テレーゼとロア
「どうしても、行くというのね?」
このやり取りはもう何度目になるだろう。
切言よりは懇願に近かった。繰り返したところで彼女には届かずに、けれどテレーゼは辛抱強くそのときを待つ。
イレスダートはまもなく初夏を迎える。
南に位置するオリシスではいち早く雨季が訪れるので、雨が朝から晩まで降りつづけている。子どもたちはそろそろ退屈をする頃だ。大人たちもこの煩わしい時期をじっと過ごすしかなく、しかしこれは豊かに育った緑の草木も、色取り取りに咲く花たちにとっても恵みの雨だった。
窓の外ではまた雨が降りはじめていた。騎士の訓練のためにロアはすぐに退出する。でも、今日はそんな方便は通じない。
「私がこれだけ言っても、あなたはきいてくれないのね」
恩着せがましい口調で言ってしまったのは、何度もこのやり取りをつづけてきたせいだ。うしろめたさを感じてテレーゼは義理妹から視線を外す。カウチに掛けるように訴えてもロアはそのまま、すぐに退出するつもりなのだろう。
「こたえなさい、ロア」
テレーゼは、亡き夫アルウェンの妻になることを幼き頃から義務付けられていた。
公爵家は幼少のときから出入りしているし、ロアとも親しい仲だった。アルウェンとテレーゼは十歳も歳が離れていて、むしろ歳の近いロアの方がなにかと気安く話せていたと思う。それなのにいま、ロアはこんなにもテレーゼによそよそしくする。
もうすぐ一年を迎えようとしている。
時の流れというものは残酷なくらいに早い。けれども、この痛みもこの悲しみもこの淋しさだって、そのすべてを癒やしてくれるほどの時間が過ぎたようには思えない。彼を失った時間よりも、彼と過ごした時間の方がずっと長かったのだから、それは当然かもしれない。兄妹として育ってきたロアはなおさらだ。
ただそこにアルウェンがいないという空白は、これが二年になろうと三年が過ぎようとも、けっして埋められるものではないだろう。
テレーゼは、忘れようとは思わない。それでも、過去へと足を止めるのではなくて目を向けるべきなのが明日だということは、ちゃんとわかっている。オリシスはここで折れてしまってはならない。アルウェンという人を失ったとしても。
「ロア。お願いよ。どうか、思い直して」
テレーゼは
「一人で抱え込まないで。ね、お願いだから」
テレーゼはそう訴える。ロアはちゃんとテレーゼの目を見てくれない。彼女がこんな風に心を閉ざしてしまったのは、悲しみが深すぎたせいだ。
二人がアルウェンの寝室へと駆けつけたとき、彼はもう事切れていた。
おびただしい血が撒き散らされていた。いったい、誰がアルウェンを殺したのだろう。足が震えるばかりで声が出なかったテレーゼは、降りしきる雨のなかを出ていくロアを止められなかった。ロアは聖騎士を追っていった。当時オリシス公に匿われていたのはアストレアの公子とマイア王家の末姫、アルウェンの死とともに彼らはオリシスから姿を消していた。
「一人きりで苦しまなくてもいいの。あなただけが、悔やむことはないの」
「私は後悔などしていません」
「いいえ。うそよ」
その証拠にロアはまだテレーゼの目を見てはいなかった。ロアはいまもずっと悔恨ではなく、怨嗟と
窓をたたく雨の音がきこえる。テレーゼは雨の日が嫌いではなかった。
アルウェンは騎士たちの稽古が休みになるからと、長椅子に腰掛けてテレーゼの淹れる香茶を待つ。大人しい養女は皆の会話に耳を傾けつつもお気に入りの本に夢中なようで、あとから遅れてから来るのがロアだった。
テレーゼの作った焼き菓子は家族みんなの好物であり、たのしいお喋りが終わる頃には皿はきれいに空になっている。アルウェンは特にアップルパイが好物だったので、養女と妹を待ちきれずに一人で食べていることもあった。半分を平らげてしまった夫をテレーゼははじめて叱った。あの日はもう、戻ってはこないのだ。
「あの者たちの声に、耳を傾けてはなりません」
この日、オリシスには王都マイアから使者が訪れていた。応対するべきテレーゼは予定を調整したものの、名指しで呼ばれたのはロアだった。公爵夫人よりも公女に話がある、その時点で嫌な予感がした。使者というのが他でもない元老院だったからだ。
「……姉上が彼らを
ちいさく落とされた声に、テレーゼは柳眉を逆立てる。たしかにテレーゼは元老院を警戒している。戦場でアルウェンは戦えない身体になってしまった。その一度の失敗で白の王宮はアルウェンを、オリシスを見限った。心を許すような相手ではない。他ならぬロアがそれを知っていたはずだ。
「悔やみの言葉ならいただいたあとです。彼らに用などありません」
「詰問されて困るようなことでもあるのですか?」
テレーゼはぐっと拳に力を入れる。元老院が最初にオリシスに接触してきたのは、アルウェンの葬儀が終わって幾日も経たぬうちだった。
「ロア。わかるでしょう? あなたは、惑わされているの」
それから元老院の訪問はつづいている。彼らは公女と対話を求めてやって来る。使者と偽って、あたかもアナクレオン王の声を届けるかのように。
「私は、そんなに子どもではありませんよ」
成人したロアはアルウェンからオリシス騎士団を引き継いでいる。軍事に関わることのすべてが、これから先はロアの手で下される。危機感を抱いたのはテレーゼだけだろうか。政治関係ならばアルウェンの叔父が助けてくれるものの、軍事権になるとそうはいかない。まだ若いロアに委ねてしまうのは早すぎる。そう、訴えるテレーゼだが、他に適任者がいなかったのも事実だ。
「姉上は怯えているようだ。私が、力を持つことがそんなにおそろしいのですか?」
「そうは言っていないわ」
ただ、それでも不安なのだ。オリシスはイレスダートのなかでも国力のある国で、騎士団も強い。ロアの一存だけで動かしてはならない力だと、テレーゼはそう思う。
「こわいのは、私が彼らに剣を向けることが、でしょう?」
「ロア」
堪らず声を大きくしても、義理妹は冷笑で返してくるだけだ。
「なにを言っているの? アルウェン様が殺されたとき、あなたも見たでしょう? 現場になにも残されてはいなかった。それに、あれは人に力とは思えないほどの、」
「しかし、人ならざる力なら持っている者がいるではないですか? たとえば、王家の姫君が」
「馬鹿なことを言わないで!」
いつもそうだ。ロアと会話をつづけているうちに、噛み合わない言葉を繰り返して最後にはどちらかが相手を怒鳴りつけてしまう。
「では、聖騎士は? あれはイレスダートの叛逆者だ。最初の犠牲が兄上だった」
「やめて」
「そうでなければおかしい。そう、思いませんか? それとも、イレスダートから逃げるような理由が他にあるとでも?」
「やめて、ロア」
アストレアの公子と王家の末姫。彼らがこのオリシスに身を寄せていた事実はごくわずかな者しか知らず、そしてそれは禁忌のように口に出すことを憚られていた。どうして、ロアはそれを口にするのだろう。元老院はなにを言って、ロアに唆したのだろう。
「いつから姉上は現実から目を逸らすようになったのですか? あれは許し難き叛逆者だ。知らないというのなら、教えて差しあげます。アストレアの公子は独断でルドラスの銀の騎士と接触し交渉した。売国行為にも等しい行いです。王女の
途中で耳を塞いでしまえば、皆まできかずに済んだのかもしれない。ともすれば震えそうになる肩を、テレーゼは両手で抱きしめる。ロアの声は止まらない。元老院が義理妹に囁いた声、それがそのままつづけられる。
「あの男が、兄上を殺したのです」
涙を零してしまっては、ならない。テレーゼはそれに耐えながら、ロアの声をきく。己を見つめる義理妹の顔がぞっとするほどに冷たかった。何の感情も孕んでいないその瞳、いつからロアはこんな目をするようになったのだろう。
「目を背けているのはあなたの方だ、姉上。イレスダートから逃亡し、その先のサリタでも自国の騎士に剣を向けた。それだけに留まらず、あろうことか西の大国の争いに加担したというではありませんか。これが、反逆行為でなければ何と説明するべきです? あれはもう立派な逆賊だ。イレスダートにとって危険なのです……!」
テレーゼはほとんど倒れ込むようにして、カウチに座った。先日、騎士団の一人が西の大国ラ・ガーディアから戻って来た。西の情勢をきいたとき、テレーゼはそこに聖騎士が関わっていた事実に驚きを隠せなかった。そして、レオナ王女。彼らが無事だと安堵しつつも、複雑な気持ちになるのはどうしてだろう。一度たりとも疑ったことはないのに、頭が混乱してなにも考えられなくなる。
「もういいわ、ロア。それ以上は、ききたくありません」
頭痛を覚えてテレーゼは深く息を吐く。
「あなたは彼らを憎むことで、悲しみを忘れようとしているだけ。お願いだから、自分の心を偽らないで」
「あなたにそれを言われたくはない。姉上こそ、彼らを信じようとしているだけだ」
「ロア。私は、」
「ならば、なぜ彼らは逃げたのです?」
それは、と。つづけようとしたところで声は途切れてしまった。ロアの言っていることは、ある意味では正しいのかもしれない。
あの夜、目撃者はいたのだ。
アルウェンに
彼らではない。テレーゼが信じて疑わないのは、アルウェンの残した声をよく覚えているからだ。
祖国を追われてオリシスを頼った聖騎士をアルウェンは快く迎え入れた。テレーゼはアルウェンの声をちゃんと覚えている。大きな流れが動き出しているのかもしれない。自分は白の王宮にもアナクレオン陛下にも、もう関わることができない。それでも、イレスダートのためにできることはたくさんある。
「姉上。なぜ、答えてはくれないのですか? 彼らはシャルロットまで連れ去ったというのに」
彼女はあきらかに苛立っていた。攻撃的な
「ロッテは……」
テレーゼは自由都市サリタから届いた手紙を思い出す。アルウェンの養女シャルロットもまた、聖騎士たちとともに消息を絶った。ロアはシャルロットが彼らの人質として連れ去られたのだと、声を大きくする。しかし、サリタの孤児院からの手紙にはそれとはまったく別のことが綴られていた。テレーゼは孤児院を一人で切り盛りするマザーという女性を知らなかったが、精緻な文字で書かれたその手紙を疑う気にはなれなかった。
ややこの泣き声がきこえてきたのは、そのときだった。
ずっと向こうの部屋で控えていたのだろう。侍女が会話が終わるまで待ちきれなかったのは、子が泣き出してしまったからだ。
ロアが無遠慮なため息を吐く。話は終わりだ。追い縋ろうとするテレーゼの腕のなかで子どもがぐずっている。あまりひどい癇癪を起こさない子だったのに、母親の感情に過敏になっているのかもしれない。
「姉上には政治にも軍事にも関わるような権利はない。だから、今後はすべて私が決める。白の王宮の要請があればオリシスは応じる。誰が何と言おうと、私は止まるつもりなどありません」
「ロア、やめて。それではいずれ彼らと、」
「ええ。戦うことにもなるでしょうね。それこそ、本望です」
そんなことを、どうして黙って見ていられようか。
アルウェンが未来を託した者たちはたくさんいる。聖騎士と王女、それに妹のロア。テレーゼにとっても大切な人たちだ。それがなぜ刃を交えることになってしまうのだろう。テレーゼには、わからない。理解したくもない。
「その子も、守るためです」
やおら振り返ったロアは、騎士ではなく家族に向けるやさしい表情だった。
それなのに、どうして? テレーゼは繰り返す。お腹が空いているのだろう。子どもがテレーゼの袖を吸っている。この子はアルウェンが残してくれた希望だ。そう、オリシスにとっての光。ロアはこの子を守ってくれると約束してくれた。次の公爵はこの子、成人してちゃんと大人になるその日まで、ロアがオリシスを守ってくれるはずだった。
もっと強い女であればよかったと、テレーゼは泣く。去って行ったロアの背をいつまでも見つめながら、ごめんなさいと。誰にも届かないほどのちいさい声で、テレーゼはそう声を落とした。
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