やまない雨
「ジェラールが死んだ」
軍議室に集められたのはグランルーザの宰相と軍師、それから竜騎士団団長だ。セシリアの姿はない。その理由もすぐにわかった。
訃報に対して喜色を浮かべる者はいない。宰相と軍師は顔を見合わせたあと黙り込んでしまったし、竜騎士団団長も形の良い唇を結んだままだ。ブレイヴの他に呼ばれたのは軍師セルジュとクライドだ。どうも異国の剣士はレオンハルトに気に入られたらしく、しかし本人は解せないと言った顔でいる。
二日前にグランルーザの姫君が帰ってきた。
レオンハルトは妹姫を抱きしめる。何も言わなくていいと、レオンハルトはそれだけ告げて、長い抱擁のあとでようやく妹姫を解放した。つづいてセシリアを迎えたのはアイリオーネだ。レオンハルトから自由になって、ぎこちなく微笑む妹姫に義理姉も余計な声をしなかった。
レオンハルトが戻って来て、妹姫セシリアもこうして帰ってきた。
グランルーザの王城では歓喜の声が止まなかったものの、しかしグランルーザとエルグランの関係が動いたわけではない。竜騎士団はいつでも出られるようにと準備を怠らないし、竜舎でも飛竜たちの世話役が忙しくしている。空の戦いでは飛竜の体調が肝となるのだから、万全の状態で送り出さなければならない。レオンハルトは要人たちとともに軍議室にほとんど籠もっている。そんな日々が七日ほどつづいたのちに、彼らが帰還した。行方知れずとなっていたレオンハルトの
亡霊でも見たかのように、レオンハルトがその大きな目を見開いたのも無理はない。命からがら逃げてきたという具合に彼らはぼろぼろだった。
グラン王国は、本来こんな時期に起こらないはずの嵐に見舞われていた。
激しい雨と雷は五日過ぎてようやく収まったかと思えば、あくる日にはまた雷雨となった。暴風もしばらくつづいて、あの空をよく無事で戻ったものだとレオンハルトは失笑する。そんな無茶などしなくとも、お前たちの息災がわかればそれでよかった。それでも、一刻も早く戻らなければならない理由が従卒たちにはあったのだ。
従卒たちはレオンハルトとの接触を避けるために地下牢ではなく、西翼に軟禁されていたという。
客人さながらの手厚いもてなしとまでいかなくとも、従卒たちの扱いは単なる
従卒たちが解放されたのは、セシリアが国境の砦を経って二日後だった。
ジェラールはちゃんと彼らの飛竜たちの世話までしてくれたらしい。一言礼を告げようと申し出たものの、ジェラールの
従卒たちは真っ直ぐにグランルーザを目指したものの、その道程は遠かった。嵐は朝晩問わずにつづいたし、雨が止んだと思えば風の強さに空の旅を断念させられた。仕方がないのでエルグランの街でしばらく留まり、そこで彼らはとある噂を耳にする。エルグランの公子が
従卒たちはグランルーザの人間だと悟られないようにしつつも、もうすこし情報を集めていく。敬虔なヴァルハルワを装って聖堂に入れば、公子の死を嘆く声がきこえた。遺体は損傷が激しくかの人だと判別するのがむずかしかったが、しかしジェラールの飛竜が彼に寄り添うようにして死んでいたという。どうにか掻き集めた彼の骸はすでに弔われたが、それで終わりというわけにはいかない。エルグランの人間は
レオンハルトの従卒たちはすべてを包み隠さずに言った。そしてすでにエルグランの軍勢が、グランルーザに向かっているのだとも。
いまから救援に向かったところで間に合わないだろう。国境の街は落ちたと考えて、エルグランの竜騎士団はもう三日と待たずにグランルーザへとたどり着く。友の死を悲しんでいる暇もないというわけだ。
「どこかできいた話だと、そう思わないか?」
最初に声を落としたのはクライドだった。異国の剣士へと皆の視線が集まる。クライドはブレイヴを見ている。
「思い出さないか? と、言ってもそれほど前じゃない。西の国でもおなじようなことが起きた」
「ウルーグとイスカ」
「そうだ。講和へと進みつつあったふたつの国、その均衡を崩したのは異端な力の持ち主だった」
「ユノ・ジュールがグランにいると?」
「言っていなかったか? あのジェラールという竜騎士は白の司祭と呼んでいたが」
どれも記憶には新しく、わざわざ記憶の隅から引っ張り出さなくとも結びつく。ラ・ガーディアの動乱には第三者が関わっていた。白の少年――ユノ・ジュールと呼ばれる
ブレイヴの隣でセルジュが無言の圧を送っている。わかっている。だとしても、軍師の訴えには否で返すつもりでいる。
「ちょっと待て、何の話をしている?」
レオンハルトが身を乗り出してきた。当然の主張だろう。ブレイヴは友人にこれまでのあらましを話したものの、肝心なところを省いていたことを認める。偽りなど通らない。ここで嘘を重ねようものならば本当に殴られそうだ。ここにいる全員が止めたところで、レオンハルトの怒りが収まるとも思えない。
「彼の……、ジェラールの死は、不慮の事故などではない。殺されたんだ、彼は」
言いながらどうしようもなく胸が苦しくなった。ジェラールとはただ一度きり会っただけの関係だ。では、彼と幼き頃から親交を深めてきたレオンハルトの胸中はそれ以上だろう。声がうまくつづかないブレイヴにセルジュが目顔で伝えてくる。いや、いい。これは自分で話さなければならない。
「ジェラールの死に関わっているのは、ユノ・ジュールという
「そいつの名を、あのときも言っていたな」
ブレイヴはうなずく。レオンハルト救出の際に、ジェラールの前でもブレイヴはおなじ名を口にした。
「ジェラールだけではない。グランルーザとエルグラン、不可侵条約の反故にしてもその
「何者だ、そいつは?」
「わからない。でも……」
ブレイヴはひと呼吸を置く。グランルーザの宰相も軍師も、竜騎士団長もブレイヴの声を待っている。
「イレスダートでもラ・ガーディアでもおなじことが起きた。目的が何かは知らない。けれど、グランルーザの敵はエルグランだけではないことだけは、たしかなのかもしれない」
皆までちゃんと最後まで話せ。レオンハルトの圧に負けてブレイヴは嘆息する。もう何度目になるだろう。こんなに遠くまで来てしまった。イレスダートはまだ、遠い。
鉛色をした雲が未だにグランの空に居座っている。
グランの空には似合わない色だ。セシリアはそうつぶやく。春の季節にこれほどに雨が長いあいだつづくのはめずらしく、しかしグランルーザにとってはこの雨は味方に見える。多少の雨ならば、エルグランの竜騎士たちも飛竜を励ましながら空を進んだだろう。雷雨が終わったと思えば強風が暴れ出す。誰もジェラールの二の舞にはなりたくないはずだ。
「そんなに身体を濡らしていては良くないわ」
髪も頬も、肩も腰も、何もかもずぶ濡れだ。自暴自棄になっているわけではなくとも、そうしてしまいたい気持ちはあった。できなかったのは体面を保ちたかっただけ、けっきょくは自分が一番大事なのだ。セシリアはあのとき、泣くことさえしなかった。
「セシリア」
名を呼ばれてようやく振り返る。傘も持たずにアイリオーネが近づいて来た。放って置いてください。言えば義理姉はそっとして置いてくれたかもしれない。でも、これでは意地を張ってばかりの子どものようだ。
「アイリ姉様、だめです。風邪をひいてしまいます」
「それは私の台詞よ。傷は完治していても、体力までは完全に戻っていないでしょう?」
アイリオーネに抱きしめられながら、その腕の強さには驚いた。ずっと心配を掛けていたのは兄だけじゃない。ベロニカとともに落ちたとき、セシリアは重傷を負っていたらしい。己の記憶にはっきりないのは意識を取り戻す前に誰かがセシリアを治したからで、その後も手厚い看病を受けた。でも、アイリオーネには見抜かれている。たしかに傷は治っていても体力まで完全に戻ったとはいえない。実際にグランルーザに戻ってくるまでに時間を要したし、身体はひどく疲れていた。
「私は、大丈夫です」
「意地張らないで。そんなところまで、レオンに似て欲しくないわ」
グランの女性はいずれも背が高く、セシリアも兄ほどとはいかなくとも長身だった。いま、セシリアの胸に顔を埋めている人はとてもちいさい。イレスダートの女性はみんなこんなにちいさいのだろうか。そう思ってしまうほどだ。
ちいさくて、うつくしくて、かわいらしいひと。兄の大事な大事な人。
兄のレオンハルトはああいう気質な人だから、ある日突然に恋人をグランに連れて、そうして妻女として紹介されても驚かなかった。士官学校の在学中に偶然に出会い、それは兄の一目惚れだったとか。あとで義理姉にきいたところ、男子禁制の修道院に乗り込んできたのが最初のようで、しかしそれさえも兄らしいとセシリアは苦笑した。
とはいえ、こんな攫うようなやり方ではイレスダートとグランルーザの関係にひびが入るのでないか。アイリオーネはイレスダートの北にあるルダの公女である。王子レオンハルトの妻女として身分は申し分ないとして、問題はそのやり方だ。ところが、セシリアが心配するような事態にはならなかった。父のカミロ王は息子の所業を叱るどころか笑い飛ばしたし、アイリオーネを歓迎した。ルダの側も二人の気持ちがおなじところにあるのならと、大きな問題にはしなかった。
心配要らないわ。ルダには妹も弟もいます。二人ともしっかりしているの。姉弟で支え合ってルダを守ってくれるわ。
たおやかな外見とは裏腹に、アイリオーネは気丈な人だった。父王が気に入らないわけがなく、セシリアもすぐにアイリオーネに好意を持った。なによりもレオンハルトとアイリオーネ、二人は本当に愛し合っていたのだ。
セシリアは壊れものを扱うときのように、そっとアイリオーネを離した。グランルーザに戻ったセシリアを、兄はなかなか解放してくれなかった。そんなに子どもじゃないつもりだったのに、二人からすれば自分はまだまだ子どもなのかもしれない。戻って来られてよかったと、セシリアは思った。
けれど、と。セシリアは心のなかにいるもうひとりに問いかける。どこかで後悔をしていた自分に気がついてしまったのだ。あのまま彼の元に留まっていれば、ジェラールはセシリアを置いて、エルグラン王のところに行かなかったかもしれない。自分がジェラールの命を奪ってしまったのではないか、と。
「私は、間違っていたのでしょうか?」
「いいえ」
やさしい義理姉なら、そう言ってくれる。それでも、アイリオーネのやさしさに甘えてしまう。
「でも、私は、失くしてしまったのです」
「いいえ、あなたは、」
「私が、ひとつを選べなかったがために。私が、正直な声を、彼に届けなかったがために」
「いいえ、ちがうわ。セシリア」
堰を切って流れ出したのは悔恨だった。醜く、浅ましい、稚拙な情など捨ててしまえばよかったのだ。その、愚かさにセシリアは笑んでいた。
「どうして、大事な人は、ひとりではなかったの……?」
ジェラールだけを選んでいたのならば、彼を失わずに済んだのかもしれない。そんなことばかりを考えてしまう自分が、憎くてたまらなくなる。
「彼が、私を愛してはくれなくても、それでも傍にいられるのなら、それでよかったのに」
選べなかったのは、声が届かなかったからではない。ジェラールを信じきれなかったからだ。アイリオーネの手がセシリアの頬へと伸びる。冷たい雨が二人を濡らしている。冷えきった手、それでも義理姉の指先はやさしくあたたかく感じた。
「あいしていたのよ。……本当の心で。あなたも、ジェラールも。だから、そんなに自分を責めないで。これは運命なんかじゃない。なにか別の、本来あるはずの流れを無理に捻じ曲げてしまうような、強い力が、あなたから彼を奪ってしまった」
帰ってこなければよかった。一度でもそう思ってしまったセシリアを、アイリオーネは責めなかった。セシリアの目にも、凛とした眼差しで彼女は言う。
「あなたが、帰って来てくれてうれしいの。レオンも、おなじよ。だから……」
やまない雨のなかでセシリアは慟哭する。アイリオーネはただ、セシリアを抱きしめていた。
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