レオナとダミアン
鼻歌がきこえてくる。今日は朝からずっと機嫌が良いらしく、ダミアンは私室で公務をこなしている。
父親がああいう人ですからね、つまりは丸投げというわけです。まったくいい迷惑ですよ。そう言って笑うダミアンの表情は落ち着いているし、やはり上機嫌のようだ。
ダミアンの私室には独特のにおいが漂っている。
充満しているとでもいうべきだろうか。その香りを言葉で表現するのはなかなかむずかしく、かといって不快にも感じないのは、すこし慣れたからかもしれない。
ダミアンはずっと何かの器具を向き合っている。
これもね、サリタから取り寄せたものなのですよ。ああ、正確には海の向こうの。そうして次に麻袋のなかから焦げ茶色の粒を取り出す。これが
ダミアンが微笑んでいる。こうやって豆を挽くんですよ。ね? いい香りがしてきたでしょう? たのしそうに説明をされたところで、レオナにはその仕組みが理解できない。
相槌に困っていると、ダミアンが意地悪っぽい笑みを浮かべながら、今度は丸型の硝子器具に湯を注ぎはじめた。ここまできて、やっとわかった。インク色の液体が滴り落ちてくる。時間をかけてゆっくりと。
ダミアンは鼻歌をつづけている。どうにもそわそわしてしまうのは、はじめて見る器具に好奇心が
働かざる者は食うべからず。
アストレアの民はやはりその精神のようで、領主の館に来て二日目にはそうなった。朝食を終えたレオナの前に現れた女性が侍女のような格好をしていたので、はじめはその人がバルタザール伯の妻女だとは思わなかった。
彼女はまず着替えを渡してくる。ぱちくりするレオナににっこりと笑んで、お召しものが汚れてしまいますからねと、それだけ。
「お待ちください、この方は」
「あらあ、王女様だってここの野菜を召しあがったでしょう? ちゃあんと働いていただかないと、ねえ?」
ルテキアが閉口する。もっともな言葉だった。
「だいじょうぶ。私、こういうの慣れてるから」
袖を捲りあげながらシャルロットが言う。少女はオリシス公爵家に入る前に教会でお世話になっていたというから、畑仕事もしていたのかもしれない。
見様見真似でレオナも彼女たちにつづく。そうして、レオナたちよりも先に畑仕事をしていた中年の男性こそがバルタザール伯だと知ったのは、一日ここで働いた夕方になってからだ。
夏野菜の収穫でもっとも忙しいのがいまの時期らしく、ルテキアとシャルロットは今日も領主の畑に駆り出されている。はじめてみると意外とたのしい。レオナもそのつもりだったが、今朝はダミアンに呼ばれて小一時間はここにいる。
「さあ、どうぞ。できましたよ」
カップに注がれた液体はどう見てもインクにしか見えない。ダミアンが挑戦的な目をしている。レオナは一口飲んでみたものの、やっぱり負けてしまった。
「王女サマはお子様でいらっしゃる。ミルクと砂糖をお持ちしましょうね」
強がったところで苦いものは苦い。レオナは素直にうなずいた。正直でよろしい。そういう笑みをダミアンはする。ミルクと砂糖を混ぜてやっと琥珀色に変わった。これならずっとまろやかになって飲みやすい。
「ありがとう。……それで、わたしに用件というのは?」
「ああ、別に。珈琲の良さを広めたかっただけです」
呼びつけておいてこの返答だ。ダミアンという男はどこまでも自分を崩さない人間らしい。レオナはため息をぐっと堪える。
「まあ、先日の返事をいただけるとばかりに思っていましたのに」
「へええ、あなたは存外せっかちな方なのですねえ。公子はもっと辛抱強いたちでしたよ」
ダミアンの視線はレオナに向かずに机上の羊皮紙に注がれている。まともに相手をする気もないのだろうか。たとえ幼なじみでも、ずっとこの館に閉じ込められた上に、話も通じない相手ならばそれなりの声をする。
でも、短気を起こしてはだめだ。
北の領主の力は大きい。結果的にバルタザール伯の戦力が当てにできなかったとしても、それでも牽制となるのなら頼るのは当然だ。未だにアストレアを手放そうとしないランドルフは北を見逃さないし、ここに気を取られているうちに幼なじみたちも動きやすくなる。
根気強く待つことだって戦いだ。レオナはそう自分に言いきかせる。だとしても、弱みを見せるわけにはいかない。ダミアンの趣味に付き合うつもりはなければ、畑仕事を手伝うためにここに来たわけじゃない。
何を切り札にたたかえばいいのだろう。
レオナはずっとそればかりを考える。この男の思考がまったく読めないのがもどかしくなる。わざわざ薬を使ってルテキアとシャルロットを眠らせて、そうしてレオナと二人きりになるのを望んだというのに、こちらの声を皆まできいたあとの答えは保留のままだ。
短気を起こしてはだめ。レオナは繰り返す。ダミアンがベルを鳴らして
「気になります?」
「答えていただけるのかしら?」
そうは思わない。
「まあ、もうすこしだけ待ってください。いまはまだ早い」
「そんな時間は」
「いいえ、大ありですね。公子が城下にすらたどり着いていないのに、我々が動くわけにはいかないでしょう?」
そのとおりだ。レオナはうつむく。カップはとっくに空になっていた。
「だいたい、自分の力だけで自分の国ひとつを取り戻せないような男を、聖騎士だと誰が認めますか?」
幼なじみはアナクレオンの申し出を断った。だからアストレアに入っている仲間は数えるほどだけ、国を奪還するには心許ない数だ。
それでもアストレアの民は待っている。聖騎士の帰還を待っている。彼の言うとおりかもしれない。幼なじみは聖騎士である前に、この国の公子だ。
「いいえ」
レオナはまっすぐにダミアンを見つめる。偽りのないその目で、その声で。
「わたしがいる。彼を信じる人がいなかったとしても、認める人がいなくなったとしても、わたしが傍にいる」
ブレイヴがずっと傍にいてくれたように、レオナを守りつづけてくれたように。他にできることなんて何もない。必要なのは信頼とそれから――。
「ブレイヴは、わたしの騎士です」
絶対に揺らがない絆がある。心がある。拍手が起こった。ダミアンだ。幼なじみとは従兄弟同士、血が繋がっているのにブレイヴを心から信じていない。だから、こんな声をする。
「強い強い。いやあ、まいりましたよ。でも、あなたのような人は嫌いじゃない」
レオナはにっこりする。
わたしは、迷わない。そうだ、いまできることなんて限られている。
「あなたを、信じます」
アストレアを取り戻してやっと落ち着いたとしても、バルタザール伯と妻女は畑仕事が忙しいと、祝福は手紙だけで済ませるだろう。でも、ダミアンは来てくれる。幼なじみの部屋で珈琲を淹れて、この独特のにおいを充満させながら上機嫌で笑う。レオナは焼き菓子を用意して二人に振る舞う。その頃にはきっと、ダミアンとも友達になれる。
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