女神の加護とともに③

 軍師の声に従って、ブレイヴは正面から堂々とアストレア城に赴いた。

 城内は固く閉ざされていて、開門を命じる声が高々と響いてもそれは変わらず、気色けしきばむ味方の騎士らをブレイヴは片手をあげて静めた。憤りを覚える必要もない。これは、想定内だ。

 従えた戦力はエーベル家の騎士たちとそれに連なる者たち、他は城下街の守りに当たらせている。城内に敵がどれほど残っているか正確な数は知れず、こちらの戦力としても十分な数と言えるかどうかわからない。

 それでも、ブレイヴを待っていてくれた者たちは歓喜し、あるいは滂沱ぼうだの涙を流した。彼らの想いに応えなければならない。それほど緊張を覚えていないと、ブレイヴはそう思っていた。それなのに軍師の声をまた無視してしまった。気負っていたのだと、認めるべきなのだろう。

 ガレリア遠征より帰還したときを、ブレイヴは思い出す。

 公子の帰りを心待ちにしていた民の声はあたたかく、その表情もやさしかった。けれどもいま、城下街から城門へとつづく坂道を行くあいだに人の姿はなかった。男たちはすでに戦いに参じているのだろう。女子どもは家に籠もっているのだろう。この胸に込みあげてくる感情が何かを、ブレイヴはわからずにいる。

「皆を信じていないのですか?」

 魔道士の少年の声にブレイヴは振り返る。声はやさしかったが、アステアの表情は厳しかった。

「何かを怖がっているように、僕にはそう見えます」

 咳払いがした。これはセルジュだ。兄弟は似ていないようで存外そうでもないのかもしれない。もっとも、弟の方が遠慮のない物言いをする。

 ブレイヴは微笑した。アストレアを離れてから一年、戻って来るのが遅すぎた。

 他のイレスダートの公国、及び王都マイアからは叛逆者の烙印らくいんを押されてしまった。なにが、聖騎士だ。そう罵られる覚悟でいたものの、いざとなると物怖じする。

 しっかりしなさい。セルジュには叱られて、エレノアには呆れられる。ジークならどんな顔でいるだろう。ブレイヴはいまここにいない騎士のことを考える。それこそ、現実逃避だ。きっと騎士には笑われてしまう。

 マイアの残党と蒼天騎士団が戦った跡がある。

 ブレイヴは軍師に目顔で命じる。負傷した者は敵味方を問わずに救援に当たる。後方部隊がそのうちに到着するから、もうすこしの辛抱だ。ブレイヴは彼らに声を残して先を急ぐ。

 執務室はもぬけの殻だった。ここで争った様子も見えずに、あの男はとっくに逃げ出しているのだろう。しかし、そこから東の塔へと行くまでには距離がある。蒼天騎士団はブレイヴを待たずに動き出したのか、いやそうではない。彼らは騎士団長トリスタンの声を待っている。トリスタンはエレノアの声なくして動かない。では、やはり――。

 公子と呼ぶ声がする。今度はセルジュだ。

「すこし落ち着かれてはいかがですか? はじめからわかっていたことです」

 セルジュは策を講じる必要はないと言ったが、皆は軍師の声をちゃんと理解している。追い詰められた男の行動はひとつ、それが最悪なのだ。だとしても、冷静になれと言う方がおかしい。自分の母親を盾に取られたら誰だって取り乱す。

「エレノア様には騎士団長がいます。トリスタンはエレノア様の騎士です」

 知っている。トリスタンは身を挺してエレノアを守ろうとする。

「ちがう。それでは困るんだ」

 誰一人として失わずにアストレアを取り戻すなんて不可能だ。そんなことはわかっているし、すでに失っている。ブレイヴが無力だったからそうなった。騎士はもう戻ってこない。ジークが生きているのなら、騎士はいまブレイヴの傍にいる。アストレアのカラスはここにはいない。それが、現実だ。

「皆はまだ戦っています。諦めないでください」

 叱咤のようでもあり、励ましのようにもきこえた。

「そうだな。母上が、負けるはずがない」

 あの人の子だからわかる。たとえ生死の鍵を握られようとも、凜とした表情のままそこに立つ。トリスタンが短気を起こすのだって許さない。エレノアはそういう人だ。

「急ぎましょう」

 魔道士の少年が促した。年下なのに一番落ち着いている。あとできっと説教をされてしまうな。ブレイヴは口のなかでつぶやく。ガレリアから戻ったとき、エレノアはブレイヴに厳しい声をした。あのときは口答えをしたけれど、本当は何もわかってなんてなかった。

 そういえば、オリシスのアルウェンもおなじ声をしたような気がする。ジークも、異国の剣士クライドも、似たような言葉をブレイヴに残してくれた。

 いまさら遅いだろうか。それでも、ブレイヴはイレスダートに戻ってきて、アストレアにも帰ってきた。

 回廊の端で少年騎士らがうずくまっている。

 少年騎士は公子の姿を認めると目をみはって、それから何かを言おうとしたがブレイヴはただ首を横に振った。詫びる必要なんてない。謝罪するべきなのは自分だ。

 遅くなってすまない。ブレイヴの声に少年騎士らは涙を流した。もうすこし先へ進めばここでも負傷者が動けずにいた。蒼天騎士団の者たちもマイアの騎士も、互いにもう剣を持つことができずにいる。

「公子……! この先は我々に任せてください。宝物庫も、書物庫も……、皆があとを追っていますので、」

「わかっている。もう、大丈夫だ」

 皆まできかなくてもいい。蒼天騎士団は侵略者たちを許さずに、けっして逃さない。他に騎士以外の者たちの姿が見えないのも、彼らが皆を守っているからだ。傷つき倒れた騎士の肩に手を置くと、安心したのだろう。騎士はほっと息を吐いてその目を閉じた。

 間に合ったのだろうか。ブレイヴはずっと自分に問いかけている。

「兄上の見込んだとおりですね。皆は公子の帰還を知っていた」

 羨望せんぼうの目で魔道士の少年は軍師を見る。

 ブレイヴがアストレアに帰ってきた。となると、ここに残ったマイアの残党の選択肢はふたつ。戦うか、逃げるか。後者だとわかっているからこそ、蒼天騎士団は自分たちの役割を確実に果たす。

 回廊を奥へと進みつづけるブレイヴを待っている者がいた。

 老騎士が二人、ずいぶん前に第一線から退いて若者たちにその道を譲った者たちだ。先々代の公爵、つまりブレイヴの祖父の代からアストレア公爵家に仕えてくれている。隠居しつつもずっとエレノアを支えてくれた二人は、姉弟だった。

 にこにことしているのが弟、背筋がしっかり伸びているのが姉。 

 ブレイヴは老姉弟の前で腰を屈めた。姉弟はにっこりとし、孫に見せるような顔を向けた。

「トリスタンは、どこに?」

 つもる話もあるが、いまはそのときではない。

「東の塔より北に、庭園を越えたさらにその先、白樺しらかばの森に」

「わかった。母上は必ず、助ける」

「公子に女神アストレイアの加護があらんことを」

 姉が言い、弟がブレイヴへと道を空ける。森には管理者を除いて公爵家の者しか入れない。そして、あの場所は。

「知っているのでしょうか? ランドルフは」

「わからない」

 セルジュが表情を固くする。あそこは霊園だ。少なくとも騎士団長トリスタンはその意味を知っている。あえて追い詰めたのか、それとも。

「国外に逃亡するつもりなら、あの場所は選びません。ですが、逃げられないとわかっているのなら話は別です」

 ブレイヴは自分の呼吸が浅くなっているのを感じた。

 最悪の事態が迫っている。エレノアがこのまま黙って言うとおりにしているとは思えない。あの人は、自分の手で死を選ぶような人だ。あそこにはブレイヴの父が眠っている。会ったことのない兄が眠っている。

 こうなるのをわかっていたのではないか。

 ブレイヴは自分の思考がおそろしくなる。ランドルフは王の下命かめいに従わなかった。それが、すべて。

 ブレイヴはセルジュとアステアだけを連れて、落葉樹の森に入った。

 白樺の木が広がっている。ここでも血痕は見つからず、安堵する自分に失笑しそうになった。訪れたのは二度目だ。最初は聖騎士だった父親が敵国にて命を落とし亡骸がアストレアに帰ってきたその日、次は己が聖騎士の称号を下賜かしされたあとだ。

 ブレイヴはいま自分がどういう表情をしているのだろうと、そう思った。

 腹の底から沸いた怒りを抑えきれずにいる。男の目に描かれていた感情が絶望と恐怖だったとしても、ブレイヴには関係がない。その男を前にして自分の感情が抑えられない。

「く、来るな……」

「母を離せ」

 石碑が連なるこの場所はアストレア公爵家の墓地だ。

 白の王宮、その地下深くの霊廟のように神聖なる場所とは言わない。けれども、ここにはブレイヴの大切な人たちが眠っていて、この男はその足で踏み荒らしている。どうして怒りを静められようか。

「母から手を離せ」

 もう一度、言う。その汚い手で母に触れていることが我慢がならなかった。

 エーベル兄弟の声がする。ちゃんと二人の声はブレイヴに届いている。ランドルフの腕のなかにブレイヴの母親がいた。エレノアの顔はひどく疲れていて、一年前よりもずっと頬も痩せていた。

 口内で血の味がする。右手が震える。理性も何もかなぐり捨てて、あの男を聖なる剣で貫けたなら、ぜんぶブレイヴの元に返ってくる。そんな気がした。

「あなたを、殺すことはしない。だが、王都マイアに……、アナクレオン陛下に引き渡す」

「な、何を……」

 エレノアを連れて後退るランドルフに、ブレイヴはすこしずつ近づく。セルジュの声がきこえる。これ以上の刺激を与えれば危険なのはエレノアだ。逃げる、追い詰める。エレノアの傍にずっと居つづけたトリスタンでさえも、手が出せずにいる。

 他にエレノア付きの侍女たちも、城内に残してきたのだろう。あとは、ランドルフの傍にもう一人。ブレイヴはトリスタンを見て、ランドルフの麾下の騎士を見た。

 見た、というのが正確かどうかわからない。黒髪の騎士は仮面を付けているので視線がどこにあるのかも、表情も見えなかった。

「もう、よろしいではありませんか?」

 仮面の騎士が言った。ブレイヴは息を殺す。仮面の騎士が主に向けて憐憫れんびんの声をつづける。

「ここまでですよ、ランドルフ卿。演者は揃った。これ以上、どこへ行くというのです?」

 子どもを慰めるような声音だった。それでも、ランドルフは応じない。声を忘れてしまったのか、ただ震えながらそこから逃げようとする。同情の余地はない。ブレイヴは失笑しそうになる。ところが、笑っていたのはブレイヴではなくエレノアだった。

「まあ、みっともないことですこと」

 ランドルフの足が、止まった。

「エレノア、殿?」

「これほど分別のない方だなんて思いませんでしたわ。卿に一時でもアストレアを預けたこのわたくしも、罪人でしょうね」

 ランドルフの目が充血している。もしかしたら、アストレアでランドルフの味方はこの仮面の騎士ではなく、エレノアだけだったのかもしれない。それがいまあっさりと捨てられた。裏切られた。煌めく刃がその証だった。

「エレノア様!」

 トリスタンが叫んだ。まさか女の細腕で攻撃されるとは思ってもいなかったのだろう。ブレイヴだっておなじだ。エレノアが突き刺した短剣が地面に転がる。いきなり腕を刺されたランドルフは気が動転したのか、その場に尻餅を付いた。

 トリスタンがランドルフからエレノアを引き離す。ランドルフが持っていた剣はセルジュが回収した。これでもう人質はいなくなった。これでランドルフには武器もなくなった。この憐れな男に味方する者も、いなくなった。

 ブレイヴはかつての上官を見た。

 男の腕から滴り落ちる血が地面を染めているのを見て、どうしようもない悲しみを感じた。ここを血で穢したくはなかった。エレノアだってそうだ。こうなることを望んでなどいなかった。

 本当にそうだろうか。いま一度、ブレイヴは自身に問いかける。

「公子……!」

 軍師の声がどちらを意味しているのか、ブレイヴにはわからなくなった。

 もう、いいではないか。母は無事だった。トリスタンが保護しているのなら安全だ。こんな男は殺す価値もない。ガレリアの所業は忘れてしまえばいい。王女レオナへの待遇も彼女はきっと気にしてなんかないし、アストレアの民は耐えてくれた。だからもう、ブレイヴはこの男を憎まなくてもいいのだ。あとは白の王宮が、王が裁いてくれる。

「た、たすけてくれ」

 この声を、きくまでは。

「殺さないで、くれ……」

 ブレイヴは歯噛みする。ガレリアにいた白皙の少年の姿が見えた。この男にはひどい折檻を受けた。子どもの痩せ細った身体には、殴打の痕が複数に残されていた。子どもはきっと許しを乞う声を繰り返しただろう。

 勝手なことを。怒りで頭がおかしくなりそうになる。この男がいなければ、ジークはいまもブレイヴの傍にいた。

「む、娘がいる。わ、私には他に家族はいない。たった一人きりの、娘なんだ」

 こんなつまらない嘘に騙されるくらいに、頭の悪い人間だと思われているらしい。カーナ・ラージャはこの男を斬ることを許してくれるだろうか。そして、幼なじみは――。

 その静寂のあいだはたった数秒に過ぎなかったものの、ブレイヴにとっては数時間の長いときのように感じられた。ブレイヴは聖なる剣を鞘へと戻す。けっきょく、この男を斬ることはできなかった。

 たぶん、それが間違いだったのだろう。

 男は急に笑い出した。狂人のごとく大きな声を出したかと思えば、その血走った目でブレイヴを睨みつける。その手には隠し持っていたのか短剣が握られていた。

「死ぬのは、貴様の方だ……!」

 騙されたのはブレイヴだ。

 叫声と同時に血飛沫が舞った。ブレイヴは瞬き、それが信じられないという顔をする。ランドルフの短剣はブレイヴには届かなかった。それより前に、ランドルフの胸は刃に貫かれていた。

「な、なぜ……?」

 当然の問いだ。仮面の騎士はランドルフの麾下である。だが、仮面の騎士ははじめに笑みで答える。喀血かっけつする男の胸を貫いたその剣には、一切の迷いがなかった。

「こうなることは、最初から決まっていた」

 なぜ、すぐに気がつかなかったのだろう。

 ブレイヴは声の主を見つめる。騎士は自らの仮面を取り外し、役目を終えた仮面は砕け散った。そして――。

「貴様は私の主を愚弄した。死を持って贖え」

 アストレアの鴉がブレイヴの前にいた。

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