別の男のようにも見えた。腹部からは腸が飛び出している。判別可能なのはそれくらいで、あとは元が人間だったかもどうかわからない肉塊がそこらに散らばっていた。

 殺したのは、レオナだ。

 急に吐き気がして、ぜんぶ吐き戻してしまえば楽になれるのに、口から出てきたのは黄色い胃液だけだった。しばらくえずいて、ようやく呼吸を取り戻す。もういちど、眠りたかった。悪い夢を見ていたんだと、誰かにそう言ってもらいたかった。でも、あれは夢じゃない。だからこんなにも震えが止まらないのだろう。

 次に目が覚めたとき、ディアスが汚したシーツは綺麗に取り替えられていた。

 吐き気は収まっていたが、ひどい頭痛がする。そのとき、ディアスは傍に誰かがいることに気がついた。慌てて身を起こそうとして止められる。

「そのままでいい」

 レオナの兄、アナクレオンだった。

「殿下……、レオナは?」

 アナクレオンは目顔でディアスに水を勧める。そんなにひどい顔をしているのだろうか。ディアスはゆるく首を振った。

「無事というのならば、たしかにそうかもしれない」

 曖昧な物言いで返す。この人は、いつもそうだ。睨むつもりはなくとも、挑むような目になっていたのだろう。アナクレオンは苦笑する。

「お前たちに問わずとも、私にはわかっている」

「どういう、意味です?」

「なぜそうなったのか。どちらにしても、お前たち二人を責めたりはしないということだよ」

 ディアスはとっさに拳を作っていた。嫌悪、怒り、後悔、屈辱、それらはぜんぶ本当の感情だった。

 王子アナクレオンは何が起こっていたのかを皆まで知っている。その上で、ディアスとブレイヴを糾弾しないのは、二人が子どもだからだ。

「俺たちは……!」

「誤解するな。場所がどこであろうと、あれの傍に誰がいようとも、いずれおなじことが起きていた」

 ディアスは激しく瞬いた。言っていることの意味がわからない。この人の遠回りをする物言いが嫌いだ。

「説明が必要か? 当然の主張だな。お前たちは巻き込まれたのだから」

「巻き込まれた?」

 鸚鵡返しするディアスにアナクレオンはうなずく。

「そうだ。はじめから仕組まれていた。こう言った方が理解が早そうだな」

 それは、どういう。声が震えてうまく紡げない。アナクレオンの唇が笑っているようにも見えるのも、きっと気のせいじゃない。 

「子どもの浅知恵だ。それくらいお前にもわかっていたことだろう?」

「でも、俺たちは」

「協力者は誰だったか?」

「ミランダ王妃の、薬師……?」

 そこで息を止めた。かの王妃が離れの別塔に近づくのは絶対にあり得ないことだった。

 王家の末子レオナの存在を疎んでいる王妃だ。白の王宮の片隅だろうと、幼なじみが存在する場所なんて許さないだろう。迷い込んだ? そんなわけない。レオナの箱庭にたどり着くのは部外者に不可能だということを、どうして気づけなかったのだろうか。

 浅くなった呼吸をディアスは落ち着かせようとする。

 アナクレオンはちゃんとその時間を与えてくれて、それから次の疑惑にディアスを導こうとしている。

「ちがう。あいつだけじゃない。他にも、いる。そう……、殿下はおっしゃりたいのですね?」

 模範解答をする生徒の答えのようだったが、アナクレオンは微笑んだ。

「レオナの乳母は気の毒だったな。あれはブレイヴの言うことを信じるし、そもそも鼠が嫌いだ」

 幼なじみが実直で嘘の吐けない子どもだというのを、皆知っている。レオナの騎士であるブレイヴには特にやさしかったし、何も疑わないまま彼に付いて行った。でも、そうじゃない者だっている。

「お前の思考は正しいよ、ディアス。そもそもこの王宮で鼠など誰が見ただろうか」

「まさか」

「あれには家族がいるからな。孫娘を盾に取られたら動くしかあるまい。ましてや、王の下命かめいだ。騎士はそれに逆らえない」

「いま、なんて……?」

 レオナの守り役の老騎士にはレオナとおなじくらいの年の孫がいると、そうきいたことがある。けれど、そうじゃない。重要なのはそのあとだ。

 ディアスは幼なじみを見た。ブレイヴは薬でも飲まされたみたいに、ぐっすりと眠っている。

 恐ろしいことを口にする。ディアスはいずれ己の主君になる人に対して、はじめて恐怖という感情を持った。

「すべてが憶測だと思うか? 根拠のない戯言だと」

 否定をしようとして、できなかった。心臓の音が速くなる。耳の奥に血が集まる。歯の根がかち合わなくなる。誰が、なんのために? 頭がぐるぐるして何も導き出せなくなる。アナクレオンは問えば答えてくれるだろう。それが、おそろしい。

「私にはレオナを守る義務がある。あれは私の妹である前に、竜人ドラグナーだからな」 

 ディアスは顔をあげた。そうだ。そもそもそこからおかしくなってしまったのだ。 

 白の王宮はこれ以上ないほどに乱れているし、王妃ミランダは狂乱した。我が子ソニアこそが正当なる竜の子だと主張するも、ソニアには聖痕が現れなかったからだ。

「白の王宮に妹の敵となる者は、何も一人ではない。そしてこの箱庭が安全な場所ではなくなったのはたしかだ。レオナにとっても、奴らにとっても」

「どういう、意味です?」

 震える声でディアスは問う。お前は見たはずだ。王子アナクレオンの目がそう告げている。

「つまりは危険なのだよ、レオナの存在は。精神が未熟なまま目覚めてしまった力は、次に何をもたらすのかわからない」

「で、でも、レオナは俺たちを……!」

 そこでやっとアナクレオンの真意にたどり着いた。利用されたんだ、俺たちは。レオナを妬む者、恐れる者、憎む者、そのすべてに。

「あのままレオナが連れ去られてしまえば、最初から王家の末子などいなかったことになるな。それこそ、奴らの描いた脚本どおりに」

 奴らと、先ほどから憎しみを込めて呼ぶ相手は誰だろう。

 青玉石サファイア色をしたアナクレオンの瞳は、無機質な宝玉さながらに冷え切っている。王子の実の母親であるミランダ王妃か、それとも彼らの父親であるアズウェル王か、あるいは白の王宮で暗躍する元老院か。いや、他にもいるのかもしれない。ディアスは歯噛みする。この白の王宮にて、レオナに味方する人間の方がずっと少ない。

 王子アナクレオンはレオナを守ることを義務と言った。

 それはたしかに正しいのだろう。彼はいずれ王となる人だ。正当なる竜の血を受け継ぎし者はイレスダートに安寧をもたらすといわれる。それが、ドラグナー。

 その存在は王に次いで力を持つ存在だからこそ、側室の子であってはならなかったのだ。

 ディアスは涙を拭った。泣くのは終わりだ。試しているのだろうか。アナクレオンはずっと黙っている。

 上等だ。俺は、迷わない。アナクレオンもソニアもレオナの兄妹だから、きっと彼女を守ろうとする。けれどももっと大人になって己の立場が変わればどうか。それにディアスは知ってる。血の繋がった兄弟の絆など脆いことを。

 その日から、レオナは眠れなくなった。

 人を殺したあとは誰もがそうなる。アナクレオンはそう言った。まるで、自分がそうしたことのあるような物言いだった。

 姫君の泣き声が扉の外まで届いている。

 こわい夢を見たくないのだと、レオナは眠るのを拒んでいる。彼女はあれを悪い夢だと思っているのか、それとも現実だと認めているからああなってしまったのか、ディアスにはわからない。

 心が壊れてしまう前に大人は姫君を落ち着かせようとする。

 最初は姉のソニアが付きっきりだったのが、それもすぐに限界が来たのだろう。ソニアはレオナの実母フィリアに助けを乞うた。普段はレオナと離れた部屋で引き篭もっているその人を、ディアスはそこではじめて見た。

 ちゃんと食べて、眠っているのだろうか。

 知らない大人ばかりが出入りしているのを見て、ディアスは不安になった。ブレイヴもおなじだった。

 なぜ、アナクレオンはブレイヴには真実を告げなかったのだろう。入室は許されずにディアスもブレイヴも扉の前で立ち尽くすだけ、泣いているブレイヴをディアスは慰めようとは思わなかった。彼は、騎士だ。いまは子どもでもその矜持きょうじを傷つけてはならない。

 父上のような聖騎士になる。それはブレイヴがいつもする口癖だった。その日から、彼の聖騎士の夢はただの夢ではなくなった。

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