ルドラスの姫君②
北方に位置するルドラスの領内は、夏でも夜はそこそこに冷える。
静まりかえった夜の回廊を彼女は踵を鳴らしながら行く。侍女や
ルドラスの王女エルレインはけっして短慮な人間ではなかったが、しかし近しい身内が相手となると感情が抑えられなくなる性分だった。きっかけは、一人の少女の泣き声だった。
「そこでなにをしているのです?」
この台詞も一度や二度ではなく、そのたびにエルレインは
「なんでも、ありません」
最初はなにがあったのかを皆まで吐かせた。二度目はその言葉だけで少女を逃した。そして、この日は。
白皙の肌、それから髪や瞳の色にしてもすべての色素が薄いルドラス人のなかにいれば、少女の栗毛は特に目立つ。宝玉を埋め込んだような赤い瞳もまた異端に見えるらしい。はじめは言葉による暴力だった。もともとが大人しくて控えめな性格のウルスラは、自身の置かれた立場をちゃんと理解している。どんな心のない悪口にだって、ただ耐えていた。
エルレインが自分の妹を引き合わせたのは単に少女に同情したからで、けれどもそれは逆効果だったようだ。年の近い娘同士ならば余計に遠慮のない声をする、いや血の繋がった妹をよく知っていながら、それでも頼りとしたエルレインの失敗だ。
あの娘には関わるなと、
ウルスラが不自然に右手を隠したときも、エルレインは後悔をした。私が誤って香茶を零してしまったのです。それならば、少女は隠れて泣いていたりしないし、火傷をそのままにはしなかった。そしてエルレインがもっとも怒りを感じたのは、ウルスラに侍女の仕事をさせたことだ。
エルレインが妹を詰問しなかったのは、少女の目がそれを訴えていたからだ。どうか、オリエッタさまを叱らないでください。目を赤く腫らしてまた泣いていたときも、少女はおなじ声をした。
南の離宮には侍女や他の使用人たちが大勢控えているが、王女を止める者はいなかった。
子ども同士の喧嘩でしょう。諫めた執事長を
扉をたたくことも、入室の許可もないままに妹の部屋へと押し入った。
オリエッタの髪や肌の手入れをする侍女たちが、エルレインの姿を認めて動きを止めた。若い侍女たちはエルレインを恐れているが、妹の乳母を務めた老女だけはちがう目をしている。
「これはエルレインさま。いかがなさいましたか? 姫様はもうお休みになるところです。いかに姉君とはいえど、」
「お前たちは出て行きなさい」
老女の顔が醜く歪んだ。自分は絶対にこの城から追い出されないという自負があるためだ。
二度は言わせない、そういう目顔をエルレインはする。姉と妹と、二人きりになっても未だにオリエッタは姉の顔を見なかった。視線が合うのは鏡越しからで、オリエッタの唇はずっと
「いやだわ、お姉様ったら。そんなにこわい顔をなさるなんて。まるで敵でも殺してきたみたい」
四つ下の妹を甘やかしてきたのは兄たちだ。
その兄妹も戦争や病気で亡くなった。跡継ぎとして残っていたエルレインとオリエッタの弟もだ。いま、王家の直系として認められているのはエルレインとオリエッタのみである。象牙色の肌も長い銀髪も、硝子玉のような碧眼もよく似ている。
そういえば、この妹は父も母もおなじだった。だが、庶子の子として分をわきまえてきたエルレインとちがって、兄たちに溺愛されて育ったこの妹とでは性格は正反対だった。
「ねえ、早く出ていってくださらない? お姉様とちがって私は忙しいの。明日だって朝から、」
「返しなさい」
鏡の向こうでオリエッタは瞬いた。エルレインはもうすこしだけ、妹へと近づく。
「あの子の髪飾りを返しなさい。お前が奪ったのでしょう?」
「いやだわ。なんのことかしら?」
やっとこちらを向いたかと思えば、妹は退屈そうに銀髪を弄りだした。
「やめて! 勝手にさわらないで!」
悲鳴とともに駆け寄ってきた妹の手を振り払ったそのとき、エルレインは目を
「拾ったのよ。あの子が鈍臭い子だから、落としてしまったんだわ。拾ってあげたのよ。……返してあげるのを、すっかり忘れていたけれど」
「黙りなさい」
オリエッタの肩が跳ねあがった。自分を落ち着かせるように、エルレインは意識して呼吸を繰り返す。故郷の兄が誕生日に贈ってくれたのです。そう、恥ずかしそうに微笑んだ少女の姿が見える。あれは、ルドラスの城塞からここにきてまもなくのことだ。
無くしてしまうといけないからと、ウルスラは兄がくれた髪飾りを普段は身につけていなかった。愛おしそうに、それを見せてくれたとき、この少女の心はランツェスにあって希望を捨てていないのだと確信した。妹はどんな声で孤独な少女を
「……今夜はもう遅いわ。明日、これをお前の手でウルスラに返しなさい」
異国の、それもイレスダートの人間など敵だ。ましてや人質として連れて来られた娘に頭をさげるなど、オリエッタにしてみれば屈辱以外の何者でもなかったのかもしれない。ちいさな拳が震えている。碧の双眸には涙が滲んでいる。不当な仕打ちだと、オリエッタは怒っているのだ。
「イレスダート人って、ほんとうに野蛮な人たちね! お姉様に言いつけただけではなく、この私を泥棒扱いするだなんて!」
その刹那、エルレインは妹の頬を張っていた。生まれてこの方、一度だって力で己を戒められることのなかった妹は、はじめなにが起こったのかわからないという風にまじろいだ。しかし、頬に走る痛みと熱は本物だ。硝子玉のような碧の瞳から涙がこぼれた。
「なによ、偽善者」
呪わしいものを見る目ときのように、オリエッタは姉を見ている。
「そうよ。偽善者だわ。あんな、イレスダートの穢らわしい子なんて、どこかに閉じ込めて仕舞えばいいのに……! 大嫌い、だいきらいよ、あんたなんて! 大っ嫌い!」
ひどい癇癪持ちの妹が一度こうなってしまえば手につけられないことなんて、姉であるエルレインが一番わかっていたはずだ。
部屋へと駆け込んできた侍女や執事たちがオリエッタをとにかく鎮めようと必死になる。腫れが残らないようにまずは冷やしましょうね。ああ、お可哀想に。姉君は疲れているのですよ。オリエッタ様はなんにも悪くありません。妹の乳母が迷惑そうな目顔をする。エルレインはひとつため息を吐き、部屋から出て行った。
「忠告したはずです。あの娘に、関わるべきではないと」
いつのまに帰っていたのだろう。
銀の騎士はイレスダートとの国境近くにいた。時としてルドラスの王都に呼ばれる。王の
一応、エルレインの騎士だという自覚が残っているのだろうか。エルレインは薄く笑った。
「父は、あなたに何を言いましたか?」
忠告などではなく、あれはただの説教だ。だから、エルレインは騎士の声を無視して問う。銀の騎士ランスロットは
「陛下のお心は変わりありません。しかし、機は間も無く訪れるはずです」
「イレスダートの動乱に乗じて侵攻するなど、お前は正しいとでも思っているの?」
「それが王命であれば従うまでです」
どんな言葉で返したとしても、拳を振りあげたとしても、騎士の心は揺らがないしエルレインの納得する声を返してなどくれない。これは、ただの独善だ。そんなことはわかっていても認めたくはなかった。それなのに、彼にだけはそうしてほしくないとエルレインは思っている。
そうだ。綺麗なものなんて、ない。妹の言うとおりかもしれない。誰かが用意した脚本など従わなければいい。
「オリエッタ様はああいう気性のお方です。敵国の公女などに心は開きません」
「ええ、そうね。私が失念していたわ」
やはり、ウルスラをここに連れてきたのは間違いだった。エルレインは認める。けれど、騎士団が常駐するような砦にいては少女の心が休まらないし、なにより冬はひどく冷える。山麓よりも王都に近いここの方が安全だと思っていたが、しかしランスロットの指摘もまた正しい。そうだ。あの
それならば、と。エルレインは下唇に歯を立てる。
「わたくしは、あの娘をランツェスに返します」
エルレインの声に騎士はひどく疲れた顔をしていた。
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