ワイト家①

 もとより短絡的な思考な人間である。

 物を見る目が備わっていないだけならばまだしも、他人の言うことなどまったく耳を貸さないような男が、ホルストという男だ。

 しかし、三十年近く生きてきてそうした気性は直しようがなく、それが余計に父子の溝を深めているらしい。そもそも厳格な性格な父親は、血の繋がった息子ならばことさら厳しくするような人間だった。はじめから対等な会話を求めるだけが無駄な時間である。

 ホルストは乱暴に扉を閉めて、それから舌打ちをした。

 扉の向こうでは父親が怒鳴り散らしている。医者から血圧のことでうるさく言われているというのに、あれではまた倒れるだろう。固陋ころうなところはホルストも父親もよく似ていたものの、ホルストはあんな頑固親父と一緒になどされたくはなかった。

 ホルストは声を無視して回廊を歩き出した。

 ランツェスの親子喧嘩は公国内でも有名だった。麾下きかや執事たちはとにかく関わりあいにならないようにと、身を隠している。それは正しい選択かもしれない。癇癪持ちのホルストは目が合っただけで、いきなり臣下を殴りつけるような男だった。寝台の上で泣いた侍女も数知れずだが、相手が公子とくれば訴えるようなところもない。公子の暴挙がつづけば民の心は離れるばかり、それでもこうした気質を持ったホルストでも慕う者がいるのは紛れもない事実だった。

 ランツェス公爵家は貴族のなかでも名門中も名門である。

 公国内は豊かな土壌に恵まれているし、鉱物もたくさん取れる。王都マイアよりも北に位置するものの、城塞都市ガレリアやルダに比べたらはるかに過ごしやすい国だ。

 それこそまだ竜がこのマウロス大陸を支配した時代に、人々は牛や馬を育てる傍らで、鉱物を売って富を増やしてきた。騎士になるにはともかく馬が必要で、それには莫大な金が掛かる。いち早く騎士という文化を作り出したのはこのランツェスだったが、イレスダートでは他にもムスタールの黒騎士団など強い騎士団がいる。ランツェスの人間の、その自尊心の高さというのは、こういうところからはじまっていたのかもしれない。

 この男、ホルストもまさしくランツェスの男子だった。

 ランツェス人には赤や茶色の髪の毛が多いのが特徴だ。主食は牛の肉だからか十分に行き渡った栄養はランツェスの男を長身にする。女は気が強いが美人が多く、貴人の家に何人もの女が出入りするのもめずらしくはない。馬を育てるのも上手く、ランツェスの貴人のほとんどが騎士の家系である。

 公爵家の始祖も裕福な家庭の生まれだと文献には残されている。

 マウロス大陸、とりわけイレスダートで暴れ回っていた竜から人々を守るために戦った騎士の名をファラスという。終戦後にファラスはランツェスという国を作り、彼の子孫たちがのちに王家から爵位を賜った。ファラスの子どもたちが受け継いだのは彼の血だけではない。ファラスがおそろしい竜と戦った際に使ったという剣が、ランツェス公爵家には伝わっているのだ。もっとも、ファラスのように扱える者がいないという理由と、その剣は人の血を好むとして恐れられたがゆえに、城の地下へと隠されているだとか。

 所詮は庶民が好みそうな言い伝えである。幼いときこそ目を輝かせて伝承をきいたものの、ホルストは忘却の彼方へと押しやってしまった。

 なぜ、それを急に思い出したのかといえば、ルドラスからの客人が零したからだ。

 公爵家の長子であるホルストは嫡子として十分認められているものの、弟の存在は無視できなかった。しかしあれは側室の子だ。ホルストは歯噛みする。いわゆる兄よりも出来の良い弟に人々は期待する。だから客人はそれとなく言ったのだ。伝承の剣さえあれば、名実ともに次期公爵として認められるのは、あなたさまでしょう、と。

 朝から父親に呼びつけられる前から、ホルストの機嫌は最悪だった。

 ひどい頭痛持ちのホルストは薬を常備しているが、このところは効きが悪くなっているのを感じる。雨のせいだと、ホルストは窓を睨みつける。初夏の訪れとともにランツェスでも雨期がはじまったばかりだった。

 自室へと戻ったホルストは、カウチに深々と身体を沈めた。

 そのまま葡萄酒ワインでも開けたいところだが、そうもいかない。今日は妻の親族の葬儀が行われる日だった。傍系の一族のためにわざわざ公子が出向くなど面倒だ。ホルストはそう吐き捨てたものの、妻は美しいその顔を豹変させて激怒した。

 ホルストの妻は敬虔なるヴァルハルワ教徒だった。

 教徒は家族やその親族をとにかく大事にするため、不幸も祝い事もとにかく様々な理由を付けて集まりたがる。隣のムスタールほどではなかったが、ランツェスでもそこそこ教徒の数は多く、公子だからこそこうした行事には参加すべきと妻は柳眉を逆立てた。

 葬儀は午後からだが行く前からもう気が重かった。

 ヴァルハルワ教徒には酒が禁じられているし、食すのも肉や魚を避けた質素な食事ばかりだ。唯一酒で許されている林檎酒シードルで、白パンと乾酪チーズを流し込む。食事中の会話は厳禁で、憂鬱な時間となるのは目に見えていた。

 ホルストは無意識のうちに爪を噛んでいた。

 苛立っているときに出てくる悪い癖で、幼い頃に何度も教育係に叱られてもけっきょくこの歳まで治らなかった。

 グラスへと手が伸びそうなところで踏み止まる。葡萄酒の一杯だろうと妻は見逃さない。神などまるで信じていないホルストに教徒の教えを長々と説き、食事や就寝前の祈りを強要する妻だ。顔が美しくなければとっくに城から追い出しているところだが、敬虔な教徒に離婚は認められていないので、とにかく傍に置くしかなかった。

 窮屈だと、ホルストはいつも思う。

 王命を勝手に反故にしてホルストは祖国ランツェスへと戻って来た。城塞都市ガレリアになど戻りたいとは思わないが、しかし父親の目が届かないあそこはまだ自由だったともいえる。無能な上官ランドルフはガレリアを左遷されたし、あとはホルストとランツェスの炎天騎士団がガレリアを任されていた。突然のルドラスの攻撃さえなければ、いまもホルストはあそこに留まっていただろうか。

 思考は扉をたたく音によって打ち切られる。

「俺はいま機嫌が悪い。……出ていけ」

 妻は息子を連れて先に城を出たので、時間までホルストはゆっくりするつもりだった。麾下や扈従こじゅうたちも、先ほどの親子のやり取りを知っているので、わざわざ訪ねてこない。空気を読まずにホルストの部屋に来るとしたら一人だけだ。

「あなたと話がしたい」

「俺はお前になど用はない。出ていけ」

 半分だけ開いた扉の向こうから、ホルストの異母弟が顔をのぞかせていた。退出を命じたのにもかかわらず、神経の図太い弟だ。そのまま身体を滑り込ませて部屋へと入ってくる。立ちあがって追い返すのも面倒で、ホルストはただディアスを睨みつけた。

「話がある。……今日こそは、きいてもらう」

 このやり取りは五回目だった。往生際の悪い弟は何度もホルストに追い返されながらも、対話を求めてくる。あれの顔を見るだけでいつも頭痛が酷くなるが、まあいい。さっさと話せ。ホルストは顎をしゃくって、そう命じた。

「王都からの要請が来ているだろう? 知らないとは言わせない」

 そのことか。ホルストは鼻で笑って返す。

「王命には従わなければならない。あなたは、なぜこれを無視する?」

 弟がホルストを兄と呼ばなくなってから久しかったが、どうでもよかった。カウチに寝そべるホルストは足を組み替える。

「お前は馬鹿か? 我がランツェスはルドラスと同盟を結んだのだ。なぜ、王都のアナクレオンなんぞに従わなければならん?」

「それはあなたが勝手に交わした密約だ。父は、ランツェスの意思とはちがう」

「どうでもいい。いまはルドラスとの関係が優先される。だからウルスラも奴らにくれてやった」

 さすがに激高するだろう。ホルストはちらと弟の顔を見た。痛みに耐えるときみたいに、ディアスは瞑目している。相変わらず馬鹿な弟だ。たかが妹の一人、駒として使っただけなのに、何をそう苦しむことがあるのか。

「ルドラスのことは、いい。いまここで、あなたとやり合ってもどうしようもないことだ」

「ほう? 妹思いの次男にしてはずいぶんな声だな」

「俺は、現実いまの話をしている。王命に背いてはならない。ランツェスは白の王宮の言葉に従わなければならない」

「ふん……。俺はあんな糞爺共の顔色を窺うなんてまっぴらだ」

「それでも、ランツェスはマイアと共にあるべきだ」

「馬鹿なことを言うな! 俺は、あんな傾き掛けた国と心中するつもりはない!」

「……っ! ふざけるな! あなた一人のせいで、ランツェスがマイアの敵となる! そんなことを、俺がさせない!」

 ここまで感情を剥き出しにした口吻こうふんをつづける弟は稀だった。馬鹿で憐れな弟だ。親子喧嘩のあとの兄弟喧嘩はいささか気が萎える。ホルストはただ嗤笑ししょうする。なにをそんなにマイアを恐れる必要があるのか。

「なぜ、あなたはそれをわからない? このままではランツェスがアストレアの二の舞になってしまうことを」

「お前こそわかっているのか? 白の王宮は兵力を欲しているんだぞ? すなわち叛逆者どもを一掃するための兵力だ。すでにルダへと向かっているらしいじゃないか。その次は……聖騎士だな。つまり、お前は自分の手で幼なじみを殺す。マイアに従うということは、そういうことだ」

 いかにも大儀そうに上体を起こしながら、ホルストは言う。くだらない友情ごっこを好む弟だ。己の吐いた声の矛盾に気づいていないのだろうか。 

「……それで、ランツェスが守れるのならば。何よりも、父上がそう決めた」

「はっ! 殊勝なことだな。そこまで言うなら勝手にしろ。俺はこの件に関わらん。だが、俺の前で小細工など通じると思うなよ? ランツェスがマイアに手を貸すのは黙認してやる。ただし、やるからには必ず逆賊どもは始末しろ。かならずだ」

 そこまで言うと、ホルストは今度こそディアスを部屋から追い出した。

 頭痛が増してきたが、いま薬を飲めば今度は胃痛に苦しんで眠るどころではなくなる。ほんの一時間だけ眠ってしまおう。瞼を閉じようとしたところで、ふたたび扉をたたく音がした。

「おやおや、ずいぶんと兄弟仲がよろしいようで」

 入出してきたのは白皙の聖職者だった。ホルストは舌打ちする。まったく次から次へと煩わしい。

「……何の用だ?」

「いえね、ルドラスの王都でようやく陛下に会えましてね。此度はご報告にと」

 ホルストはやおら身を起こす。さすがに寝たままでは分が悪い。衣擦れの音を立てながら白皙の聖職者が近付いてくる。

「陛下はさして気にしていないご様子でしたよ。マイアのためにランツェスが戦おうとも、それが騎士のあるべき姿ではありませんか?」

「……ふん」

 ホルストにしても、いちいちルドラスの顔色を窺っているわけでもない。ランツェスとルドラスの関係はあくまで対等であるべきだ。

「ですから早く、イレスダートの内乱を終わらせてしまいなさい。だいじょうぶ。ルドラスはこの機に乗じてガレリアから南下するつもりなど、ございません」

 城塞都市ガレリアはルドラスの支配下にある。白の王宮がガレリアを取り戻そうと動いていないのは、王都でいくつもの混乱があったからだ。そんなことはホルストには関係がなかった。彼はすでにマイアを、王家を見限っているのだ。

 白皙の聖職者はカウチに腰掛けると扈従を呼ぶ。香茶と焼き菓子の要求だ。ホルストは鼻白む。このエセルバートという男はいつもこうだ。

「お前はルドラスだけではなく、ムスタールやルダにも足を伸ばしているそうじゃないか?」

 香茶をたのしんでいたエセルバートがにっこりとした。だが、薄藍の瞳は油断のならない色を宿している。

「ええ、まあ。教徒たちは我が同志……、弱者には手を伸ばしてやるのが我らが使命ですからねえ」

「ワイト家は、貴様のような老獪ろうかいな者ばかりなのか」

 焼き菓子へと手を伸ばしかけたエセルバートの手が止まった。

「おやまあ、ずいぶんと古い家名を出されるものだ。存じませんよ。我らが一族は離散してしまいましたからねえ」

 己が身内であるのに他人事のように言う。食えない男だ。その薄っぺらい笑顔の仮面を剥がしてやりたくもなるが、この男を敵に回すのは上策とはいえない。

「さて。では、しばらく私は弟君の動向を見守っていましょう。片が付いたらまたルドラスへ戻ります。ご希望とあらば妹君のご様子も、見てまいりますよ?」

 一所に落ち着いていられないらしい。白皙の聖職者は香茶と焼き菓子を十分に堪能して、それからホルストの部屋を出て行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る