その日、彼は闇を見た
「なぜ返した? あれは使える駒だったのだろう?」
彼は以前、チェスのような遊戯はくだらない時間だと言った。そのくせ盤の上を進ませる駒をたった小一時間で覚えるくらいに、彼は頭が良かった。それを思い出しながらジェラールは笑う。白の司祭の目には、恋人にまんまと逃げられた不甲斐ない男に映っているのだろう。
「セシリアはあれでいいんだ。だいたい、早く彼女を返してやらないと、五月蠅い兄貴がまた乗り込んでくるからね」
「痛い目に遭ってもまだ懲りていないのか」
「いいや、さすがの僕も反省した。レオンハルトの性格を忘れていたよ」
飛竜は飼い主に似る。ひと月も竜舎に閉じ込められていたリュシオンが大人しくしているはずがなかった。まったくとんだ置き土産をくれたものだ。魔道士部隊の魔法壁が間に合わなければ自分も炎に呑まれていたし、白の司祭がいなかったらひどい火傷の跡も消えなかった。
「君には本当に感謝しているんだ。ユノ・ジュール」
そして白の司祭は彼女と彼女の愛竜も治してくれた。さすがは高位の聖職者だ。セシリアはともかく、身を挺して主人を守った飛竜はひどい怪我だった。それをなかったことにしてしまうほどの魔力、グランのどこを探してもおなじ力には出会えないだろう。
「ヴァルハルワ教会とエルグランの結びつきだけじゃない。君自身に助けられている。飛竜たちの病は竜の谷の花で良くなったし、竜の鱗にも届く武器を授けてくれたのは君だ」
彼は無言でいる。もともと饒舌ではない人だ。あまりこちらが喋りすぎるとすぐに黙ってしまう。しかし実際にジェラールは彼に助けられているのも事実だ。大人しかった飛竜たちが急に暴れ出すようになった。原因は未だ不明のままだが彼は鎮静作用ある花を探せと、そう言ってくれた。竜の谷。いつだったか、彼女に教えた花がそこにあった。
まもなくはじまるだろうグランルーザとの戦争にて必要になる。白の司祭は魔道士部隊を使って武具の強化をはじめた。鋼よりも固い竜の鱗に普通の剣や矢も届かないが、ある程度の魔力を用いれば竜を傷つけられる。聖職者のくせして戦争の準備に抜かりないし、ずいぶんと竜に詳しいものだと、ジェラールは彼を
つい先刻に別れたばかりのセシリアの声が蘇る。
彼女はイレスダートの聖騎士とおなじ言葉を吐いていた。聖騎士の声を丸呑みしたわけではなかったが、しかしジェラールは
では、このユノ・ジュールという白の司祭は何者なのだろうか。
ジェラールは彼をまじまじと見る。
いっそ彼自身にきいてみようか。
「何を嗤っている?」
恋人に逃げられた間抜け男がついにおかしくなった。そう思われているのかもしれない。
「いや……、彼女には欲張りだと言われてしまったが、そのとおりだなと」
「それほど欲していながらなぜ手放した?」
「武器は持っていなかったけれど、舌を噛み切る勢いだった」
苦笑するジェラールに彼はふ、と息を吐いた。ユノ・ジュールは滅多に
夜になって風が出てきた。昼間のうちに彼女をグランルーザに帰してやって正解だった。グランの空はいつだって気まぐれだ。風を読めなければ手練れの竜騎士も落ちるときは落ちる。
「……それで? いつ動く?」
彼らしくないように見えたのは、彼がいつもよりずっと口数が多かったからだ。
彼にしてはめずらしく苛々している。まあ気持ちはわかる。ヴァルハルワ教会はずっとエルグランに、ジェラールに支援をつづけてきた。誠意には誠意で返さなければならない。ヴァルハルワ教会はマウロス大陸でもっとも力のある教会だが、イレスダートを統べる王はあのアナクレオンだ。そしてアナクレオンに恭順するのは黒騎士ヘルムート、どちらもヴァルハルワ教徒ではない事実が教会を動きにくくさせているのだ。
老齢の教皇はこのところ病がちで伏せっているため公に現れず、だから各地で大司教たちが暗躍する。ジェラールは彼らの行いを複雑な感情を抱きつつも、教会の動きを
それでもエルグランは教会の力に頼らなければならない。
「僕はきっと間違っている。情けないことに、彼女に言われて気がついた」
「何をいまさら」
冷えた声がジェラールの耳朶を打つ。同情や慰めとはちがう。たとえるなら軽蔑の感情だ。
「お前たちがいなくとも、グランはそのうち傾く。不可侵条約という呪いの言葉に縛られていたものが解放されたとき、誰かがこれまで築きあげたものを壊す。人間とはそういう生きものだ」
「まるで、君は人ではない。……そんな言い方をするね」
視線を上手く外された。彼はやはり
「だとしたら、どうする?」
ジェラールの背筋に冷たいものが流れた。
「冗談だよ。君には通じないこともわかっている」
彼が人間かそうでない存在かなんて、どうでもいい。ユノ・ジュールは協力者だ。こちらが手を離せば、彼は簡単にエルグランを見限る。
「……どこへ行く?」
背を向けて歩きだそうとしたジェラールを彼が止めた。振り返らずにジェラールは言う。
「伯父上のところに行く。グランルーザのカミロ王と伯父上は友人同士だった。そう、僕とレオンハルトのように」
いまさらなんだと、そんな声が返ってくる前にジェラールはつづける。
「迷っているのかもしれない。かつての友だ。グランルーザはエルグランを許さないだろう」
彼女は、ジェラールがグランルーザにたどり着くより先に自分を殺すと言った。反対のことが自分にできるかどうか、わからない。たとえば、それよりも前にレオンハルトを殺していたらどうか。セシリアは迷わずにジェラールを殺す。ジェラールの剣はきっとセシリアに届かない。この剣で彼女を貫くところなど想像ができない。
「籠のなかで飼われるような鳥じゃない。彼女には、ともに戦ってくれる竜がいる」
だから、ジェラールはセシリアを自由にした。だいたい、彼女を見たときからわかっていたはずだ。美しかった髪はばっさり切られていた。あれは決別の証だ。
エルグランの王城に着く頃には
「あれは失敗だな。もう使いものにはならない」
神の御子、そう呼ばれた白の司祭はエルグランから姿を消した。
その夜、ジェラールは闇を見た。
そこには幾千の星の輝きなど見えずに、漆黒と藍の色を混ぜ溶かしたような夜だった。ジェラールの愛竜は主人に忠実でどの命令にも逆らったりしなかったが、どうしてかこの日は飛ぶのを嫌がっていた。
なんとか宥めてエルグラン王の元へと急ぐ。
小夜中どころか
夜に近付くにつれて風が強くなっていた。
ジェラールの愛竜はどんな悪天候のなかでも、ジェラールを目的の場所へと連れて行ってくれた。出立時の不機嫌も、竜が気まぐれな生きものだからだ。いまは風にも臆さずに空を翔けている。グランの空をジェラールはよく知っていた。
誤算があったとすれば、彼を玩具のように扱う者がいたということだ。
ひとたび壊れてしまった子どもの玩具は使いものにならない。あるいは、チェス盤の上で相手に取られてしまった駒のように。歴史や運命をねじ曲げるほどの強い力の前では人は抗えずに呑み込まれてしまう。そう、ジェラールもその一人だったのだ。
その日、グラン王国は嵐に見舞われた。
美しい藍の空を闇の色に変えた風は、鉛色の雲を七日間に渡ってグラン王国に居座らせる。季節外れの大雨と雷に、人々は神の怒りだと騒ぎ立てた。敬虔なヴァルハルワはとにかく雷を恐れるのだ。
嵐の前に消息を絶ったジェラールを最後に見たのは彼の麾下ではなく、白の司祭だったのかもしれない。彼らが交わした会話にしても誰も知らない。すでに白の司祭は去ったあとであり、ばらばらになって壊れてしまったジェラールを治せる者なんて一人もいなかった。
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