いとしさは唇へと①

 七日が過ぎ、十日が過ぎてもその雨は止まなかった。

 回廊は冷雨の影響で身体を芯から冷やすほどに寒く、また慌ただしく行き交う騎士たちでいっぱいだ。レオナは邪魔にならないようにと、ひたすらに端を選んで歩いていた。

 エルグランの竜騎士団が迫っている。

 グランルーザの王城へとたどり着くのは遅くとも二日後、その前に皆は出立するのだろう。まだ幼さを残した相貌の少年でも騎士は騎士だ。入念に武具の手入れをし、渡された槍としっかりと握っている。そこには女の騎士の姿もあり、いずれもセシリアのように短く刈った短髪だった。老齢の騎士たちも若者には負けてはいない。熟練の腕で竜を駆る老騎士たちも貴重な戦力である。

 回廊は雑兵たちでごったがえしているものの、主だった者たちは連日軍議を繰り返している。五日ほど前に尖兵を送ったが未だに連絡がないというのだから、おそらくは殲滅せんめつしたのだろう。いまさら倉皇そうこうとしてもどうしようもないのだが、それでもまだ保守的な者たちはこちらから討って出ることを躊躇っているらしい。

 慎重派の意見もわからなくはない。それだけエルグランの勢いはすさまじいのだ。 

 ただ、一人の竜騎士を失った。しかしその一人の竜騎士――ジェラールの死がすべての引き金となり、エルグランの竜騎士たちの士気を高めているのも事実だ。

 エルグランの公子だったジェラールは王の甥でもあった。世継ぎのいなかったエルグラン王はジェラールにすべてを託していたはずだ。盲愛していた甥を失った嘆きと悲しみ、そして怒りは凄まじく、エルグラン王は竜騎士たちに王命を与える。グランルーザを落とせ、と。

 グランルーザとエルグランの戦力はそれほど大きくなかったが、あちらには勢いがある。

 それこそグランルーザの民を根絶やしにしかねないほどの凶暴性、むやみに突っ込むのは自殺行為に等しかった。ならばやはり籠城戦が正しい。いや、守りに徹するだけでは危険だ。こちらから討って出るべきだ。扉の向こうで繰り広げられている軍議の内容をレオナは皆まで知らない。けれど、その緊張は嫌というほどに感じていた。

 決戦の刻が近付いている。

 このところのレオナは居住区に身を置いていた。グランルーザの東翼には教会があり、女や子どもたちなど戦えない者はここで男たちの無事を祈っていた。最初はどの子どもも母親の言うことをちゃんときいていたものの、いつまでもこんなところに閉じ込められていては退屈する。そのうち一人がぐずりだしたら最後、他の子へと伝染して、泣いたり癇癪を起こしたりと大変だ。母親たちも疲れているのはおなじで、もう怒る元気もなくしてしまったらしい。だからレオナは子どもたちに歌ときかせる。これは姉のソニアがよく口遊んでいた歌だ。

「りゅうのうただ!」

 グラン王国は人と飛竜が共存する国である。

 その歌は、ここの子どもたちも知っていたらしい。はじめは泣いてばかりだった子どもたちも、レオナと一緒に歌ってくれるようになった。それ以来、レオナはここで子どもたちと過ごしている。

 めずらしい客が訪れたのは昨日の日没後だった。

 幼なじみ同様に軍師セルジュも軍議室に籠もりきりのようで、その顔は見るからに疲れていた。軍師が教会に来たのは、聖イシュタニアに祈りたい気持ちになったのだろうか。はじめはそう思ったが、レオナの隣でルテキアが緊張しているのを見て、レオナも覚悟を決めた。

「だいじょうぶ。わたしだって、たたかえるもの」

 滅多に笑わない軍師の唇が、ほんのすこし笑みを描いたように見えた。でも、これはたぶん苦笑いだ。

「このところの公子は少々苛立っている様子ですからね。わざわざ逆鱗に触れるようなことを、言いに来たりはしませんよ」

 では、何の用件だろうか。セルジュの視線は教会の敷地内で遊んでいる子どもたちだ。今日はどの子も大人しくしている。

は、守るために使ってください」

 軍師としての命令ではなく、セルジュ個人としての懇願だ。レオナはうなずく。だいじょうぶ。言いたいことはちゃんとわかっている。

 エルグランの竜騎士団が迫っている以上、グランルーザの王城に安全な場所などない。戦える者はいい。自分の身は自分で守れるのだから。けれども、そうじゃない者たち、ここにいる子どもたちは守らなければならない存在だ。

 レオナがちゃんと声を返すより前に、軍師はもう帰ってしまった。

 その背中を見つめるルテキアの表情は複雑そうで、レオナは傍付きに向けて微笑んだ。だいじょうぶ。本当に、わかっているの。このグラン王国でもあの白の少年は関わっている。となれば、標的がいつこちらにすり替わるかもしれないのだ。戦えと、セルジュはそう言っている。それがたとえ、幼なじみを悲しませたとしても。

「出立は、明朝に迫っているのかもしれません」

 レオナにだけきこえる声で、傍付きが言う。

「じゃあ、ブレイヴも?」

「おそらくは……。公子はレオンハルト王子とともに、エルグランへと向かうはずです」

 急に息ができなくなった。込みあげてくる不安にともすれば肩が震えそうになる。幼なじみが戦場に出るのははじめてじゃない。ウルーグでもイスカでも、サラザールでもブレイヴは戦ってきた。けれどこうも思う。彼が無事にレオナのところに帰ってきたのはこれまでのことであって、この先はどうなるかわからない。雨のなかで泣いていたセシリアの姿が蘇る。あの日の、アイリオーネに抱きしめられながら泣くセシリアは、竜騎士ではなく一人の女性だった。

「行ってください。ここは大丈夫です。他にロッテもクリスもいます」

 こんな風に背中を押してくれるルテキアははじめてだ。

 ジェラールという人のことを、レオナはよく知らない。敵国の公子でエルグランの次期国王、それからセシリアの婚約者。たったそれだけしか知らない人でも、セシリアの深い悲しみとレオンハルトの怒りを見れば、かの人がどれだけあの兄妹にとって大事な存在であったのか、痛いくらいに伝わってくる。自分の本当の気持ちを伝えられなかった。涙を零しながらそう言ったセシリアは、レオナにひとつ忠告をしてくれた。

 きっと、いまがそのときなのだろう。

 オリシスのテレーゼが言った言葉が耳の奥に残っている。戦争は嫌い。守られる側の、待っているだけの人間だったレオナも、おなじことを思った。でも、いまはちがう。レオナは奪う側の人間になってしまったのだ。

 自分を納得させるためにレオナは繰り返している。大切な人を守るためには力を使うことをいとわない。レオナはもう持たざる者ではない。わかっているからこそ、彼との約束は守るべきだ。そう、幼なじみが無事に帰って来られるように。祈るしかできなくともそれが彼にとって力となるのなら。テレーゼがアルウェンにずっとそうしてきたように、アイリオーネがレオンハルトをあいしているように。

 ありがとう。レオナは心のなかで礼を言う。

 セシリアとルテキアに。それからセルジュにもだ。軍師は出立が近いことを知らせに来てくれた。どうにも感情表現が不器用な軍師に、レオナはちょっと笑ってしまった。 

 回廊を行き交う竜騎士たちはともかく殺気立っている。

 竜騎士たちを押しのけていくような勇気はなかったものの、しかしここで足を止めていては幼なじみのところにはたどり着けない。軍議室には最初に訪れたがすでに解散されたあとだった。それならば次は東西南北にある竜舎をすべて当たってみるしかない。その途中に竜騎士の集団に遭遇した。もしかしたらこのなかにいるのかもしれないと、レオナは必死に幼なじみを探す。見える色は茶色に黒に、グラン人の毛髪の色はこのふたつが多い。レオナが見つけたいのは青の色だけだ。そして、一瞬だけそれが見えたような気がした。

「ブレイヴ!」

 声は集団のなかにかき消されてしまった。見間違いだったのだろうか。レオナは人の群れに入ろうとする。 

「ブレイヴ、まって……!」

 竜騎士たちは苛立っているので、横から侵入しようとしたレオナにも気づかなかったようだ。そのうちの一人とぶつかって、レオナは前のめりに倒れた。衝突したのが子どもだと思ったのかもしれない。背の高い竜騎士がレオナを見おろしながら、手を差し伸べる。髪の色は黒、見つけたかった青ではなかった。

「ご、ごめんなさい。わたしは、だいじょうぶ、だから……」

 先を急いでいるのは竜騎士たちもおなじだ。レオナは泣きたい気持ちになった。突き飛ばしてしまった自覚があったのだろう。竜騎士はちいさく謝罪を述べたものの、そのまま行ってしまった。

 だめだ。早く、立ちあがらないとみんなの邪魔になってしまう。

 そう思うのに、どうしても足が動かない。すっかり萎縮してしまったレオナは己を叱咤する。こんなところで止まって、どうするの。

「……レオナ?」

 うつむき掛けた視線をレオナはあげる。目をみはった。最初は幻想か何かだと、そう思ってしまっていた。彼は、レオナに手を差し伸べてくれている。転んでしまって泣いている子どもをあやすみたいに、困惑からやさしい表情へと笑みも変わっていく。

 立ちあがろうとして足に力が入らなかった理由がわかった。

 どうも倒れ込んだときに足を捻ったらしい。ブレイヴに支えてもらうようにして、レオナはやっと身体を起こす。呼吸が上手く整わないのは緊張しているせいだ。でも、二人の時間は限られているのだから、紡がなくてはならない。こえを、おもいを、あいを。

「……ねがい」

 息が、声が、うまくつづかない。

「おねがい。かえって、きて」

 無理やりに笑おうとして、涙がひとつ零れた。そうじゃない。伝えたいのは淋しさでも心細さでもない。レオナのほんとうの、心だ。

「帰って、きてね。おねがいだから。わたしの、ところに」

 それだけ言うのがやっとだった。次から次に、流れてくる厭わしい涙をそのままに、レオナはもうすこし幼なじみへと身体を預ける。踵を持ちあげて、彼の腕をしっかりと掴む。目を合わせれば彼はもうレオナの心を知っているようだった。

 唇が重なる。自分から求めたのははじめてだったかもしれない。

 本当は行ってほしくなんかなかった。自分の傍にいてほしかった。それが叶わないのなら、せめて一緒にいきたかった。子どもみたいな我が儘ばかりを繰り返してしまう。そうだ、ずっとレオナは欲しかったのだ。この心がぜんぶ伝わればいいと、ずっと願っていたのだ。

「話したいことがたくさん、あるの。まだ、言ってないこともたくさん。だから、お願い……。帰って、きて」

 今度は、もうすこし自然に笑えたように思う。幼なじみもやさしい笑みで返してくれる。

「だいじょうぶだよ。レオナ」

 彼はレオナに約束を違えたことなどない。

「帰ってくるから。俺だけじゃない。レオンハルトも、レナードもクライドも。みんな一緒に帰ってくる」

「ほんとうに……?」

「そう。だから、レオナも約束して?」

「やくそく?」

「絶対に、無理はしないって。誰かを守るためであっても、その力は、無理に開放しないって。でないと、俺は」

「だいじょうぶ」

 皆まで言わせてはならない。だからレオナはちゃんとした微笑みを作る。

「約束したこと、覚えているから。前はうまくできなかったけれど、いまならだいじょうぶ」

 レオナのなかに眠る竜の力、この力は誰かを傷つけるためには使わない。この力に頼るのは、誰かを守るときだけだ。


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