聖者の行進②

 彼女は、そのときをただひたすらに待っていた。

 王命を受けたのはこれよりひと月も前、オリシスがすぐに従わなかったのは最後まで公爵夫人であるテレーゼが反対したからだ。

 義理姉テレーゼの声はいまも彼女の耳に残っている。

 普段は大人しい気質のテレーゼが、あれほどまでに厳しく強い言葉を吐いたのもこれがはじめてだった。さすがに王都マイアからの使者がかの元老院であったので、追い返しはしなかったものの、はっきりと記された王の証を見てもなおテレーゼは信じようとしなかった。

 冷静でありなさいと、義理姉は言う。それはあなたの方だと返すのも面倒だったので、けっきょくオリシスを立つその日まで、義理姉と声を交わすことはなかった。

 あのひとは、なにもわかってなどいない。

 テレーゼは幼い時分からオリシス公爵家に嫁ぐことが決まっていた人だ。公爵夫人としてふさわしい教養を身につけていたし、母をほとんど知らない彼女にとってテレーゼは姉でもあり母のような存在でもあった。

 定められていた政略婚、それでも二人の絆はたしかなもので、結果として兄がテレーゼを選んだのだと彼女は疑わなければ、それは運命であったとそう思ってさえもいる。だが、彼女とテレーゼとの関係はいまは壊れてしまっていると言ってもいい。アルウェンという人を、失ってしまったその日から。なにもかもが変わってしまったのだ。

 軍師が何かをささやいている。アストレアの蒼天騎士団が動き出したのだろう。はじめからアストレアなどあてにしていない彼女は、むしろ奴らが裏切るつもりで見ている。蒼天騎士団と合流するなどという軍師の策には耳を貸さなければ、ランツェスを待つ気もなかった。いまこそが好機なのだ。

「なりません、ロア様!」

 ところが軍師はなおも彼女を止めようとする。周りは軍師を有能だと認めているがロアは逆で、どうにも臆病なたちの軍師などお荷物でしかなかった。オリシスは軍師の失策が原因で大敗を喫した苦い過去がある。軍師が病的なくらいに慎重になるのもそのためだ。

 失敗は、二度と許されない。そう老者はうそぶく。

 戦場で戦えなくなった兄を見限ったのは白の王宮のくせに、必要とあらば求めてくる。以前のロアなら傲慢さに腹を立てたかもしれないが、いまは好都合とさえも思っている。

 そうだ。これは私がやらなければならない。生前の兄はムスタール公爵ヘルムートを友と認めていると同時に、騎士としての素晴らしさを良くロアに語ったものだ。そのムスタールでさえも叛乱軍を逃してしまったのは、白の王宮としても想定外だったのかもしれない。一方で、彼女は安堵していた。聖騎士の首を取るのは、己のこの手でなければならないからだ。

 軍師の呼ぶ声がきこえなくなった。

 いや、軍師の声だけに留まらず麾下きか扈従こじゅう、あるいは近しい親者の声すらもロアはもうまともにきいてはいなかった。

 お前はどこか向こう見ずなところがある。兄はいつもロアをそう諭してきた。懐かしい声だ。だが、そのアルウェンはどこにもいないというのに、誰がロアを止められるというのか。

 いまこそ、守らなければならない。兄の意思を。いまこそ、示さなければなるまい。兄のただしさを。

「おや、火のなかに飛び込む虫がいたぞ」

 きき覚えのない女の声がした。いったい、どのくらいのあいだ正気を失くしていたのだろう。

 振りかぶったときにはもう遅く、ロアの剣は鋼の剣によって阻まれた。ずいぶんと重い。女の手でこれを扱うなどにわかには信じがたいが、しかしその女は余裕の表情でロアを見おろしている。

 ロアは馬の腹を蹴り、間合いを取った。目をみはり、現実を知るまでの時間はそう長くはなかった。囲まれているのだ。軍師も麾下も、すべてを置き去りにして、ロアはただ己の声だけをきいていた。

 なんということだろう。女は軍服ではなく見慣れない装束を纏っていた。異国人と認める要素は黒髪と褐色の肌、そして、ロアは彼らが掲げる旗を見た。

「四葉……? ラ・ガーディアか!」

「いかにも、私たちは西の国から来た。が、こんなところに小娘が飛んでくるとはな」

「黙れ! 我らが聖戦に貴様らのような蛮族が介入するというのか!」

 ロアはもう一度、女に剣を突きつける。しかし、異国の女はひとつ瞬きを落とし、それから声をあげて笑った。

「なにが可笑しい!」

「面白いことを言う小娘だな。私たちを獣呼ばわりするつもりか」

 人間の行いとはほど遠い、これが獣のすることでなければ他になんと言うのだろう。

 異国の女の背後に掲げられた旗はたしかに四葉と獅子が描かれている。あれは、イスカの黒旗だ。兄アルウェンをほふった聖騎士が西の国へと逃げたのは一年前。愚かな大罪人は西の蛮族どもを味方に付けていたようだ。

「きけ、小娘。私は友との約束を果たすためにここまで来た。お前の言う聖戦などには興味はないが、しかしこれでは約束の時間に遅れてしまう。剣を捨てろ。さすれば、お前の部下たちも無傷で返してやろう」

 ロアは歯噛みする。ここで戦わずとしてどうして兄に顔向けができようか。

 剣を持つ手に力を入れ、呼吸を整える。だが、女の剣の方が早かった。舞ったのは兄とおなじ色をしたロアの赤髪だった。オリシス公爵家の娘は温室ではなく戦場で育つ。長い髪は邪魔になるのでロアの髪はいつも短く、しかし兄を亡くしたその日から伸ばしつづけていた。

「ほう? まじろぎすらしないとは、さすがは騎士だな」

 嘲笑とはまた別の、異国の女はそういう笑い方をする。

 ロアは女の目だけを見ていた。黒曜石のようなその瞳に映るロアは希望を失ってなどいない、騎士の挙止をしている。たとえ己の命がここで果てようともこの女さえ落とせば、それでいい。ところが――。

「悪いな、小娘。私は騎士ではなく戦士だ」

 異国の蛮族たちの弓はロアへと向いている。降伏の意に従わなければ騎士としての矜持きょうじを失う。それはただの死だ。ロアは目を閉じた。

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