魔女と騎士②

 彼女はただその先を見つめていた。

 最初に見えた白煙は黒い色に変わっている。武具や被服、糧食も建物も、そして人も、すべてを焼き尽くすまで消えない炎はたしかに意思を持つ。その目的が、殲滅せんめつではなかったとしても。

 彼女に悼む心はなかった。あれとおなじだけの炎を彼女は簡単に作れる。右手を掲げて、ただ魔力をそこへと集中させるだけの作業は、罪人を断頭台に連れて行くよりも早い。そうして、彼女は何人も殺した。西の王国の果て。彼女はそこで魔女と恐れられていた。

 唯一、彼女を傍に置いたのは老王の孫だった。

 少年王ミハイル。身罷みまかった老王、その跡継ぎとなるのはミハイルだけだった。孤独な少年王の心を彼女はよく知っている。サラザールでは叛乱軍の存在を許していたし、王宮内でも少年王の味方はほとんどいなかった。

 離宮に残っていたのは気まぐれだ。

 しかし、孤独に生きる少年王との時間はそう悪くないと、彼女は感じていた。ミハイルは彼女に母を見ていたのかもしれない。老王の愛妾として離宮にいた彼女はそれもまた一興と、そう思っていた。求められればままごとに付き合ってやるのも悪くない。ただし、ミハイルでは彼女を繋ぎ止めるのは不可能だった。

 お遊びはここまでだ。彼女を迎えに来た少年が言った。後ろ髪を引かれたのはやはりミハイルを気の毒に思ったからで、別にそれ以上の感情はなかった。

 どうして、いまになって思い出したのだろう。

 彼女――イシュタリカは、黒い煙を見ながらそう思った。この形容できない感情は苛立ちなのか、それとも不快感の方が強いのか、彼女は答えを出さずにいる。もしかしたら、ここがイレスダートだからかもしれない。思わず、彼女は笑っていた。どうだっていい。イシュタリカはイレスダートを捨てた、いやこの国がイシュタリカを捨てたのだ。

 じきに戻ってくるだろう。彼女は最後まで見届けずに去った。

 竜人ドラグナーの思考や目的は単純で、それが使命であると信じているし、己の正しさを疑わなかった。まるで人間みたいだ。彼女はそう思う。人間よりも、もっと人間らしい。その姿は滑稽でしかなかった。

 竜人ドラグナーたちはずっと縛られているのだ。

 長いながい永遠にも似ている時間のなかで、それでもゆるやかに確実に老いてゆく。竜の力が弱まり、そのうちに人間の姿も保てなくなる。だから、竜人ドラグナーは焦っている。残されている時も、もうそれほど長くはないのだろう。

 そう。竜人ドラグナーは呪いを恐れている。

 かつて人と竜とが共存していた時代に、終わりを告げたそのときから。彼らの王はなぜ竜たちに呪いを施したのだろう。罪をあがなう時間ならば十分にあったはず、ともあれ竜人たちはそのどちらかを選ぶしかなかった。竜として悠久の時を生きてやがて朽ちてゆくのか。それとも、人の形を取って人とおなじように生き、子を為して受け継いでゆくのか。ただ、その二択しかない。彼女はときどきわからなくなる。本当にふたつの選択しかなければ、はいったい何であるのだろう、と。

 イシュタリカは思考を打ち消した。

 視線を右へと投げる。茂みの向こうには遺体がふたつ転がっていて、いずれも銀の軍服を身に纏っていた。あれは氷狼騎士団の軍服だ。竜人ドラグナーたちには、人間たちの争いごとなど興味も関心も薄い。北のルドラスと南のイレスダートの戦争も、イレスダートの起きている内乱もまた、彼らは理解などしていないのだ。

 ただ単に、運が悪かっただけ。少年騎士たちは氷狼騎士団に所属していて、騎士団がこの辺りを管轄していただけの、それだけのこと。斥候せっこうを任された少年騎士たちはたまたま彼らの目に留まっただけなのだ。

 勇敢な少年騎士たちは彼らを闖入者だと認めて誰何すいかする。

 イシュタリカは若い娘であるし、老いた彼らの容貌は巡礼者の親子にも見えなくはなかった。だが、時期が悪い。ムスタールの黒騎士団と叛乱軍の交戦がはじまるその前に、近隣の民はすべて氷狼騎士団の元へと身を寄せていた。異国を行き来する旅商人ならとっくにムスタールへと着いているし、巡礼者も移動したりはしない。だから、少年騎士たちは彼らを見逃したりしなかった。

 焦慮しょうりょに駆られた少年騎士が声を荒らげる。ここで騒ぎを起こすつもりはない。ところが、イシュタリカが声を紡ぐよりも先に彼らは動いていた。呼吸をするそのあいだに、少年たちはもう騎士でも人間でもない、ただの肉の塊へと変わっていた。

「お前たちは、ユノ・ジュールの望まぬ行いをすると言うの?」

 彼らはユノ・ジュールを表の舞台へと引き摺りだしたくせに、彼を敬うわけではなかった。己が欲がためだけに彼を王にした。すべては、歴史を人の手から完全に竜のものへと取り戻すそのために。

 彼らは喉の奥から不気味な音を出す。声、というにはほど遠い獣の唸りに近かった。

 言葉は理解できなくても罵られているのはわかった。彼らはイシュタリカを異端に見る。同族でもなければ人間ともちがう女に手出しができないのは、己が魔力とよく似ていたからだ。たしかに、彼女の身体にはそのどちらもが流れている。人間の血と竜の血と、完全なる存在ではないとはいえど、流れを汲む者にはちがいない。

 それゆえに、竜人たちは彼女を監視する。イシュタリカという女神の名を謳った魔女を警戒する。自分たちこそが、見張られていることにも気づかずに。

 殺すのはじつに容易い。しかし、いまがそのときではないと知っているからこそ、イシュタリカは彼らを野放しにする。ユノ・ジュールには味方が必要だからだ。

 ようやく彼らが戻ってきた。

 髪も顔も、体格も声もにおいまで、殺された少年騎士二人とそっくりの姿をしている。うまく演じ切れたかどうかなど、彼らには関係がない。竜族は化けるのが得意な種族だ。そうやって人間の世界に入り込み、他人へと成り済まして混乱させる。あとはもう簡単だ。信頼関係が崩れた人間の社会はすぐに戦争をはじめる。彼らにそうした知恵くらいは残っているらしく、けれども竜人ドラグナーたちには叛乱軍もそうでないものの区別もついてはいなかった。

 そうだ。彼らは用心深くはない。だから、付けられていたことも知らずに、彼らを追って来た二人の騎士の姿をイシュタリカは認めた。

 はたして、罠にかかったのはどちらであったのか。魔女は妖艶な笑みを浮かべた。

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