聖者の行進①
風が通り抜ける音に木々の葉が擦れ合う音、鳥たちのさえずりに、もっと耳をすませば水辺から心地良い音もきこえてくる。精霊たちに誘われてそのまま湖へとたどり着くのもいいけれど、それでは目的地から遠く離れてしまう。女神アストレイアに仕える精霊たちはとにかく悪戯好きだから、余所者を連れてきたと知れば惑わされるかもしれない。
ノエルはちいさい頃に母さんに教えてもらったおまじないを、口のなかで唱える。大丈夫だよ。みんな、俺たちの仲間だから。そう付け加えて。
早朝に降った涙雨はすでに止んでいて、いっそう濃い緑のにおいがした。懐かしさを感じる前にノエルはほんのすこし警戒心を抱く。アストレイアは争いを嫌う女神である。だからこれは歓迎としてよりも、警告だと考えるべきだ。ノエルたちは厄介事を持ち込んだ敵だと見做されても当然だろう。
大役を任されてしまったな。それでも他に適任がいなかったといえば、そのとおりだった。相棒のレナードは消えてしまってひさしく、地の利に明るいのはたしかにノエルしかいないだろう。
うしろにつづくのは新兵たちを含めてざっと数えても二十人、けっこうな数だ。
次の戦いがはじまればルダの名だたる魔道士たちとおなじく、後衛部隊の主力としてノエルも戦う。大した出世じゃないか。きっと、相棒ならばそう言う。ちょっと荷が重いなんて考えてしまうのは、自分よりもっと弓の名手をノエルは知っているからだ。
ともかく、これだけの人数を率いてアストレアの領域を侵すのだ。言葉を用いての主張など、どれだけ通じることやら。そもそも蒼天騎士団の団長トリスタンは平和主義であったかどうか、どの記憶をたどってみても怪しいものだし、騎士団長とノエルが交わした会話にしても数える程度だ。
説得って言ってもなあ。ノエルは口のなかでごちる。公子も軍師も本気でそれが可能だなんて、思っているのだろうか。亡き公爵に代わってアストレアを預かるのはエレノアという人だ。
アストレアの民は彼女を慕っているし、イレスダートの歴史に名を残す女傑だと信じている。その人が囚われているとなれば、彼女のためにアストレアの騎士はたたかう。そう。トリスタンはエレノアの騎士だからだ。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。たぶん、君が考えているようなことには、ならないから」
先ほどからずっと胴震いをさせている新兵に向かってノエルは言った。
成人したばかりの新兵はノエルとおなじ弓騎士だった。でも、これではとてもたたかえない。冷静であれと、ノエルは自分に言いきかせる。敵の姿を認めて弓をつがえる。一瞬の迷いも許されない。新兵が震えるのも仕方のないことだ。小柄なノエルよりももっと細い肩をぽんとたたけば、やっと新兵は呼吸が楽になったらしい。
「アストレアは美しい国ですね」
はにかんだような笑顔を見せた新兵にノエルもちょっとだけ表情を緩める。それも、ここまでだ。ノエルの記憶と勘が正しければそろそろ遭遇してもおかしくはない頃だった。はたして、蒼天騎士団はノエルたちに剣を向けるのか。そしてトリスタンはそこにいるのか。
「ノエルさん、ちょっと来てもらえますか?」
呼んだのはオルグレム将軍のところにいた騎士だった。主を失ってもなお戦いつづけようとするし、ちゃんとノエルを部隊長だと認めてくれているから物言いも丁寧だ。
「なにか問題でもあったのですか?」
「それが、罠かといえばそうかもしれませんし、そうではないのかもしれません」
「罠?」
ノエルの返しにも、どういうわけか言いにくそうに口を
「なんていうか、妙なんです」
考えた上での発言だったようでも、ノエルにしてみればますますよくわからなくなった。そこへ、彼が連れていた新兵と目が合った。こちらもまだ頼りなく上官を前に緊張している。
「あ、あのう。この先にアストレアの騎士がいたんです。えっと、蒼天騎士団ですよね? たぶんその人たちが……」
こちらもまた憶測で物を言うので、ノエルは思わずため息を吐きそうになった。ただ、嘘は言っていない。そうしたところで何の利点も残らないし、なにより彼らの目をノエルは疑いたくなかった。
「わかった。ともかく行ってみよう。俺と、この三人だけでいいから。他の皆はしばらくここで待機。大丈夫。必要以上に近づかないよ。俺、目には自信があるから」
さあ、責任重大になってきたぞ。
けれどもまだ落ち着いているから何の問題はないと、ノエルは自分を励ます。こういうときにレナードならなにも考えずに直感を信じるんだろうな。そんなことを思ってしまった自分が、ちょっと悔しい。帰ってきた相棒に話したならば、きっと大笑いするだろう。
ノエルはさらに森の奥深くへと進んでゆく。他の騎士たちの緊張が嫌でも伝わってくるので、なにかの冗談でもひとつ飛ばしてやろうかと思った。けれども、その足は止まる。ノエルの目が認めたのはたしかに蒼天騎士団だった。
イレスダート人には青髪が多いのは誰もが知っていて、それは特に身分の高い貴族の人間に多い。はじめから貴人の子でなかったノエルやレナードが青髪ではないのもそのためだ。ノエルは瞬きを二度してそれから考える。これはいったい、どういうことなのだろう。
先に知らせてくれた二人も新兵も、黙りこくっている。
なにかの罠だと思う方が自然だろうか。そこには青髪の騎士たちが倒れていた。その数はざっと見ても二十は超えている。蒼天騎士団は、やはり叛乱軍討伐を命じられていたようだ。アストレアを奪い、エレノアというひとを閉じ込めたランドルフという男によって。
数呼吸が空いて、それから突然ノエルは駆け出した。跪いたのは栗毛の騎士の前だ。アストレアにいた頃は新米騎士だったノエルが知っている顔といえばそう多くない。見覚えがあったのは騎士がノエルと同期だったからだ。
名を呼んだところで返事はなく、ノエルは騎士の胸に耳を押し当てる。規則正しく動いている心臓の音がちゃんときこえて安堵する。視線を仲間へと戻せば、彼らはまだ不安そうな目をノエルに送っていた。
「大丈夫。みんな眠っているみたい」
三人はほとんどおなじ反応を見せた。ノエルはちょっと笑う。自分だっていまこの状況を信じられないような気分だ。けれども、他の蒼天騎士団の者たちにしても、ここまでノエルたちが近づいているというのに、まったく動きがない。そのうちの一人がいびきをかいているのを認めて、新兵が吹き出した。
「ほんとう、ですね。でも、どうしてこんなことに?」
「そうだね。これじゃあ、罠を疑うのが普通だよね。でも、それにしては不自然だし、このままどうぞ捕らえてくださいって言ってるみたいだ」
ノエルは一番理解が早そうな騎士を見た。ずっとオルグレム将軍に付き従っていた騎士はただうなずいて、そこから去って行った。
「俺たちも一度戻ろう。こんなに熟睡しているんだもの。きっと二時間は目覚めないんじゃないかな?」
そのあいだに蒼天騎士団の身柄はこちらで確保する。戦わずに勝つだなんて上手く行きすぎているし、まるで誰かが用意した脚本みたいだ。
ノエルは疑心を消さずにいたものの、しかし懐かしい仲間たちを前にどこか安堵していたのかもしれない。自分たちより離れた場所で、視力に自信のあるノエルからも見えないそこで、一人の騎士が見ていたことを気がつかなかったのだ。
イレスダート人に黒髪もまためずらしくはなかったが、騎士を異端に見せるのは顔を覆っている仮面だ。ノエルたちの増援が来て、眠ったままの蒼天騎士団が連れて行かれるそのときまで、じっと見守るかのように仮面の騎士はそこから動かなかった。
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