蒼空を翔ける

 セシリアはもうずっと長いあいだその前で佇んでいた。

 ここには彼の家族が眠っている。エルグランの公女とヴァルハルワ教会の司祭、そのどちらともセシリアは会ったことがなかった。ジェラールの両親は幼い彼を置いて病死したからだ。

 さびしくなんてないよ。四つ上の少年はそう言った。敬虔なるヴァルハルワ教徒は己の天命を受け入れる。宿痾しゅくあに苦しみながら、しかし冥界へと旅立つそのときには幸福が約束されると、教徒たちは信じている。

 ジェラールもおなじだったのだろうか。

 石碑の前に立ってもなお、セシリアはそれが現実だと受け入れられずにいた。長い祈りの言葉を終えて、彼が好んでいた青い花を手向ける。敷地内はエルグランの王族、もしくは彼に近しい一族しか出入りを許されていなかったが、セシリアは特別に許可された。案内役の老爺ろうやは引退した執事長で、セシリアを見て顔をくしゃくしゃにして泣いた。

 老爺に向けて謝罪の声をする。さぞ恨みつらみを投げつけられるだろうと、そう思っていたのに、老爺はただ黙ってここへと連れてきてくれた。

 それから小一時間は過ぎただろうか。

 季節はすっかり春だというのに、頬に当たる風は冷たかった。セシリアはグランの風が好きだったが、この風が彼の命を奪ったのだと思うと、心は苦しくなるばかりだった。

 いや、ちがう。ジェラールをほふったのはグランの空じゃない。セシリアの拳が震える。竜の谷で会った竜人ドラグナーの青年を思い出す。いきなり襲ってきたエルグランの竜騎士たちは、竜人ドラグナーが造った風の力でばらばらになった。敵の襲撃からこちらを守ってくれたというが、とんでもない。あんな異端な力をその目で見たからこそ、セシリアは聖騎士の言葉を信じられた。

 風が強くなってきたので、老爺がセシリアを呼びに来た。

 居館に戻って香茶を淹れてくれるという。セシリアは黙って老爺のあとを付いていった。辺境の砦には何度も来たことがある。兄レオンハルトのように、我が物顔をして歩くつもりはなかったものの、しかし侍従たちや侍女たちもセシリアを知っている。

 ひと月前と何も変わっていないように見えても、喪が明けたいまでも城塞は悲しみに包まれている。

 回廊を行く途中で、セシリアは思わず足を止めた。セシリアを看病してくれた侍女がこちらを見つめていた。ちゃんとした礼を言っていなかったと、頭をさげたセシリアに侍女は苦笑する。きっと、他に言いたいこともたくさんあったのだろう。老爺も侍女も、誰もセシリアを責めなかった。

 やがて、書庫へと着いた。セシリアの目頭が熱くなった。香茶と焼き菓子を置いて、老爺は去って行く。ここで泣けるようにと、一人にしてくれたのかもしれない。

 いつもジェラールが掛けていたカウチに向かって、セシリアはぽつりぽつりと声を落とす。グランルーザとエルグランの戦いは終わった。エルグラン王は自決を選んでしまった。エルグラン内で猖獗しょうけつする病を知って、兄レオンハルトは宿痾に苦しむ民を助けると約束した。王とその跡継ぎを立てつづけに失ったエルグランは混乱するかと思われたが、玉座は王弟が預かった。だからもう、何の心配も要らないのだと、セシリアはつづけていく。

 なんだ、叔父上が出てきてくれたなら、僕はもう必要ないな。そう、ジェラールがつぶやく声がきこえる。そうだねと、セシリアも答える。本当にそうだ。大人しい気質と言われたエルグランの王弟は、自分が玉座を奪い合う争いの種になることを恐れていたらしい。でも、かの人がもっと早く表舞台に出てきてくれたなら、ジェラールは。そこまでたどり着いて、セシリアはかぶりを振る。老爺が淹れてくれた香茶はすっかり冷めてしまっていた。

 夕暮れが近付く前にセシリアは竜舎に向かった。眠っていたのか、ベロニカはセシリアが来るときゅうと啼いた。ここに来るといつも長居する、そんな風に思われていたようで、セシリアはベロニカを撫でながらちょっと笑った。

 愛竜ベロニカの背に跨がり、蒼空を翔ける。

 セシリアはグランの空をよく知っていた。風、におい、色。一番好きなのは夜が明けるときの空だ。闇の色が群青へと、しばらくして朱と橙の色に変わっていく。世界がもっとも美しく輝く、その瞬間が好きだった。

 いつかジェラールとふたりで、おなじ空を翔けたことがあった。セシリアの頬を一筋の滴が伝う。後悔していたことをセシリアは認める。もしも、あのときジェラールのところへと留まって、そうして彼の妻になることを選んだのならば。根気強く訴えつづけていれば、その声はジェラールにもエルグラン王にも届いていたのではないか。詮なき思いが溢れて止まらないのは、セシリアが過去に縋っているせいだろう。

 でも、と。セシリアの唇が動く。

 二日前に、セシリアはジェラールの通っていた修道院を訪れた。思ったよりも病人の数が多く、病室で眠る子どもの姿に胸が苦しくなった。もっとたくさんの物資を届けるべきだったと、悔恨にうつむくセシリアに修道女たちが頭をさげる。そして、子どもたちもその無邪気な笑みをセシリアに向けてくれたのだった。

 そこではグランルーザもエルグランも関係がなかった。己の正体を名乗らずとも、修道女たちは薄々気がついていたはずだ。グラン王国のふたつの国、グランルーザとエルグランの関係がすぐに修復するのは、むずかしいかもしれない。それでも、お互いを尊重し合える心があれば、変わっていくきっかけにはなる。私たちは憎しみ合う敵なんかじゃない。そして、彼の守ろうとしたものをセシリアも守りたいと、そう思う。 

「わすれません。私は、あなたを」

 セシリアはいとしい人の名前を紡ぐ。グランの空に向けて。ジェラールの声がきこえた気がした。










 ブレイヴがレオンハルトに呼び出されたとき、客間には要人たちがすでに集まっていた。

 要人といってもグランルーザの面々ではなく、ブレイヴの軍師も異国の剣士クライドもいる。レオンハルトの隣にはセシリアとアイリオーネもいるし、最後に扉をたたいたのは幼なじみだった。

「ルダからの要請がきた」

 レオナの到着を待って、レオンハルトが言った。彼に目顔で促されてブレイヴは長机の上を見る。封蝋ふうろうを切って取り出されたそれは書状だった。

「アイリスだ。内面は、ほとんど脅迫のようなものだがな」

「脅迫?」

 レオンハルトは苦笑で返してくる。中を読んで見ろということだ。ブレイヴは書状を手に取ったが、十枚以上の大作に嫌な予感しかしなかった。

「白の王宮が、ルダを……?」

 五枚目に差しかかるところでつぶやいた。四枚目までは白の王宮とアナクレオン陛下への悪口がほとんどで、前後を読み返してみてもまるで突拍子がなく意図が掴みづらかった。

「さて、元老院だかアナクレオン陛下だかわからんが。ともかく、ルダにマイアの軍勢が迫っている」

「そんな馬鹿な……」

 飲み込みの悪いブレイヴに辟易したのか、レオンハルトが先に言う。ブレイヴはふたたび絶句する。セシリアとアイリオーネはすでに内容を知っているのだろう。とはいうものの、あとから呼ばれたセルジュやクライドは怪訝そうな表情でいるし、幼なじみの顔色も悪い。

「しかし、ルダには、」

「ルダには義理姉ねえさまがいるわ。それに……」

「ああ。王子は産まれて半年というところらしい。それに王妃も産後の肥立ちがあまり良くないと書いてあるな」

 レオナがつぶやいて、レオンハルトが継ぐ。はっとしてブレイヴは幼なじみを見た。あれはオリシスに身を寄せていた頃だ。マリアベル王妃は身重にもかかわらずに王都マイアからルダへと送られた。もとより身体のあまり強くなかった王妃殿下だ。イレスダート最北西に位置するルダは、冬が長くて夏の短いいわば雪国である。比較的温暖な気候の王都からわざわざ引き離す理由が見えない。そう、ブレイヴは声を落としたはずだった。

「つまり、ルダもアストレアのように、謂われなき猜疑を掛けられているというわけですね」

「まあ、そんなところだ」

 相手が一国の王子でも無遠慮な声をするのがセルジュだ。特に気にするわけでもなかったのか、レオンハルトは首肯する。ブレイヴはふたたび書状に目を戻す。レオンハルトが脅迫と言った意味がわかってきた。

「アイリスはグランの……、きみの援軍を求めているのか?」

「事が事だからな。まあ、俺としても可愛い義理妹いもうとの力になってやりたいところだが」

 不可能だ。ブレイヴは口のなかでいう。グラン王国では戦争が終わったばかりで、とてもルダへと加勢できるような兵力がない。

「この書状はいつ……?」

「半月ほど前だ。放置していたわけじゃないぞ。すまんが、こっちもそれどころではなかったからな」

 頭を掻きながら笑うレオンハルトだが相手が悪すぎる。この書状の送り主はルダの公女アイリス。アイリオーネの妹が、はいそうですかと納得するような性格ならばこんな十枚にも渡る手紙を寄越したりはしない。

「……で、だ。肝心なのはそこじゃない。そのあとだ」

「そのあと?」

「ああ、まだたどり着いていないなら言ってやる。ルダにマイアの騎士団を送ったのはアナクレオン陛下だ」

「そんな馬鹿な……!」

「落ち着け。アイリスのことだから、多少の誇張はあるかもしれん。だが、元老院だけで騎士団を動かせると思うか?」

 反論しかけてブレイヴは止まる。答えがだったからだ。

「ありえません」

 代わりに応えたのは幼なじみだった。レオンハルトがくつくつ笑っている。

「まあ、どのみちここでは真偽はたしかめようがないだろう?」

「では、次はルダに行くのか?」

 クライドだ。異国の戦士の声にレオンハルトがにやっとした。

「俺としては行ってもらいたいんだがな。……悪いがグランの竜騎士団は動かせん」

「わかっているよ、レオンハルト」

 彼が夜半にこうして皆を集めたのはこのためだ。

「だけど、イレスダートから消えた聖騎士が、いきなりルダに現れたらきっとアイリスは警戒する」

 むしろ逆に敵と見做される可能性もある。ルダのアイリスとブレイヴは顔見知りだが、まともに取り合ってもらえるかむずかしいところだ。 

「でしたら、私もまいりましょう」

「アイリ義理姉ねえさま……!」

 申し出たのはアイリオーネで、止めようとするのはセシリアだ。たしかに役者としてはルダ出身のアイリオーネが一番適任だろう。

「あら、どうして? ルダは私の国よ?」

「で、ですが……。その、いまは」

「すぐに動ける竜騎士たち、その何人かを貸してくれるだけでいいわ。彼らにルダまで連れて行ってもらいます」

 名案だとばかりに、アイリオーネは手をたたく。止めてほしい。セシリアの視線を受けてブレイヴはレオンハルトを見た。彼はむっつりと唇を結んでいる。いいのだろうかと、問うまでもなさそうだ。

「では、さっそく行程を話し合いましょう。セルジュ、お願いできますか?」

「……かしこまりました」

 セルジュにしては物わかりがいい。軍師も気づいているのかもしれない。イレスダートへと戻って祖国アストレアを取り戻す。その足がかりとなるのはルダ、せっかくの機会を取り逃すのは馬鹿げているし、ここで躊躇っていればルダを見捨てることになる。

「すまんな。また借りが増えた」

 そのうち倍にして返してやる。たぶん、それはレオンハルトの口癖のひとつだ。

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