断章 赤い悪魔
ロジェとブラッド
イレスダートはかつて人間と竜が共存する国だった。
共存という言葉がはたして正しいのかどうか、しかしたしかにこの地域一帯では人間たちが暮らしを営み、また竜たちもおなじように生きていた歴史がある。どちらが先になどという記載は残されていなかったものの、子を増やしていくに比例して人間たちの領土が広がっていくのも事実であり、そのうちに竜の縄張りへと足を踏み入れて獣の怒りを買ったのだろう。それが、人間と竜との争いのはじまりだったのも、正しい歴史なのかもしれない。
鉱山と馬や牛を育てて栄えてきたこのランツェスでもやはり竜の力は大きく、人々は竜に怯えながら暮らしていた。いや、ただ逃げ回っていた者ばかりではない。人間には知恵があり、武器がある。弱き者を先導する者がいれば彼らに勇気が生まれる。指導者となった者の名を、ファラスと言った。
ランツェスでその名を知らぬ者がいないのも当然で、彼はこの国の始祖である。
ファラスは豪商の母と地方貴族の父の息子として生まれた。最初に剣を習ったのもただ護身用として、しかし十歳になる前には教育係を抜いていたとか。剣になどまるで興味のなかった父親も驚き、並み居る剣豪を呼び寄せてはファラスに剣を持つための時間を与えた。
彼が大人になった頃、誰に言われるまでもなく彼は竜と戦っていた。
自分の何倍の
「それが、ルザ・ファラン?」
ブラッドの声に兄はまずうなずいた。
「そうだ。人間の作る武器は弱いからすぐ壊れてしまう。ファラスの剣は神から与えられた剣だから、竜とだって戦える」
やっぱり、ロジェはすごい。五つ上の兄はブラッドが知らないことをたくさん知っている。ひとしきり感心したところで、ブラッドはううんと唸る。
「でも、竜って大きいし、強いし。人間が敵う相手じゃない。それでも戦ったの?」
「ルザ・ファランの剣は暁月の魔剣と呼ばれている。その名のとおり、ふしぎな力があったんだ。だけど、それだけじゃない。ファラスはとても勇気のある男だったし、みんなから信頼されていた」
「だから、この国の英雄?」
「そうだ。ファラスはぜんぶ終わったあとに、荒れ果てた故郷に新しく国を作った。それが、ランツェス」
自分がその英雄さながらにロジェは言う。包まっていた毛布が肩から滑り落ちてもおかまいなしだ。
風が強くなってきた。
ランツェスの冬はイレスダートの最北のルダや城塞都市ガレリアよりは暮らしやすいものの、やはり冬の寒さは厳しい。鉱山の近くでは毎年大雪が降ったりするし、兄弟の住まう城内には暖炉に絶えず灯が入っているが、それでも寒い。いまはこんなに立派な城があるけれど、国となる前は寒さに震えながら人々はどうやって冬を越してきたのだろうと、幼いブラッドは思う。この城を造ったのも城下の街を築いたのも、ファラスという一人の英雄だ。
「俺たちはファラスの子だ。だから彼に恥じない生き方を選ばなければならない」
ロジェはときどき、こうしたむずかしいことを言う。黙り込んだブラッドにロジャは兄らしい笑みをする。
「まずはファラスみたいな騎士になるんだ。騎士のはじまりは王都マイアでもアストレアでもない。ファラスみたいな人をいう」
「でも……、騎士って、馬に乗る人のことを言うんでしょ?」
ロジェの笑みがすっと消えた。しまった。ブラッドの兄はたまに人が変わったみたいにこわくなる。ああいう癇癪持ちは公爵にはなれない。従者がロジェの悪口を言っているのを、ブラッドは知っている。
「お前はなにもわかっていない。騎士は馬に乗って、戦場で戦うだけが仕事じゃない」
「よく、わからないよ」
「いいさ。別にいまはわからなくとも」
いつもこうだ。ロジェはいつだって最後にはこう言う。馬鹿にされているだとか、呆れられてしまったのだとか、そんなのはどうだっていい。たぶん、兄とはこういう生きものなのだろう。
「ロジェは騎士になるの?」
「ああ。お前もそうだ」
「ファラスのように、なれるかな?」
「なれるさ。俺たちはファラスの子だ。みんなファラスの教えを守ってる。俺たちにはランツェスに生まれた誇りがある」
ブラッドはうなずく。半分わかったようで、もう半分は頭に入っていない。
「心配するな、ブラッド。お前はファラスによく似ている。その髪の色、赤銅色はファラスとおなじだ」
「しゃくどう、色って?」
「空の色だ。日が沈むときの、わかるか?」
今度はちゃんとわかる。夜が来る前の、空一面が焼けるようなあの色は嫌いじゃない。
でも、ロジェは。ブラッドは言いかけてとっさに唇を閉じた。兄弟の髪の毛の色がちがうのも、顔が似ていないのも、二人の母親が一緒ではないからだ。ブラッドは誰かが話していたのをきいた。口に出してしまうのは悪いことかもしれないと、ブラッドはそう思い込んでいる。だから絶対に兄の前では声にしてはならない。
急に静かになったブラッドの頭をロジェはくしゃくしゃにする。
「まずは剣の稽古からだな。俺に勝てるようになったら、」
「むりだよ。ロジェには勝てっこない」
教育係の教えを素直に守っていても、兄の前でブラッドは尻餅をついてばかりだった。兄上はあなたよりも五つも上ですからねと、周りはなぐさめてくれる。でも、そんなのはやさしさなんかじゃない。ブラッドはいつだってロジェに追いつきたかったし、置いて行かれるのが嫌だった。
「心配するな。俺が先に騎士になってみんなを、この国を守る。お前のこともちゃんと守ってやるし、それに……」
ロジェは窓を見つめる。外は相変わらず強い風で、朝からはずっと雪が降っている。あと、どれくらいかかるのだろう。扉をたたく音はまだきこえない。
回廊の一番の部屋にブラッドの母親は篭もっている。
これから弟か妹ができるのだときいたとき、ブラッドは目をぱちくりさせた。生まれたのが弟なら、ランツェスの子は三人とも騎士になるだろう。妹だったら? ブラッドの問いに、ロジェはそのときに考えると言って、すこし笑った。
円卓には子どもの好みそうな焼き菓子が並べられて、香茶も用意されている。
取り皿とカップもそれぞれ三つずつ、中央にはディアスが庭師から預かったクレマチスの花が飾られていて、しかしこの日の主役であるはずの少女は毛布に包まったまま出てこない。
おろおろする侍女たちをさがらせて、ディアスは先に席に着く。寝台からはずっと泣き声がきこえてくる。ディアスはため息を吐きそうになった。
しんしんと降りつづける雪は止みそうにもなかった。あの日とおなじだ。ディアスは口のなかでそうつぶやく。
妹が生まれたのは五年前、ランツェスの兄弟は二人とも毛布に包まってこの国の英雄ファラスについて語った。ディアスはもうずっと兄をロジェとは呼ばずに、ロジェも弟をブラッドとは呼ばなくなっていた。兄弟は五つ歳が離れているから、先に兄が大人になるのは当然だ。けれども兄弟に見えない距離ができてしまったのは、そのせいではないだろう。
ディアスはときどき、この赤銅の色をした髪を疎ましく思う。
ファラスの再来だ! 最初にそう叫んだ者の顔を思い切り殴ってやればよかったのだ。剣の稽古もあんなに真剣にやらなければよかったし、勉強だって途中で逃げ出せばよかったのだ。栓なきことを考えてしまう自分に嫌悪する。はじめは兄に褒められたかった。それだけだったと思う。けれども周りは勝手にディアスに期待して、兄弟を比べる言葉ばかりを吐いてくる。
弟君はずいぶんと物覚えが早くて賢い。いやいや、これは天性の才能だ。ランツェス、いやイレスダート一の騎士になるだろう。それにあの容貌……なんと美しきこと。まさしくランツェスの
ああ、うるさい。耳を塞げど、どこかしらで兄弟の話を誰かがしている。
まだ子どもの時分でも不快に感じていたのならば、五つ上の兄はどれほど苦痛だっただろう。
肩で大きく息を吐いて、ディアスは思考を無理やりに追い出す。寝台に目を向けてみれば、妹はまだ泣いていた。
「いつまでもそんなところにいないで、お前もこっちに来い」
兄のような物言いになったのは、苛々していたからだ。あの人のようにはならない。そう思っていたはずなのに、悪いところはしっかり似てしまったらしい。
「だって、にいさまが」
嗚咽まじりに落とされた声には非難が混じっている。
「俺は、ここにいる」
すると、毛布の隙間から妹が顔を覗かせた。目は真っ赤に腫れていて、まだぐずぐずと泣いている。
「だって、ホルストにいさまは、きてくれないんだもの」
涙声でそんなことを訴えられてもどうにもならない。侍女を部屋から追い出すときに、カップと皿もひとつずつさげさせればよかったと、ディアスはそう思った。
「仕方ないだろう。あの人は、忙しいんだ」
「だって……、でも……」
去年までは来てくれたのに。妹は皆まで言わなかった。
ホルストはまもなく成人する。幼い妹などには構っている時間などないのだ。ましてや、母親のちがう側室の子などに。
でも、と。ディアスは口のなかで零す。
あの冬の寒い日に妹ウルスラは生まれた。今日みたいに雪がたくさん降っていた。
「ほんと、よく泣く。……レオナみたいだ」
ディアスはため息を吐きながら立ちあがり、そうして寝台の妹の隣に座ると毛布を剥ぎ取った。きゃあ! とちいさな悲鳴を無視して、妹の頭を撫でてやる。栗毛の色はウルスラもホルストもおなじだった。
「レオナって?」
「ああ、マイアの姫さまだ」
そう言うと、妹はきょとんとする。
「おひめさまもなくの?」
「泣き虫だよ。わがままだし、すぐ怒るし、よく笑う」
すると妹もくすくす笑いはじめた。
「へんなの。おひめさまなのに、なくのね。それになんだか、おもしろいひと」
「会えばわかる。たぶん、仲良くなれる」
「ほんとうに?」
ディアスは年に二度、王都マイアの白の王宮に行く。
離れの別塔には王家の末姫が隠れ住んでいる。遊び相手になるようにと言われたとき、ディアスはちょっと戸惑った。妹よりは年上でも自分よりもちいさい女の子には変わりない。
姉のソニア王女の前で駄々を捏ねたのを見ていたのだろう。レオナはディアスの声を無視してお気に入りのぬいぐるみを抱きしめたまま、一度だってこっちを見なかった。
その次の日にもう一人の幼なじみであるアストレアの公子がやってきた。レオナがブレイヴにはあっさり心を開いたものだから、ちょっと面白くなかった。それが二年前、王家の末姫はいまでもよく泣く。そういうところは妹とよく似ている。
「さあ、食べよう。香茶が冷めてしまう」
「うん……。わかったわ」
ウルスラのお腹がぐうと鳴った。意地を張っていたのだろう。笑うと今度は怒るのできこえなかったふりをする。
「食べ終わったら、もう泣くなよ」
ウルスラはビスケットを齧りながらうなずく。雪の季節が終わって春が来たら、ディアスはまた王都に行く。今度は妹に何かお土産を買ってきてあげよう。妹の口元を拭ってやりながら、そう思った。
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