聖者の行進③

 強い日差しが頬を焼く。十日ほど前までは雨つづきだったというのに、イレスダートの夏はいつもこうだ。

 草木は太陽の恵みを受けてぐんぐん伸びてゆくけれど、人間や他の動物たちはそうもいかない。気温の変化に身体がついていかなくなるし、なによりもう五時間も休みなく進んでいれば疲労を感じるのも当然だろう。

 ふう、と魔道士の少年は息を吐く。隣から可憐な声がきこえたのは、そのときだった。

「アステア、だいじょうぶ?」

 心配そうに顔をのぞきこむ彼女に、アステアは笑む。

「はい。僕は、大丈夫です」

 作った笑顔になっていなかっただろうか。アステアは反省をする。まだ成人を迎えていないとはいってもアステアは男だ。それが箱庭で育った姫君に、不安そうな目をさせてしまうなんて、まったくもって情けない。

「ちょっと、もっとしゃんと背中を伸ばしなさいよね!」

 ほら、やっぱり叱られてしまった。

 アステアはちゃんと言うとおりにする。イレスダート北部に位置するルダは夏も過ごしやすいときくが、公女は涼しい顔をしているし、疲れてもいないようだ。

 アステアは額から流れる汗を袖で拭う。魔道士たちの黒の長衣ローブは見るからに暑苦しいものの、特殊な糸を使って編まれているために季節を問わずに着用できる。もっともそれには本人の魔力の調節が必要になるわけで、これはアステアに心身ともに余裕のない証拠だった。

 うう、やっぱり情けない。アステアは口のなかで零す。深窓の令嬢だなんて、一緒に旅を共にしてきた仲間に対しても失礼だ。

 たしかに体力には自信がなかったけれど。言い訳なんてちゃんと反省をしてからだ。

 魔法の訓練はレオナとずっとつづけて、それから剣の稽古はレナードに見てもらっている。彼が消えてしまってからも型を忘れてしまわないようにと日課にしているうちに、ちょっとは体力もついたはずだと、自分ではそう思っていた。

 みんなに置いていかれないようにするには、どうしたらいいのだろう。

 アステアは努力しか知らない。ここで天才型のルダの公女に教えを請うのもいいかもしれないけれど、かの人は「魔法は呼吸よ」だなんてなんとも抽象的な言葉でしか教えてくれない。反対に努力の天才という人ならセルジュがいるが、兄は軍師の仕事で忙しくそれどころではなかった。こういうときに頼るのではなく、自分が頼られる側にならないと。それこそ気負いすぎていることに、きっとアステアは気がついていなかったのだろう。

「ねえ、ラ・ガーディアの夏も暑いんでしょ?」

 脈絡がなかったためにアステアはまじろいだ。ルダの公女は興味本位というよりも、この時間を退屈しているようにも見える。

「ええ、そうきいていますけれど。でも、僕たちは秋と冬の季節しかいませんでしたから」

「ルダの冬とどっちが寒いのかしらね?」

「それは、どうでしょうか? フォルネやウルーグはそれほど寒いとは感じませんでしたけど、イスカは寒かったですよ。ルダみたいに大雪こそなかったですけど……、でも身体が芯から凍えたなあ」

「ふうん。……それで? その人たち、いつ来てくれるわけ?」

 アステアはもう一度瞬きをした。イレスダートの聖騎士とラ・ガーディアの要人たちは約束を交わした。彼らは義を重んじる人たちだ。その約束を果たすときは、まさしくいまだろう。

「来ますよ、きっと。彼らは来てくれます。ここに。イレスダートに」

 それは祈りや希望などとはちがう。確信だ。このたたかいの行く末がどうなるかだなんてアステアにはわからなかったけれど、これだけは言える。皆は明日を信じているし光を見失っていない。ルダの公女がいい例だ。この人はいつだって強い。その強さも自信も、どこから来るのだろうとアステアはいつも思う。

「まあ、いいわ。ここからが踏ん張りどころよ。まずは頑張ってもらうしかないわね。オヒメサマに」

 アイリスの揶揄やゆにも笑顔を返すことなく、彼女レオナはただまっすぐを見つめていた。思いつめているのだろうか。ずっと一人で考えごとをしているようにも見える。そのとき、だった。

「なに……? これは、」

 アステアも感じていた。はじめはにおい。肌が粟立あわだっているのも強い魔力を嗅ぎ取っているからだ。

「――来る」

 彼女の声のすぐあとにアステアは雷鳴を見た。まばゆい光が天空を裂き、地面を揺らすのはまさしく神の怒りだった。

「……っ、やってくれるじゃない!」

 アイリスが舌打ちをする。ここにいる誰一人として怪我を負っていないのは。王女レオナの作った魔法壁のおかげだ。

 でも、これでは動けない。彼女が防御に徹するというのなら攻撃の手段はなくなるし、そもそも先手を打たれてしまってはこちらが不利になる一方だ。

「魔法障壁を! 早く!」

 ルダの公女の叫びと追撃はほぼ同時だった。

 王都マイアの宮廷魔道士たちはルダの名だたる魔道士にけっして劣らない。彼らはその自負があり、王たる証を自分たちの手で作り出す。王女の存在をそこに認めているからこそ、あえての攻撃だ。広範囲の無差別による攻撃でも彼女レオナだけは生き残ると踏んでいる。

「まったく、冗談じゃないわよ!」

「アイリスさん、僕たちも!」

「言われるまでもないわね! いい? 攻め込まれる前に撃つ! ……遅れるなよっ!」

 ルダの公女に呼応し、魔道士たちがときの声をあげる。アステアは遅れないようにと馬を飛ばし、けれども彼女から目を離さない。どこか、なにかが変だ。この形容できない違和感はなんだろう。

 姫君を守る大役は公子に頼まれたからだけではなかった。レオナは友達で、そして同志でもある。でも、いまの彼女はどこか変だ。

 アステアの思考はそこで遮られた。

 このたたかいは長くはつづかない。白の王宮は早期の終結を望んでいて白騎士団もそれに従う。だが、そこに反対の意思を持つ者がいれば、話はまた別だ。あれは兄の独り言だったように思う。たしかにいまの状況がそれだ。己の矜持と精神と魔力を酷使した魔道士たちの戦いは、何千という屍をイレスダートの大地に作った。自分がここでまだ生きているのが不思議なくらいだった。

「嫌になるわね、まったく!」

 それでもなお毒を吐くくらいの元気はあるようだ。自分が何人を殺して、仲間の何人が殺されたなんて考えるのはやめた。戦いは終わっていない。アステアとアイリスの視線の先には銀の集団がいる。剣や槍、あるいは弓。接近戦に持ち込まれた時点でこちらの負けは決まったようなものだった。降伏か、否か。決断をくだすのは一人だけだ。 

「……レオナ?」

 彼女は白騎士団の前に立つ。待ってください、と。止めようとしたアステアの目を彼女は一度見た。それきり、アステアは声を出せなくなった。

 説得が効くような相手ならば敵も味方もここまで壊滅したりはしなかった。

 彼らは王女の存在を知っていてもなお、叛乱軍を撃つのが使命である。かの老将軍がこちら側に付いたのも、ムスタールの黒騎士団を抑えられたのも、出来過ぎていたくらいだった。そう、聖騎士は言っていた。いまさら王女の声なんて届きはしない。

 守らなければ。白騎士団が王女を捕らえる。きっともう、ルダの魔道士たちは北の国に帰ることはできないだろう。それなのに、アステアの体は動かずに、声も出せずにいる。

「――聞け、勇敢なるイレスダートの子らよ。私はこれ以上の争いを望んではいない。剣を、収めなさい」

 それは静かに、けれども絶対的な命令だった。

 この場が一人の力で支配されている。そんな錯覚をアステアは持った。まだ成人を迎えていない少年騎士が胴震いする。経験豊富な往年の騎士さえも身じろぎせずにいる。ルダの魔道士たちも瞠目どうもくしている。アステアは助けを求めるべくルダの公女を見たが、表情はわからなかった。

 呼吸すら許されないそのなかで、一人の騎士が王女と相対する。金髪の見目麗しい、聖騎士とそう歳の変わらない騎士だった。白騎士団団長フランツ・エルマンよりこの部隊を任されているのだろう。騎士は冷静であったし、目の奥には自信と矜恃きょうじの両方が見える。

「剣を抑えるべきなのはあなたです、レオナ殿下。我々はあなたを保護する。そして、聖騎士の首をこの手に、」

「させません」

 彼女は右手を天に掲げる。空から降り注いだのは無数の光の刃だった。あのときと、おなじだった。

 彼女の力をはじめて目にしたときには感じなかった。でも、いまはわかる。目が、喉が熱くなる。心臓の音が耳の奥で響く。歯の根がかちあわない。これは、畏怖いふだ。

 けれども、白い光は誰の命も奪うどころか傷さえもつけなかった。アステアはそれがおそろしかった。外れたのではなく、あえて外したのだ。敵も味方も、ここにいる全員の命を彼女レオナは簡単に摘み取れる。

「従うべくは誰であるか、問うまでもない。無益な争いなど何も生み出さない。賢明なイレスダートが子らならば、わかるであろう?」

 一人が下乗した。膝を折り、恭順の意を示せば隣の騎士もおなじ挙止きょしをした。一人、二人とつづけば騎士たちはもう迷わなかった。王女の声が、彼女の言葉が届いたのだ。それなのに、この震えが止まらないのはどうしてだろう。

 アステアはその意味を追わずにいる。そして、この目で見たのだ。青玉石サファイアのような清冽でうつくしい彼女の瞳が、あのときたしかに血のように赤い石榴石ガーネットの色に変わっていたことを。

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