エレノアとランドルフ①

 封蝋ふうろうを押したとき、その手は一度止まったものの、またすぐに動き出した。

 封書を預かった扈従こじゅうが退出して行くのを騎士は見送る。侍女が運んだ香茶は隣国オリシスから取り寄せた茶葉を使っていて、彼女のお気に入りだった。

 しかし、茶器のなかはまだ空になっておらずに、すっかり冷めてしまっていた。忙しなく動きつづける彼女の手を騎士の目は追う。ただ、そこに直立しているだけ、余計なことをしようものならばすぐに叱責されるからだ。香茶の替えを用意するのは騎士の仕事ではないと、主はそう言うだろう。

 小一時間が過ぎた。

 三通目の封書を書き終えたとき、彼女は肩で息を吐いた。他の二通の行き先を騎士は知らなかったが、最後の手紙だけは自分の手で届けなければならない。亡きアストレア公爵の弟、彼女にとっては義理の弟にあたる人物だ。

 アストレアの北部を預かる侯爵の印象を、あるいは情報を騎士はほとんど持たない。先代のアストレア公爵という人があまりに勁烈けいれつすぎたために、その弟が大人しく見えるだけなのかもしれないが。

 とはいえ、彼女が認めた封書の意味を騎士はちゃんとわかっている。そう、自分では思い込んでいる。

「頼みましたよ、トリスタン」

 騎士は主君の前で膝を折った。ごく自然な騎士の挙止きょしでも、彼女はすこし笑っていた。

 執務を終えたあとに彼女は向かう場所はいつも決まっていた。この城に来たばかりの頃に、無聊ぶりょうを慰めるためにはじめた薔薇の世話は、いまでは彼女の趣味のひとつだった。

 良家の未子として育ったとはいえ騎士は剣の他を知らず、花のことにはいっそ明るくはなかったが、しかし咲き誇る花たちを見れば、あの場所を彼女がどれほど大切にしてきたかはわかる。

 だからこそ、つらい。彼女は東の塔より外へと出ることを禁じられていて、薔薇園も庭師に任せきり、そうして一年が過ぎた。

 ここから庭園は見えるものの、清冽な花のにおいまでは届かない。その横顔がすこし痩せたように騎士には見えた。主人を安心させるための笑みを作らなければならないのに、騎士はそれすらできずにいる。己の無力さが歯痒くてたまらなくなる。それも、このひとにはお見通しなのだろう。

「そんな顔をするものではありませんよ。わたくしのことなど、案じる必要はありません」

 騎士トリスタンは開きかけた唇を閉じる。どんな声を乗せようとも、彼女には勝てない。

「わたくしを、信じられませんか?」

「そんなことは」

「ふふふ。あなたをそこまで不安にさせるのはいつ以来でしょうね? 求婚を受け入れたときかしら?」

 ずいぶんと昔のはなしを持ち出してくるものだ。

 トリスタンはずっと彼女の騎士だった。アストレアの城に主とともにはじめて来た少年騎士は、そこで彼女と自分の運命が決まるなど思いもしなかった。それもそのはず、彼女は自身の姉の代わりにここへと来たのだ。

 当時のアストレア公子が相当な奇人だときいていたが、その意味をトリスタンはすぐに理解する。姉には恋人がいるのであなたの妻にはなれません。正面から言い切った自分よりも六つも若い娘に、彼は腹を立てるどころか哄笑こうしょうする。次の言葉はもっとトリスタンを驚かせた。気に入ったからしばらくここに留まるといい。なに、ひと月でいい。そのあいだに落としてみせる。

 そうして彼女がアストレア公爵家に嫁いだのは、ほだされたからだとトリスタンは思っている。

 反対はしなかったものの、はたしてそれで良かったのだろうかと、そんな顔をトリスタンはしていたのだろう。そして、いまのトリスタンも。

「わたくしが一度でも、不幸を嘆いたことがありましたか?」

 いいえ、と。騎士は口のなかだけで言う。

 この人はどんなときだって絶望したりしない。最初に授かったロイド公子を病で亡くしたときも、夫をルドラスの敵地で亡くしたときも、二番目の子のブレイヴ公子をガレリアへと送られたそのときも。白の王宮より元老院が訪れて、ほどなくしてアストレアの城をマイアの騎士に包囲されたその日も、彼女は決して悲観しなかった。

 そういう人だということを、トリスタンは知っている。けれども反対にも見える。不安も恐れもなにも感じない人間などいない。彼女を支えて、守るはずの人がそこに居ないのなら、己が盾となる。そうだ。トリスタンはエレノアの騎士だ。

 扉をたたく音がした。入室の許可がないまま無遠慮な足音がつづいたのは、相手が短慮であるからだ。

「エレノア殿、これはどういうことなのか、説明して頂きたい!」

 礼を欠いた行いにトリスタンは露骨に嫌悪を描いたものの、エレノアは騎士を制した。

「まあ、ランドルフ卿。お茶の約束をしたのは明日ですよ? オリシスの茶葉を切らしていますの。けれども明日の朝には届くでしょう。無花果いちじくのタルトもこれから焼くところですわ」

「う、うむ……。それはたのしみではあるが、そうではない。叛乱軍が動き出した。アストレアのために力を貸して頂きたい!」

 男は力任せに机をたたきつけたものの、エレノアの表情はそのままだ。報告は昨晩には届いていて、この男が乗り込んできたのも遅いくらいだった。

 席を勧めても固辞する男にエレノアは肩をすくめて見せた。

 親しい友人さながらの挙措きょそで、実際二人の関係はそれに近い。二人の年齢もそれほど変わらず、一人娘を王都マイアに残しているだとか、妻女を亡くした際に顔も見せなかった父親にすっかり心を閉ざしてしまっただとか、他愛もないお喋りから男の私事までをエレノアはというひとは簡単に引き出す。

 はじめこそはアストレアを敵視していた男がエレノアに強く出られない理由は他にもある。

 自由都市サリタの籠絡を不首尾に終わったランドルフは次にアストレアを狙った。次こそ失敗は許されない。だが、子を罪人扱いされたエレノアはほろほろとただ涙を流すばかり、かくなる上は息子と言えどもたもとを分かちましょう。それまで、ランドルフ卿にはアストレアを守って頂かねばなりませんね。嗚咽する母親の顔から統治者の顔へと変わったエレノアは、そう言い切った。

 アストレアはマイア王家に忠誠を誓う。けれども、剣を預けるその相手は王であり、白の王宮でも元老院ともちがう。エレノアは決して折れない。彼女がいるかぎり、アストレアはマイアの隷属とはならずに、たとえこの国にマイアの騎士たちの存在を許したとしても、形だけの関係だ。

 懐柔されているのはこの男だ、トリスタンはそう思っている。

「ランドルフ卿ともあろう方が、何を焦っているのです?」

 やさしく、しかしはっきりとした声音は、何も男を落ち着かせるためだけに吐いたものではなかった。

「アストレアは森と湖に守られた国。女神アストレイアは正しき者にだけ力を貸すでしょう。とはいえ、そうではない者に容赦はしない。敵など、このアストレアに許すはずがありませんわ」

「し、しかしエレノア殿、白の王宮からも要求が来ておるのだ。これ以上は待てぬ。早々に蒼天騎士団を動かして頂きたい」

 ランドルフの視線は騎士に向く。

「騎士団長殿もよろしいな? これは、叛乱軍討伐のためだ。異論は許さぬ」

 トリスタンは失笑しそうになる。男は己の言葉に矛盾を感じてもいないらしい。それこそ半年ほど前の男ならば、己の心のままに驕慢きょうまん粗野そやな声をしていただろう。いまのランドルフは牙を抜かれた獣でしかない。

率爾そつじながら、ランドルフ卿。私はたしかに蒼天騎士団を率いておりますが、その権限はございません。主の声なくして、騎士団を動かすわけにはまいりませぬ」

 男はちいさく唸っていたが、これも自分が蒔いた種である。

 彼女を東の塔へと軟禁して軍事権を奪っただけではなく、城主の仕事もさせなかった。それでもいまのアストレアが保たれているのは、エレノアがあれこれと根回ししているからで、しかしこの憐れな男は己の力だと思っているのだろう。それならば、代償は自分の手で払うべきだ。

「されども、いまは一刻を争います。特例を認めると、元老院より伝わっておりますゆえに。お二方には従って頂く他はありますまい?」

 騎士と主は同時に振り返った。ランドルフは他に騎士も扈従こじゅうも連れてはいなかったが、そこにはもう一人がいる。

 いつのまにか来たのだろう。

 黒髪の仮面を付けた騎士がこちらへと近づいてくる。火事で負った火傷のせいなのか、あるいは激しい戦闘の末にできた傷のためなのか、いずれにしても顔を隠す理由は明かされていない。ランドルフの麾下きかとして、付き従う仮面の男をトリスタンは危険に思う。仮面の騎士が現れるそのときに、いつも話が中断される羽目になる。それこそ、仮面の騎士の狙ったとおりに。

 トリスタンは主の名を呼ぶ。わたくしは、なにひとつとして諦めてはいませんよ。エレノアの目は光を失っておらずに、どこか悲しそうに笑んでいた。




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