魔女と騎士③
最初にその足跡を見つけたのはブレイヴだった。
長靴の跡はくっきりと残っているものの、それにしては不自然な歩幅だ。青年、いや成人したばかりの少年騎士たちは馬を奪わなかったという。そうして、逃げ込んだのが森の奥ならば、まだそう遠くへと行っていないはずだ。
ブレイヴは彼の背を追う。
この辺り一帯を管轄している氷狼騎士団を束ねているのがロベルトであり、土地勘にも優れている。
もとよりロベルトは集団を好まないたちだった。その彼が騎士団を任されているのだから、二人が別れてからの時間は思った以上に長かったのかもしれない。取り戻せるとは考えなかったが、彼を一人で行かせるわけにはいかなかった。ブレイヴもロベルトも、もうわかっている。追っているのが、人間ではないことを。
枝葉を払って、茂みを掻きわけて、道を外れてもっと森深くへと入って行く。追っ手から逃れるのならこんな道を選ばない。
二人のあいだに会話らしい会話はなく、ただ目的をおなじとすれば遂行するのみだ。たとえ話したとしても彼がすんなり信じるかどうか、ブレイヴは考える。いや、その時間が惜しい。何よりも、自分の目で見た方が理解が早いだろう。
竜族は人間の社会にうまく紛れている。それこそ、
少年騎士たちの背中が見えてきた。
どこまで行くつもりだろうか。街道から逸れた裏道でも使わない獣の通るようなところをひたすらに進んで来た。アストレアの森に凶暴な獣は潜んでいなくとも、それにしてもだ。やがて、ブレイヴは少年騎士二人ともう一人の姿を認めた。顔はここからではよく見えなかったものの、男の体躯とは異なる。子どもか、女か。どちらにしてもこんな場所に迷い込む巡礼者でないことはたしかで、おそらくは協力者だろう。そして、女の目がブレイヴを捉えた。
精巧な彫刻か、あるいは人形か。
見た者の心をたちまちに
白の少年――ユノ・ジュールを守ったその女は、誰であったのかを。
「ロベルト」
彼を牽制する声を喉から絞り出しても無意味な行動だったかもしれない。
二人はいま、動けずにいる。背中を伝う嫌な汗と、寒いわけでもないのに身震いがする。胃の腑に鋭い痛みを感じた次には、目眩と吐き気を覚えた。耳鳴りがする。呼吸がうまくできない。この場を何かの強い力で支配されている。魔力をその身に宿さないブレイヴにもそれがどんなに恐ろしいものかがわかる。閉じ込められているのだ。奴らはそこに空間を作り出す。
このまま放置されるだけで、そのうちに呼吸は止まる。
いや、ちがう。流れている時間はほんの数呼吸のあいだだけ、しかし身体の自由を奪われ、絶対的な死を感じる恐怖は、どんな拷問よりも苦痛だった。心臓が暴れ回る。息が苦しい。悪寒と吐き気を堪えているのは自らの精神力の強さではなく、それすらできないくらいに動きを封じられているからだ。意識を手放してしまえば楽になれる。でも、奴らはそれを許してはくれない。
身動きが取れないというのに、苦痛と思考だけが残っている。
ブレイヴは油断も慢心もしていなかった。だからブレイヴはロベルトに同行したし、他の者も連れてこなかった。幼なじみをあそこに残してきてよかったと思う。力のあるもの同士が戦えばただでは済まない。ここら一帯が灰と化し、生命は途絶える。人間も動物も、森も湖もなくなって、草木が何年も芽生えない死の世界が訪れるだろう。それでも、きっと彼女は守ろうとする。
そうだ。いまも、守られている。
ブレイヴには幼なじみから贈られたお守りがある。左耳に飾られた
獣の唸りがきこえた。少年騎士たちからだ。彼らは声を発していたが、それは人間の言葉とはほど遠く、しかし怒っているのだけは理解できた。
人間の命など簡単に摘み取れるはずの力が何かに邪魔をされている。彼らはそれが自分たちとおなじ竜の力だとは認めずに、異端と見做す。
そのうちに少年騎士たちの容貌が変わってゆく。
血走った目は青から赤へと、唇が裂けて牙が剥き出しになる。成人して間もない人間の子らの姿が、醜く老いた姿へと変貌するのをブレイヴは見た。あれが、本来の姿なのだろうか。ブレイヴはいよいよ己の死を覚悟する。視界の端にもう一人を認めるそのときまでは。
「やめなさい」
乾いた女の声がした。言葉はたしかに彼らを止めているものの、声色には同情や
「私の獲物を奪うつもりなの?」
叱責や詰問とも異なれば、これは命令だった。意味のわからない言葉でがなり立てていた奴らが急に大人しくなる。ブレイヴの身体が解放されたのは、そのときだ。
重力から解き放たれて、膝が全身を支えきれなくなった。四つん這いの状態でしばらく肩で呼吸を整えているそのあいだに、奴らの姿が消える。あとに残ったのは人間の女が一人。
「ロベルト、だめだ」
ブレイヴは制止の声をする。
「追ってはいけない。……殺される」
今度こそ、本当に。
ブレイヴはまだ呼吸に喘いでいる。
胸の痛みを堪えるようにして、しかしまだ起きあがれない。彼にも疼痛があるはずなのに、ロベルトはそれを押さえ込んでいた。いや、意地で耐えているのかもしれない。
少年騎士たちの姿をしていた異形の者たち、奴らが消えた先には遺体が見える。人間、と。かろうじて判断できたのは先ほどまで彼らのしていた容貌とまったくおなじだったからだ。金髪と碧眼と、銀の軍服。他はもう人間と認めるものが残っていないその死骸は、けれども彼が追っていた氷狼騎士団の者たちだった。
「ふふっ、賢明な判断ね」
ブレイヴは激しく目を瞬いていた。耳に届いた声は、たしかにきき覚えがあった。
動揺は正常な思考を妨げる。それでなくとも呼吸が整わないいまこのときに、己の記憶のすべてをたしかめる術もなければその余裕もない。
それに、どうだろうか。声、というものは人を形成する重要な要素であったとして、そこまで明確に覚えていられるものなのだろうか。姿や所作、あるいはにおい。長い時間が過ぎれば過ぎるほど、その人ではなくなっていくというのに。
逡巡するブレイヴを無視して、ロベルトは間合いを詰めようとする。逃してはならない。彼はそのつもりでいるようだ。
だめだ、と。ブレイヴはいま一度声にする。仲間を殺された。少年騎士たちはもう人間でも生きものでもないただの肉塊になってしまった。家族が見れば半狂乱となって叫び、それから
彼はきっと、友とおなじ道をえらぶだろう。ブレイヴもロベルトも。ただ一度も、友とは呼べなかったあの人と、おなじように。
女は右手を掲げて見せた。忠告は終わりだ。威嚇にしては本気の殺意がブレイヴを襲う。そして、唇が動いた。妖艶な赤を乗せたまさしく、魔女のそれで。
「それ以上は踏み込まない方が良い。殺すわ。あなたでも。あの子はさぞかし悲しむでしょうね。泣いて、暴れて、狂って。壊れるなら、それでもいいわ」
「……っ、あなたは!」
ブレイヴにはその名を呼ぶことができない。幼なじみの姿が見える。そうだ。だから彼女は戸惑い、驚き、苦しみ、悲しんだのだ。生きているのだと、疑わなかったその人を、自身の姉を。
しかし、こうして目の前にすれば疑うことになる。自分の目を、耳を、記憶を。そのすべてを。消えた王女。ソニア・リル・マイア。しかし、いまはもうイレスダートの王女、その人ではない。
目の前に闇が生まれた。膨大な魔力の渦に魔女が呑みこまれてゆくそのあいだに、ブレイヴはただ幼なじみを思っていた。
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