ワイト家②

 三回目のくしゃみが出たときに、背後からくすっと笑う声がした。

 イレスダートの北は寒さが厳しい場所だと伝えきいていたが、さすがにここまでとは思わなかった。鉛色の雲が空を支配しているために、もう十日も太陽を見ていない。

 クライドはふと故郷の砂と太陽を思い出した。

 見渡す限りの砂漠に灼熱の太陽、建物に避難しても暑さは凌げずに、汗が噴き出てくる。あの熱気には辟易したものの、いまのこの寒さと比べたら可愛い方ではないかと思ってしまう。四度目のくしゃみをしたところで、クライドは観念して振り向いた。

「風邪をひいてしまいますよ?」

 大きなお世話だと言いたいところでも、本当にそうなってしまいそうだ。

 ルダに来てから十日も過ぎたのに、いまだに雪と寒さには慣れそうもない。こんなに朝から晩まで降りつづけなくてもいいだろう。この雪をルダに降らせているのは聖堂に籠もる魔道士たちだ。ルダの冬は長いといっても、さすがに春は来ているはずで、自然の雪ならここまで降り積もらない。しかし、この雪があるからこそ、王都マイアからの大群を防いでいるのも事実、クライドはなんとも複雑な気分になる。

「あんたは、慣れているみたいだな」

 特に他意のない声だった。きょとんとするクリスに、何かおかしなことを言ってしまったかとクライドは思う。白皙の聖職者と彼の主人であるあの蒲公英色の髪をした少女、二人はフォルネの関係者だ。西の大国ラ・ガーディアで一冬を経験したクライドだが、こんな大雪は見なかった。にもかかわらず、暖炉の傍から離れられないクライドとはちがって、クリスは特に寒がっているようにも見えない。

「私の生まれは寒いところでしたので」

「ルダの他にも、イレスダートにはこんな雪の降る場所があるのか?」

「もちろんですよ。城塞都市ガレリアもルダほどではありませんが、雪はたくさん降りますし、ムスタールもそうです」

 クライドはぶるっと身体を震わせる。ルダが特殊なのだとばかりに思っていたが、イレスダートの冬はどこも寒そうだ。

「でも、そうですねえ。公子の国、アストレアまで行くとあたたかいですね。森と湖と女神アストレイアに守られたそこは、温暖な気候だと言えますし」

「へえ……」

 それにしては、アストレアの連中もそれほど寒がっているように見えなかったし、レナードとノエル、それに魔道士の少年は進んで雪かきをしているくらいだ。

「それで? あんたはイレスダートのどこの生まれなんだ?」

「えっ……?」

 それまでにこやかに応えてくれた彼の顔が固まった。

「あ、いや、別に。そんな大した意味じゃない」

 もともと自分はそれほど饒舌ではない自覚がある。何気なく落とした声だ。そこまで動揺されるとは思わなかったので、クライドはすこし慌ててしまった。

「いいんですよ。特に隠していたわけでもありませんし」

 苦笑するクリスを見て、どうにも悪いことをしてしまったような気持ちになる。会話をここで切りあげて出て行きたいところだが、さっきまた雪が強くなった。大きな暖炉が併設されている部屋はあたたかいが、しかし回廊は底冷えがするのでなるべく部屋から出たくないのが本音だ。

 白皙の聖職者は教会の帰りなのだろう。いつも祭儀に一緒に行くシャルロットの姿がないので、オリシスの少女はお茶にでも呼ばれているのもしれない。教会から戻って来たところ、寒さに震えるクライドを目撃した。つまりはそういうわけだ。

「ちょっとした、昔話をきいてくださいますか?」

 きっと、いつものクライドなら断っていた。カウチに腰掛ける白皙の聖職者を無視して部屋から出て行った。後ろめたさがクライドをこの部屋に留めている。いつまで経ってもカウチに座らずに、まだ暖炉の前で震えるクライドにクリスはくすくすと笑った。

「あなたのおっしゃるとおりです。私の出身はイレスダートです」

 やはりそうか。共通のマウロス語があるから言葉の隔たりは感じなかったが、各地域によってどうしても訛りが生じる。フォルネの王女フレイアにはなかった。しかし、このクリスという聖職者はイレスダート寄りの発音がきき取れる。おそらくはイレスダート人だ。クライドだけではなく聖騎士もそう思っていただろう。

「私のこの髪と瞳の色は珍しいと、そう思いますか?」

「いや、別に俺は」

 正直な声にクリスはにこっとする。白皙の肌、白金の長い髪、薄藍の瞳。肌の白い人間は北国に多いし、金髪なら西の人間の特徴だ。瞳の色だって別に異端に感じることもないのに、なぜそんな質問をするのだろう。

「でもね、私たちの一族はみんなおなじ色を持っているのです。だから同族を見つけるのは簡単なのですよ?」

 そこで感想を求められても困る。視線を逸らしたクライドにクリスは笑みを消さずにつづける。

「クライドさんはイレスダート人ではないから、これからワイト家の名を耳にすることはないかもしれません」

「……どういう意味だ?」

「先ほど見つけるのは簡単と、そう言いました。でも、私は彼らがどこにいるのかを知りません。ワイト家は離散したのです」

 クライドはまじろぐ。さぞかし名の通った貴人の一族だったのだろう。白皙の聖職者がそうであるように、ヴァルハルワ教会の関係者なのかもしれない。ただ、彼は離散という言葉を口にした。婉曲的に言っているが、そのワイト家というのは没落したのかもしれない。

「私がまだ少年の頃、両親は私を遠縁の親族に預けました。ワイト家とは関わりのない家です。両親は何も言い残しませんでしたが、私にはわかっていました。父も母も迎えに来てはくれない。それでも私は、不自由せずに暮らしていました。すこし違和感を覚えはじめたのは、私が十二歳を過ぎた頃でした」

 クリスは呼吸のために一度間を空ける。クライドが相槌すら返さないので、まるで大きな独り言みたいだ。

「私は他の子どもよりも成長が遅かったようです。ちゃんと食べているのに色白で痩せっぽち。声だって女の子のようでした。……いまもそれほど変わりませんけどね」

 苦笑するクリスにどう声を返していいか、クライドはわからない。彼のアルトの声は心地が良い。常日頃から教徒たちの告解をきく聖職者だ。人の声を引き出しやすいように心掛けているのだと思ったが、彼自身はそこに劣等感を抱いていたのかもしれない。

「それほどすぐに成長しない私に、旦那様は着るものも履くものもたくさん揃えてくださいました。旦那様にはご子息がいらっしゃいましたが、士官学校へと行ってしまったので寂しいのでしょう。旦那様が喜んでくれるのならと、私はどの服も言われるがままに来ていました。でも……、執事や侍女たちは私を見てくすくす笑うし、目も合わせてくれません」

 静かに物語でも謳うような声色が、どんどん沈んでいくのがわかる。

「そのうち旦那様は衣服だけではなく、装飾具や綺麗な宝石まで私に与えてくれるようになりました。私はすこしこわくなりました。そしてようやく気づいたのです。鏡に映った私は男の子ではなく、女の子のようでした」

 どこかで止めるべきだ。そう思っているのにクライドは躊躇ってしまう。これはきっと悔恨だ。白皙の聖職者の懺悔を繰り返している。

「夜に旦那様の部屋に呼ばれるようになった私は、言われるがまま服を脱ぎました。最初はそれだけだったと、そう記憶しています。でも次の日には、旦那様の手が、」

「もういい! もう……、それ以上は言うな!」

 いきなり怒鳴ったせいか、クリスはびくっと身を震わせた。

「す、すまない。別にお前を怒ったわけじゃ」

「あ、いえ……。すみません、こちらこそ。あの、でも……」

「な、なんだ?」

「大丈夫なんですよ、私は。クライドさんが想像されているようなことには、なりませんでしたから」

 クライドは二の句を告げなくなる。敬虔なるヴァルハルワ教徒は同性愛が禁じられていたはずだ。いや、これはそんな単純な話じゃない。クリスは恩があるから濁しているだけで、虐待以上に酷い目に遭った。

「あの、本当ですよ? 私、そうなる前に逃げ出しましたから」

「そ、そうなのか?」

「はい。旦那様がたくさん宝石をくださいましたからね。着の身着のままで逃げましたが、しばらくはどうにかなりましたので」

「そ、そうか……」

 心のなかを読まれてちょっとはずかしい。目が見られなくなって、それとなく視線を外す。クリスはまたくすくす笑っている。

「あの方に出会ったのは、そのあとです」

 ああ、あいつか。クライドは口のなかで言う。それにしてはすこし妙だ。少年だったクリスよりもまだ幼いうちから、フレイアはイレスダートを旅していたとでも言うのだろうか。傍付きや守り役がいたのかもしれない。詮索する目をしたものの、そこは無視された。主の過去まで明け透けに話すつもりはないようだ。

「ともかく、私はフレイア様に拾われたのです」

「拾われた……」

 まるで犬や猫みたいに言う。

「そう。ですから私は、あの方が行きたいところに着いて行くだけなのです。それがたとえイレスダートであろうとも」

 行きたくない。クライドにはそうきこえた。しかし、このクリスという白皙の聖職者は律儀な人間だ。主が望んだところ、それがあるべき場所だとそう思っている。

「行きたくなければ、そうしなければいい」

「いいえ、駄目です。それは私の我が儘ですし、あの方には関係ありません」

 それに、と。白皙の聖職者はつづける。

「たとえどんなちいさな願いであろうとも、主の声を叶えてやるのが私の役目なのです。フレイア様に見つけてもらったあの日から、きっと私はもう一度産まれたのですから」

 ざらついた掠れた声が耳の奥まで残る。神を崇めるどころかその存在すら信じていないクライドは、敬虔なヴァルハルワ教徒とはじめて関わった。それゆえに、わからなくなる。聖職者である彼は神を崇拝し、その存在を疑ったりしない。しかしこれはまるで、彼女フレイアがそうであるかのように、言う。

 フレイアはたしかにクリスの恩人なのだろう。主人と従者、それ以上の感情を持つことだってあるのかもしれない。ただそこに男女の情が見えないだけ、クリスにとってあのフォルネの王女こそ、生きるすべてなのだろう。

 ふたたびクリスへと視線を戻したとき、彼は微笑んでいた。

 だが、どこかで感じた違和は気のせいではなかったはずだ。信仰は人が生きるために必要な、心の拠りどころであると、そう思う。だとしても、そこに危うさを感じるのはクライドが敬虔な教徒ではないからか。あの娘――、フレイアは神なんかじゃない。けっして馬鹿ではないクリスだ。その目は曇っていないし、腐ってもいないはずなのに、不安になったのはどうしてだろう。

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