いとしさは唇へと②

 ふと、物音に気がついて、アイリオーネは瞼を開けた。

 隣にいるはずの夫の姿はどこにもなく、アイリオーネはしばし視線を彷徨わせる。愛されたばかりの身体にはまだ熱が残っているから、眠っていた時間はそれほど長くなかったようだ。

 ガウンを羽織ってからアイリオーネは爪先を床へと付ける。カウチに横たわるレオンハルトの手には羊皮紙が握られている。出立は明朝、睡眠はしっかり取っておくようにとグランルーザの軍師にも、イレスダートの軍師にも言われたはずなのに、もうふたつも破っている。まったく、仕方のない人ね。軍師たちの代わりに夫を叱るのはアイリオーネの役目だろう。でも、夫はこういう人だから、頭ごなしに叱りつけるよりも効果的な方法を、アイリオーネは知っている。

「レオン」

 呼ばれてやっとアイリオーネが起きていたことに気がついたらしい。

 レオンハルトが言い訳をする前に、アイリオーネは後ろから夫を抱きしめる。その広い背中に顔を埋めながら、しばらく彼の心音だけをきいていた。

 季節外れの長雨はようやく落ち着いた。

 悪天候のなかでも、エルグランの竜騎士たちはグランルーザに向かっている。攻防戦がはじまるのは必須、しかしこのまま守りに徹するようなレオンハルトではなかった。

 夫自ら竜騎士団を率いてエルグランへと向かう。そう、きかされたときにアイリオーネは驚きもせず、レオンハルトならばそうすると思っていた。先陣を率いるのはレオンハルト、第二部隊に加わるのはイレスダートの聖騎士だ。アイリオーネの友人たちはちゃんと声を交わしただろうか。親しい友だとはいえ、年長者のお節介が過ぎると友人に嫌われてしまう。レオンハルトはあれこれ世話を焼きたがる性分なので、アイリオーネはそれとなく止めさせた。若い二人に任せましょう。不承不承にうなずく夫は、どうにもやきもきしているようだった。

「レオン」

 アイリオーネはいとしいひとの名をつぶやく。彼が声を落とすより前に頬へと口付ける。夫はすこしだけ物足りないような顔をした。

「おまじない、よ」

 レオンハルトに招かれて、彼の太腿へと腰をおろす。唇が迫る前に人差し指で塞ぐと夫は小鼻を膨らませた。情欲のままに睦み合ってしまえばたしかに満たされるだろう。でも、それは彼が無事に帰ってきてからでも遅くはない。

「気をつけてね、レオン」

「ああ、わかってる」

 大人の時間を邪魔されたせいか、子どもみたいにむくれている。アイリオーネはくすくす笑った。

「……敵わないな、まったく」

「あなたの妻ですもの」

「セシリアを頼む。あれは、向こう見ずなところがあるからな」

「ええ。あなたといっしょね」

「それから、父上のことも」

「お任せてください。命に代えても、私が守ります」

 アイリオーネを抱きしめていた腕の力が強くなった。レオンハルトはいつだってか弱いお姫様を扱うようにアイリオーネに触れる。強引なキスはいや。グランに来たばかりのときに言った声を、彼はちゃんと覚えている。

「その言い方は好きではないな」

「あら? あなたが私に与えてくれた言葉よ? 忘れたわけではないでしょう?」

 マイアの士官学校に通っていたレオンハルトと、修道院に身を寄せていたアイリオーネ。逢瀬は数えるほどだったが、しかしレオンハルトは卒業前にアイリオーネに求婚していた。互いに国に帰ればもう会うこともない。だからアイリオーネは本気になどしていなかったのに、その一年後にレオンハルトは突然ルダを訪れた。

 イレスダートの最北西に位置するルダは、ともかく冬が長い。

 グランルーザではとっくに春の季節だったのだろう。軽装で来たレオンハルトは危うく凍死するところだったと、大きな口を開けて笑っていた。

 ほどなくして、アイリオーネは生まれ育ったルダを旅立ち、グランルーザへと入る。その最初の夜に、彼はいまの言葉をアイリオーネに贈ってくれた。

「忘れるはずがないさ」

 レオンハルトの声がやわらかくなる。彼のうでのなかでアイリオーネも微笑む。

「だいじょうぶです。私が父上の傍にいます。でも、もしも父上がそう判断したのならば、私はそれに従います。……そして、そうならないことを祈っています」

 カミロ王は賢明な王だ。侵略に対しては徹底して戦う。されども、グランルーザの民を守るためには正しい判断をする。

「ならば、俺の無事も祈っていてくれ」

 応える代わりに、アイリオーネは彼の唇へと口付けを落とした。

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