愛していたという未来に

 暗闇のなかで声がきこえる。あのときとおなじだと、セシリアはそう思った。

 あれはたしか、はじめてエルグランに行った日だ。行きとちがって帰りは楽だったと記憶している。それなのに三日掛けてようやくグランルーザに帰り着いた途端に、セシリアは熱を出した。

 兄のレオンハルトもそうだったが、セシリアも滅多に寝込まない子どもだった。

 丈夫な身体に生んでくれた両親には感謝している。疲れが出たのだろうと、そう言って医者もそれほど大袈裟にしなかったのがありがたかった。こんなんじゃ、竜騎士になれない。大人しく毛布に包まって、一人で泣くセシリアにも母は気づいていたと思う。あなたは無理に竜騎士になんてならなくてもいいのよ。大人になればエルグランに行くのだから。そうつぶやいた母の声が、いまも耳にこびりついている。

 誰かの声がきこえる。打撲で済んだのは奇跡と言った方がいい。よく手懐けられた竜だ。身を挺して主を守ったのでしょう。骨も折れていないし、傷だって残りませんよ。兄レオンハルトを地下牢に閉じ込めたくせに、ずいぶんと手厚い看病だ。隣国の竜騎士など彼らにとっては敵だろう。そう、つぶやいたつもりでも声にはならなかった。

 意識は覚めているはずなのに身体は動かないし、瞼も開けられない。

 ならば、まだ夢のなかにいるのだろうか。本当は重傷で指先ひとつ動かせないほどの怪我をしているのに、医者や癒やしの力を持つ魔道士たちはジェラールの手前だからそう話す。痛みを感じないのも強い薬を飲まされているせいかもしれない。本の虫と呼ばれるくらいに、ジェラールはいつも書庫に籠もりきりだった。あの頃からジェラールは博識だった。兄レオンハルトが、三項も捲らないうちに飽きて外に飛び出した気持ちもわかるような気がする。子どもの時分には彼が好んだ書物はむずかしすぎたのだ。

 過去へと思考が流れるのは、やはり夢のなかにいるせいだ。

 それでもときどき夢から覚めたセシリアは、誰かの手に触れられている。熱を出していたのは本当だったようで、汗ばんだ身体を丁寧に拭いてくれる侍女や往診に訪れた医者に、セシリアはずっと世話になっていた。でも、夢うつつに感じた手のぬくもりはちがう。髪を撫ぜる手は壊れものを扱うみたいにやさしく、そしてセシリアはその手のぬくもりを知っていた。彼は幼い頃に交わした約束を、律儀に守ってくれているのだろうか。母親が冥界へと旅立ってからというもの、夜がこわいというセシリアにジェラールは言った。君がひとりのときには僕が傍にいる。けっきょく、彼がグランルーザへと来てくれたことなど一度もなかったけれど、それでもきっと思いだけは届いていたのだ。 

「あれから何日が過ぎましたか?」

 目覚めたセシリアはジェラールと相対する。彼はちょっと困ったような顔をした。

「それは君が起きてから? それとも、」

「私がベロニカとともに落ちてからです」

 食事が取れるようになってから三日、それより前ははっきり記憶にない。

「七日だ。君の飛竜はずいぶんと主人思いだ」

「……ベロニカは?」

「竜舎にいる。レオンハルトのリュシオンとちがって、大人しいものだよ。君が人質に取られたと思っているみたいだ」

 私に人質の価値はない。そう、セシリアは目顔で応える。医者も侍女たちもセシリアに余計な声をしなかったが、だからこそ確信が持てる。レオンハルトは無事で、聖騎士たちと一緒にグランルーザに帰った。これでもうグランルーザはエルグランと戦える。足枷となるものは何もない。

「君はここにいるべき人間だ」

「私に竜騎士の名を捨てろと? あなたの妻となって、祖国が滅ぼされる様を黙って見ていろと?」

 カウチに掛けるように目顔で促されても、セシリアはそれを無視した。ジェラールが苦笑する。

「君はもっと賢い人間だと思っていた。それじゃあまるでレオンハルトとおなじだ」

「兄はあなたの声をまともにきかなかった。だから地下に閉じ込めたのでしょう?」

 レオンハルトはどんな甘言を囁かれても落ちない。グランルーザを経つ前の兄はたしかに怒っていたが、しかし一方で冷静だった。だからこそ、彼との対話を求めていた。分かち合えないのは二人が敵だからじゃない。譲れないものがあるからだ。

「グランルーザに帰ります。私は、ここにいるべき人間じゃない」

「君は、そんなに僕と敵でありたいのか?」

 なんてひどい人なのだろう。セシリアは彼を睨みつける。寂寥せきりょうの溶けた微笑みは恩情のつもりなのだろうか。それは侮辱とおなじだ。

「あなたは欲張りだわ、ジェラール」

 心が、揺らぐ。彼の声に、その手のぬくもりに、それ以上を求めてしまいたくなる。でも、それはきっと叶わないのだろう。ジェラールがセシリアを愛することはない。敬虔なるヴァルハルワ教徒にとって愛は自由な感情とは異なる。ただ一人を愛するのは認められず、汎愛の情は弱き者すべてに与えるものだ。

 私はグランルーザの足枷にはならない。

 ジェラールにとってセシリアは幼い子どものままなのだろうか。グランルーザとエルグラン、二つの国のためにセシリアは彼の元に行くべき人間だった。二人のあいだに愛という言葉が生まれなかったとしても、それがセシリアに与えられた役割ならば受け入れるつもりだった。それなのに、彼がどうしてこんな顔をするのかセシリアにはわからない。

「君とは戦いたくない」

「あなたがグランルーザを落とすときには、私がこの手であなたを討ちます」

「冗談にはきこえないな。君のそういうところは嫌いじゃない」

 セシリアは微笑む。剣はまだ奪われたままでも、この手に戻りさえすればセシリアはそうする。それでもジェラールはセシリアを殺さないのかもしれない。まったくおかしな話だ。エルグランはすでにグランルーザの領域を侵している。グランルーザの民は傷ついている。ジェラールとエルグランの王が、本気でグランを統一するのなら、もっと血は流れるだろう。たぶん、もう戦争は避けられない。それでも抗うことはできる。

「グランルーザはエルグランの隷属れいぞくにはなりません。兄も、父も。グランルーザは戦う所存です」

「隷属、ね。ずいぶんと悪い言葉を使う。グランはもともとひとつの国だった」

「それは過去の話でしょう? 虐げられた民は絶対にそれを認めない。あなたも王も、ヴァルハルワ教会も間違っている」

 そもそもグランルーザとエルグランの不可侵条約は、まだ数年が生きていた。裏切りに対して欲しいのは制裁などではなく謝罪だ。それすら反故にしてエルグランはまだ暴挙をつづけるつもりなのだ。エルグランを、ジェラールをそうまでさせるような理由があるはずで、しかしレオンハルトもそこまでは引き出せなかったのかもしれない。

「なぜ、私たちを頼ってくれなかったのです?」

「頼る? おかしなことを言う。それを過去だと言ったのは君だろう?」

「敵国ではなく隣国。親から離れた子ども。どんな歴史があっても、グランルーザとエルグランは手を伸ばせば届くところにいるのです。それを」

「グランルーザが簡単に譲歩するくらいなら、最初から手を出したりはしないよ。借りを作ればそれだけエルグランの立場が弱くなる。その先は、わかるだろう?」

 セシリアは声を呑む。自分たちの世代は良くとも、次の世代に変われば情勢も傾く。その頃には不可侵条約の効力もとっくに切れているから、反対にグランルーザがエルグランを蹂躙じゅうりんしていたと、彼はそう言いたいのだ。

「未来の保証なんて誰にもできない。あなただって、わかっているでしょう?」

「そうだよ、セシリア。僕はそんな遠い明日の話などしていない。重要なのはいまだ」

「そのためにグランルーザを犠牲にする、と?」

「僕にも守るべき民と国がある。君たちとなにも変わらない」

 それはただ理想だ。声に出せなかったのは、彼の目を見ているのがつらくなったからだ。ジェラールの目には一切の迷いが感じられない。時間がないのだと、彼はそう言った。皆まで打ち明けてくれないのは、セシリアがグランルーザの人間だからだ。

 では、彼の妻となって、エルグランの人間になってしまえばいいのか。ちがう、それでは何も解決しない。セシリアの拳が震える。言葉など何の強さも持たないのだと痛感した。だから人は剣を持って争うのだ。ジェラールの思想とセシリアの理念は別のところにある。信仰は時として人を惑わせる。

「それもヴァルハルワ教会の教えなのですか? ジェラール、私には理解できない。たしかに信仰という行為は人が生きていく上で必要なものだと、そう思います。だとしても、神が尊い存在であっても絶対の存在ではないのです。神の声をきく教会も、王もおなじ。神の導きなんて鵜呑みにしないで。本当は、あなたもわかっているのでしょう?」

「君は本当に真っ直ぐな人間だ」

 さすがに怒るかと思った。敬虔な教徒にとって信仰を否定されるという行為は、己を否定されるのとおなじ意味を持つ。それでもジェラールの声音は努めて冷静であり、痛みを堪えるときみたいな顔をしている。まるで弱い者いじめをしている気分だ。己の言葉で彼を傷つけている自覚はある。

「エルグランには、僕たちには時間がない。君の言葉で僕が折れるようなら、最初から不可侵条約を反故なんてしていないよ。伯父上も、ヴァルハルワ教会も、そして白の司祭も認めている。他の道など、ない」

「グランルーザはあなたたちに屈したりしない。私たちは最後まで戦う」

「それではあの国とおなじじゃないか。南の聖王国イレスダート、それから北のルドラス。そうならないように、僕たちを導いてくれるのが白の司祭だ」

「……白の司祭?」

 ヴァルハルワ教会の関係者だろうか。甘美な言葉で、エルグランとグランルーザを破滅へと導こうとする者が、聖職者とは思えない。

「ジェラール、あなたは騙されている」

「君もどこかの聖騎士みたいなことを言うんだな」

 聖騎士。セシリアは口のなかでつぶやく。

「イレスダートを追われた憐れな聖騎士だ。祖国に戻れず西を放浪してこのグランへとたどり着いた。苦労したのだろう。彼は自分の身に降りかかった不幸を他者のせいにしている。竜族などイレスダートにはいない。竜人ドラグナーは王都マイアのレオナ殿下だけだ」

「ちがうわ、ジェラール。ブレイヴもレオナも、彼らは、」

「もういい、セシリア。僕はもう行かなくてはならない」

 祭儀の時間が近づいている。祈りのときは敬虔な教徒にとってもっとも大事な時間だ。

「グランルーザに帰るというなら好きにすればいい。……ただし、次に君と会うのは戦場だ」

 セシリアの息が止まる。自分が先にそう言った。彼の手を離したのはセシリア自身だ。

「ジェラール、私は」

「どうして髪を切ってしまったの?」

 彼の手が伸びる。少女の頃はずっと髪を伸ばしていた。栗毛の硬い髪でも、ジェラールはその髪が好きだと言ってくれた。

「私はもう、髪を伸ばすことはないわ」

 さよならの刻が近付いている。いまのセシリアの髪は男子のように短いし、いつ切ったかなんてジェラールは知らない。頬へと触れる寸前でジェラールはその手を止めた。髪を切って後悔したのははじめてだった。

  

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