孤独①

 彼女があのうたを口遊むときは決まっている。

 悲しいのかと、きいてみたこともあった。しかしソニアはいつも微笑んでいた。自分の心に嘘の蓋を被せるのに慣れているような、そんな笑みを見るたびに、ディアスの胸は苦しくなる。理由はわからない。ただ、ブレイヴやレオナのように、ソニアもまたディアスの幼なじみだから。そう、ディアスも自分の心に蓋をする。

「そのうた、嫌いじゃなかったのか?」

 意地悪をするつもりで言ったはずではなかった。けれど、歌声はぴたりと止まって、彼女はディアスをじっと見つめた。挑むような目をするのは彼女の機嫌が悪い証拠だ。

「あなたって、ほんとうに意地悪ね」

 言葉ほど声が怒っていないのは、それが挨拶代わりだと知っているからだ。ソニアはにっこり笑った。

 白の王宮が黒に包まれてから半年が過ぎた。

 いまだに王妃の死を嘆く声もあれば、弔問に訪れる貴人の数も減ってはいない。苛烈かれつで傲慢、されども王妃ミランダは自らの美貌で人の心を捕らえて放さないような女だった。その瞳に見つめられた男はどんな我が儘でも許してしまう。大貴族も商家や農家の貧しい者も、身分を問わずに王妃にかしずく。ミランダが狂ってしまってからも、その美しさは衰えることがなかった。最後まで美しい若い姿のままで逝ってしまった。誰もが王妃の死を悼み、祈りと鎮魂の歌を口にする。

 本当に、うつくしい王妃だった。

 あれが魔性の女と呼ばれようとも、失うには惜しい女だった。むしろ若く美しいまま逝けたのは幸せだったのではないか。年老いた女には若い男も見向きもしないだろう。しかし、自ら死を選ぶとは。マイア王家はヴァルハルワ教会をないがしろにしすぎてはいまいか。

 他人は勝手な言葉を平気な顔をして吐く。傷つかないはずがない。折を見て、ディアスは何度も白の王宮に足を運んでいる。あなたって、心配性ね。いつもソニアはそう言う。

「ギル兄さまが、あなたのことを礼讃らいさんしていたわ。直接会って話したがっていたの。でも、だめね。兄さまはずっと忙しそうで」

「俺なんかに時間を使う必要なんてない。それでも、殿下の言葉はありがたく受け取る」

「ふふふ、伝えておくわね。……でも、次にギル兄さまにいつ会えるかどうか」

 ソニアは嘆息する。兄を案じている妹の顔には、ほんのすこしの不満が見え隠れする。

「仕方がないだろう。戦況はいまだに変わらないままだ。夏の敗戦が堪えているのも事実だし、白の王宮は焦っている」

「あのひとたちの言いなりなんかにはならないわ、ギル兄さまは」

「わかっている。お前こそ、」

「なあに?」

「いや、いい」

 ひと月ほど前に、白の間にて慰霊式典が行われた。

 北の敵国ルドラスの侵攻は突然だった。前線を任されていた騎士のなかには、ディアスとおなじ士官生もいた。そのほとんどの犠牲が彼らだったと言ってもいい。アズウェル王の声はしっかりしていたが、それらの言葉はすべて白の王宮が用意したものだった。元老院の傀儡かいらい。この式典も奴らが用意した演出にすぎない。

 ディアスはソニアをちらと見た。ここにいる娘は王女というよりもただのディアスの幼なじみだ。あのときの顔とはちがう。慰霊式典で声を震わせながら言葉を紡いだ彼女も、やはりあれは演技だったのだろうか。 

「そうだわ。レオナから手紙がきたの。読みたいでしょう?」

「いや、俺はいい」

 想定内の返しとばかりにソニアが苦笑する。

「本を借りてきてくださったのはギル兄さまよ。自分で手紙を書いてあげたら良いのに、ね。あなたもそう思わない? あ、でもね。あそこには、あの子と歳の近い子たちがいるみたいで。退屈はしていないでしょうね」

 レオナが修道院に入ってから三年が過ぎた。白の王宮に戻る時間は限られていて、だから姉が妹を案じるのは当然の感情だろう。

「あそこにはルダのアイリオーネがいる。事情を知っていようがいまいが、レオナを気にかけてくれるはずだ」

「あら? あなたも会いに行ったのね?」

「いや、俺は」

 修道院は近しい家族や友人が面会をするのは許されていても、男子禁制の場所である。にもかかわらず、レオナに会いに行っているのはもう一人の幼なじみだ。

「ブレイヴは見つかって大騒ぎになった」

「きいたわ。レオナは長い反省文を書かされたって」

 一年遅れて士官生となったブレイヴは、しかし懲罰室送りを免れていた。黒騎士ヘルムートは、王家の末姫がどこにいるのかを知っているのかもしれない。

「でも、ここよりはずっと安心だわ」

 ディアスはソニアを見た。青玉石サファイア色の瞳は冷えていて、彼女がいま何を考えているのか読めなかった。

「私にはあの子を守ってあげることもできないし、救ってあげることもできないの」

「お前らしくないな」

「私を何だと思っているの? ただのあの子の姉よ?」

「それでも、レオナはお前を慕っているし愛している」

「さびしいのよ。あの子は、ずっと白の王宮で独りぼっちだったもの。私は姉として接していただけ」

 まるで言い訳のようだ。ディアスは摘み取った違和感を気のせいだと思い込む。偽りは見えなかった。他にどんな感情が隠されていようとも、ソニアの声は嘘を吐いているようにはきこえなかった。いまも、そうだ。

「ねえ、ディアス」

 目が合った。ソニアは笑んでいるのに、悲しさを堪えるような、そういう表情をしている。

「救って、あげてね。あの子のことを」

 どういう意味だろうか。ディアスはわからないふりをする。ソニアは笑う。ディアスの心のなかなんて、簡単に見抜いているかのように。

「レオナにはあいつがいるだろ」

「ええ、そうね。でも、ブレイヴじゃだめなの。わかるでしょう?」

 幼なじみはレオナを自分の命に代えても守るだろうし、レオナをけっして裏切らない。でも、そうじゃない。ソニアの瞳がそう言っている。

「あなたじゃないと、だめなの。だから、いつかきっと……。あの子のこと、救ってあげてね」

 一方的に交わされた約束だったと思う。けれども、ソニアの声は否定をさせない強さを持っていた。

 幼なじみでしょう? 彼女の目が、そう言う。どうやって逃げようかと考えてみた。

 外はとても晴れていて、瑞々しい緑とやわらかな花のにおいがした。ソニアの侍女が香茶のおかわりを注いでくれる。どうも逃げられそうもない。

「ねえ、ディアス」

 呼ばれて、彼女を見る。

「もうここには来ない方がいいわ」

 亡き王妃と良く似たうつくしい娘は、微笑んでそう言った。

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