イレスダートの聖騎士

六章 あるべき場所へ

罪人の代名詞

雪原にて

　重く陰鬱な灰色と、白の二色しか存在しない大地だった。

　膝までずっしりと積もった雪は水分を多く含んでいるために、その一歩を踏み出すたびに体力を消耗する。どれだけ分厚い外套を着込んだところで寒さは凌げずに、かえって動きを鈍くするだけだ。指先の感覚がなくなったのはいつからか。これが長くつづけば凍傷の心配をしなければならないが、まだどうにか動くことに安心をする。それでも視界の邪魔をして、世界から音を奪ってゆく風が止むことはなかった。呼吸が浅くなれば、その先に待つのは死だけだろう。

　当然だ。殺すために造っているのだから。

　唇の端を持ちあげてアイリスは嗤う。それが笑みとしての形を作っていたかどうか、たしかめる術はない。振り返ったところで、後続にいるのはわずかな兵だけだ。

　いまさら、心は痛まなかった。もとよりルダは氷と寒さでできた国だ。魔力の弱い者は死ぬ。王都マイアからの騎士団が迫っているいま、戦って死ぬかそれともルダの寒さに耐えられずに死ぬか、そのどちらかである。

　胸にあるのは懺悔ではなく感謝であると、アイリスはいつも思う。死んでいった者たちはアイリスを信じた者たちだ。だから、その想いを裏切ることはできないし、彼らのためにも戦いつづける必要がある。

「もどりましょう」

　風の音にかき消されそうなくらいにちいさな声だった。しかし、アイリスの耳にはしっかり届いた。彼は何度なく置いて行かれようとも、アイリスのうしろに付いて来ている。

「戻りましょう。……限界です」

　少年の声はつづく。ちょうど声変わりを終えたくらいの頼りない少年の声だ。アイリスはまだ、振り返らない。

「うるさい」

　唇が震えてうまく音として出せなかった。アイリスは舌打ちする。

「姉上。お願いですから、」

「黙んなさいよ」

　ようやく振り返った。そこには少年が一人、あとにつづくのは少年の侍従たちだ。数は四、いつのまにこんなに減ってしまったのだろう。いや、途中で置き去りにしたのはアイリス自身で、もしかしたら彼らはまだ生きているかもしれない。

　なんて馬鹿な望みなのだろう。自嘲の笑みを浮かべながらアイリスは空を見あげる。そこには太陽など拝めずに、代わりに見えたのは分厚い灰色の雲だけだ。

　ルダはいつもそうだ。太陽なんて何の役にも立たない。春も夏もあっというまに過ぎ去ってしまうし、太陽はすぐに隠れて北風ばかりが強くなる。落葉樹が丸裸になる頃には一面が雪だ。でも、アイリスはルダ以外の国を知らなかったし、生まれた国のために戦うことは、誰かに決められたわけじゃない。

　馬鹿みたいだと、思う。

　イレスダートの最北西に位置するルダは、北国ゆえに沃土（よくど）に乏しい土地である。城塞都市ガレリアとおなじく、このルダも王都マイアからの支援がなければとても冬は越せない国だ。それでも足りない年には、近隣の国にも助けてもらうくらいにルダは貧しい。なんでこんなところに国なんて作ったのだろう。アイリスは先人たちをときどき恨みたくなる。人と竜がまだ共存していた時代に、竜の脅威から逃げた人間たちがようやく見つけた土地だ。そう教えてくれたのはアイリスの母で、母はアイリスに魔力の使い方も皆まで教えてくれた。

　ルダに生まれし者にとって、魔力は身を守る術である。

　劣悪ともいえる環境に耐えるには、相応の魔力に恵まれていなければ生き残れない。だからルダの子どもは魔力を宿して生まれてくるし、稀に魔力を持たずに生まれたその子は大人たちみんなに守られる。十歳になってようやく身体がルダの寒さに耐えられるようになれば、その子たちはルダの魔道士や聖職者を守護する騎士の道を選ぶ。みんなそうやって強くなる。そうして魔道士たちも騎士たちも、成人する前に王都マイアに行く。彼らは故郷を捨てたのではなく、しかし今度はマイアのために力を使う。それがルダの歴史だ。

　代価として与えられてきたものを、アイリスは否定する気はない。

　だからこそ、裏切りを許せなく思う。白の王宮は予告なくしてルダへの支援を打ち切った。ただひとつ寄越された書状にはあるまじき罪状が綴られていた。

「あ、姉上……っ！」

　少年の叫びがきこえる。数歩前に出ていたら、アイリスは矢の餌食になっていた。そこまで敵が接近していたのだ。そんなことにも気づかなかったなんて、笑いが出てくる。

「姉上、」

「うるさいっ！　あんたは、自分の身を守ることだけ考えなさいっ！」

　少年の侍従たちは命を懸けて彼を守るだろう。弟はルダを継ぐ者として、生き残らなければならない使命にある。身内を気遣っている余裕があるのなら、さっさと魔法障壁を張ればいい。

「来るなら、こい」

　アイリスは己が纏っていた魔力を次は攻撃の手段へと変える。弓騎士が五人、しかしそれを攻撃しているあいだに他の騎士が襲ってくる。隠れているのは山毛欅（ブナ）の木か。白く染まった落葉樹の森には、他にも多数の敵が潜んでいるのかもしれない。

「近づけば、殺す」

　最初に踏み込んで来た騎士が串刺しとなった。アイリスの魔力とルダの大地はルダへの侵入者を許さない。地表から出現した氷柱に射貫かれた人間の血が流れていく。一面が白の世界に赤が混じった。招かれざる客はみんなこうなるんだ。笑おうとして、しかし笑みを作るのに失敗した。息苦しさに喘ぐアイリスは膝をつきそうになった自身を叱咤する。

「姉上！　もうやめてください！」

「ちかよるな……っ！」

　アイリスの肩を掴もうとした少年を思いきり突き飛ばした。少年はそのまま前のめりに倒れ込む。いつもながらどんくさい弟だ。半身が雪のなかに埋まっていて、侍従たちが彼を助けている。そう、これでいいのだ。少年がアイリスより前に出てこなければ、敵の攻撃は彼には届かない。だからここはアイリスが一人で戦わなければならない。

　アイリスは片手で印を結び直し、今度は敵へと見えるように魔力を放つ。威力はわざと落としてみせた。地表から串刺しとなるか、もしくは氷漬けとなるか。好みの方を選ばせてやってもいい。しかし、騎士たちはすぐには動かずにいる。威嚇や牽制など通じないさすがは王都マイアの騎士たちだ。おそらく、アイリスの強がりなどとっくに見抜かれている。

　酷使しつづけてきた魔力が尽きるときがきた。アイリスの負けだ。魔力切れの魔道士など王国騎士にとっては赤子の手をひねるに等しく、アイリスはここで殺されて弟は俘虜（ふりょ）として連れて行かれる。

　背後では弟が叫びつづけている。うるさい。そんなに喚かなくともきこえているし、どれだけ邪魔されようとも退くつもりはない。成人まであと三年も残した頼りない少年でも弟がルダの希望なのだ。あれを守るためならば、アイリスは己の魔力が尽きようとも戦うのをやめない。

　そうだ、ここが正念場だ。

　アイリスは書庫で見つけた古書を思い出す。ルダの先人たちはもっと強い魔法を使えていたがあるときから禁術として封じてしまった。その意味が、いまならわかる。身体を巡る血液と魔力の流れを感じる。あいつらはみんな殺さなくてはならない。

　アイリスは王国の騎士たちに向けて右手をかざした。恐怖はまるで感じなかったが、思った以上に心は虚しかった。こんな満身創痍の身体で、魔力を極限まで解き放てばどうなるか。だから弟は必死な声をする。この力を放てばアイリスは死ぬ。それこそ、敵の剣に貫かれる前に。　

「やめておきなさい。それは、あなたの手には余る呪法です」

　ところが、アイリスが唱えていた呪いの言葉は、そこで遮られた。掲げていた右手も誰かに掴まれている。いったい、誰だろう。フード付きの外套で顔はよく見えなかったが、わずかな隙間から目は見える。怒っている。最初に感じた相手の感情はそれだ。

「あんた……、いったい？」

　魔力を集中させていたとはいえ、こんな至近距離に至るまでアイリスが気づかなかったとすれば、相手は同等の魔道士か。そうでなければ、魔力のにおいを消してここまで近づけるはずがない。

「セルジュ！」

　第三者の介入はそれだけではなかった。突然の乱入者たちは王国軍を相手に戦っている。一瞬だけ惚（ほう）けてしまっていたアイリスも、すぐにその四人を見た。騎士が三人、そのうちの一人は弓騎士だ。四人のなかで格別に強い者がいる。雪に慣れていないのかやや戦いにくそうにしているものの、一人だけ動きがちがう。金で雇われた傭兵かなにかか。そんなことはどうだっていい。重要なのは、こいつらが味方かどうか、だ。

「あ、姉上ぇ」

「なによ、泣き虫」

　侍従たちにやっと助けられた弟が戻ってきた。頭から雪のなかに突っ込んだせいか半泣きだ。少年を罵りながらもアイリスはそれとなく視線を逸らす。むしろ気が緩んで涙が落ちそうになったのはアイリスの方で、下唇に歯を立てて意地でもそれを堪える。

　そうするうちに戦闘も終わっていたらしい。

　乱入者たちを値踏みするような目で見ていたアイリスは、やっとそこで気が付く。彼らは一人を除いて騎士の挙止（きょし）をする。そのうちの一人と目が合って、それを確信に変える。なるほど、この優男には覚えがある。

「間に合って、よかった」

　これのどこが間に合ったというのだろうか。失笑するところだがそれも癪で、アイリスはため息を吐く。ただ、助けられたという点はたしかに事実だろう。アイリスは目顔でまず弟に指示する。さっさと涙を拭きなさい。男がみっともない。

「あ、あの……、この方たちは？」

「いやだ。誰かと思えば、アストレアの聖騎士じゃない」

　弟の声を遮って、アイリスは言う。聖騎士と呼ばれた一人がフードを取った。青髪はアストレア人によく見られる色だ。眼の色も青く、清冽な水の色と似ている。まるでそれは聖騎士の祖国、アストレアの湖の色のように。　

「お尋ね者のあなたが、どうしてこのルダにいるのかしら？」

　救援者に向かって吐くような言葉じゃない。それでもひとつ嫌味くらいは言いたかった。アイリスの声に、聖騎士は目をしばたかせた。