女神の加護とともに①
焦げくさいにおいがする。けれども黒煙はここからでは見えずに、城内の様子も知ることは叶わない。
女たちは家に閉じ籠もっている。子どもたちは母親の腕のなかで震えているのだろうか。残っているのは女と子どもばかりで、まだ成人にも満たない少年たちも母親が止めるのを無視して行ってしまった。
若者たちに負けてはいられないと、老爺も
娘たちは寝台を整えて、消毒液や包帯の準備をする。皆は怪我をして帰って来るはずだから、彼女たちが本当に忙しくなるのは夜になってからだ。
ぼろぼろになって戻ってきた恋人を前に泣く娘はほとんどいない。傷が痛いだなんて騒いだところで男たちは包帯でぐるぐる巻きにされるだけ、アストレアの女たちは皆こうやって生きてきた。
戦いがはじまっているのなら、すでに城内は混乱しているだろう。自分には何ができるのかを、レオナはずっと考えてきた。
「大丈夫だよ」
女たちが声をそろえて言う。公子がこの国に帰ってきてくれたんだ。絶対に負けることなんてないし、みんなちゃんと戻ってくる。
信じているからだ。そう、レオナはつぶやく。アストレアには女神がいる。アストレイアは正しき者を導くけれど、悪しき者は決して助けない。
「だいじょうぶだよ」
そう言った少女の顔をレオナは見る。
仕事の邪魔にならないようにと、綺麗に纏めた金髪は少女が毎日自分で結っている。しっかりと捲りあげた袖に、指先はあかぎれでぼろぼろだ。
ぜんぶ終わったらルテキアが良い香りのする保湿剤を塗ってくれる。少女はすこしくすぐったそうにして、けれどまたすぐに手は荒れてしまう。きっと、あの手は少女の誇りなのだろう。
「いままでだって、ずっとそうだったでしょう?」
背が伸びて、微笑むその表情も以前よりもずっと大人みたいに見える。義理母のテレーゼにもちゃんと目を合わせなかった少女が嘘みたいだ。
ほんとうは、オリシスに戻ることだってできたのに。
王都マイアで迎えに来てくれたオリシスの騎士たちに向かって、少女ははっきりと言った。私はまだ戻れません。やるべきことが残っているから。拒む理由をあれこれ問われてもそれきり、ついぞ少女が首を縦に振ることはなかった。
あれはきっと、あなたを真似ているんですよ。白皙の聖職者が言った。そうだろうか。レオナはちょっと首を傾げる。わたしは、こんなに頑固じゃないと、自分ではそう思うのだけれど。オリシスに帰りなさいだなんて言えば、じゃあどうしてレオナはアストレアに行くの? と返されてしまう。いまのシャルロットにはそのくらいのしたたかさは持っているし、度胸だってある。
「私は、すこし疑っていました」
傍付きの声にレオナはきょとんとした。どういう意味だろう。レオナはちょっと考えてみる。まっすぐに見つめられて気まずさを感じたのか、ルテキアが先に目を逸らした。
「いえ……、案じているのは私もおなじですが」
「ルテキアが心配なのはレナードでしょう?」
隣でシャルロットがくすくす笑っている。
レナードやノエルよりも三つ年上のルテキアは先に騎士になった。彼女からすれば、遅れて蒼天騎士団に入ったレナードは、やっぱりどこか未熟な少年のままなのかもしれない。
それに、騎士と一緒にいるのはデューイだ。そういえばルテキアは最初からデューイを警戒していた。いまも心を許せていないのなら、二人の身を案じるとともに神経をすり減らしているのは当然だ。
「城内に行きたいと、そうおっしゃると思っていました」
レオナは目を瞬かせる。そういうこと、ね。ずっと一緒にいるからこそ、ルテキアはレオナの性格をよく知っている。
「そこまで向こう見ずだと思うの?」
目は逸らされたままだから、答えはきっとはいだ。
「行かないよ、レオナは。だって、行ってしまったら、私たちもいっしょに来てしまうから」
レオナが笑って、ルテキアが咳払いする。
「そういう、こと。シャルロットの方が大人ね」
きっと、一番年下の少女がこのなかで一番大人だ。アストレアに戻ってきてからというもの、最近の傍付きはすこし変だ。
「大変失礼いたしました」
「いいの、そういうの。わたしだって、ちゃんとわかっているの」
城内の状況が不明だからこそ、下手に動くことなんてできない。女たちは男たちの帰りを信じて忙しく働いている。レオナはここで皆を守る義務があることだって、ちゃんとわかっている。
「信じて、待ちましょう。ダミアンのことも」
レオナをここまで連れてきてくれたダミアンは、急にどこかに行ってしまった。同行させた侍従や騎士の数はそれほど多くなかったものの、ダミアンがあれこれと裏で手を回していたのをレオナは知っている。
「そう、ですね……」
曖昧な声を返すルテキアには何か思うところでもあるようだ。元婚約者の関係というのがあるのかもしれない。あれきりルテキアはダミアンに関わりたくないようにも見える。
「さあ、そろそろ戻りましょうか」
洗濯が終わったのならいつまでも外にいるわけにもいかない。仕事はまだまだたくさんで、なによりもここにいると他の娘たちが不安がってしまう。手伝います。ルテキアが手を差し出してくれたときだった。
敷地内にはレオナたちしかいなかった。だから急に誰かが飛び出してくるとは思わずに、そしてそれが見知った顔ならばなおのこと、レオナは抱えようとした水桶をひっくり返してしまった。
「うわっ、いきなりなんだ!」
まともに水を被った彼はそこで尻餅をついた。驚きのあまりとっさに声を紡げなかったレオナの前に傍付きが立つ。
「お前……っ!」
「ん? なんだ、ルテキアか。ちょうどよかった」
「よかった、だと? なんでお前がここにいる?」
「なんでって、ここがアストレアだからだよ」
「ふざけているのか?」
「ま、待ってルテキア。デューイも」
いまにも剣を抜く勢いの傍付きと、どこか話の噛み合っていないデューイと、レオナは二人のあいだに割り込む。
「あなた、ひとりなの? レナードはどこに?」
「いやあ、あいつは……」
それまで軽い口調だったデューイが急に神妙な顔つきになった。まさか、とレオナが唇が動く。彼は慌てて首を振った。
「ちがうちがう、そうじゃない! でも、ここで説明してる場合じゃないんだよ。俺はとにかく、知らせにきたんだ!」
「知らせって、」
「エレノアって人が、公子の母親だろ? その人が危ないって、」
「エレノア様が……っ!」
デューイの胸倉を掴もうとするルテキアを、レオナとシャルロットの二人がかりで止める。ルテキアはレオナの傍付きになる前はエレノア付きの騎士だった。感情を抑えられないのも無理はない。
「待って、ルテキア」
それにレナードの安否も不明なままだ。
二人で呼びかければ幾分かは冷静さを取り戻したようで、やっとルテキアはデューイから離れた。不安そうに見つめるシャルロットにレオナはうなずく。だいじょうぶ。そう、繰り返す。
「信じて、待つの。だいじょうぶ。あの方はブレイヴのおかあさま……。いいえ、アストレアの母ですもの」
強くなりなさい。その人は言った。自分が強くなれたかなんてわからない。それでも、きっとエレノアはレオナに微笑んでくれる。自分の娘のように抱きしめてくれる。
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