届かなかった声

 急速にさがった気温に、まず人の身体は耐えられない。

 肺まで凍りつかせるほどの寒さだ。手足の震えが止まらないだけで済めばいいが、そのうちに満足な呼吸もできなくなり、その先に待つのは死のみだ。

 だが、レオナの相好そうごうは変わらずにいる。答えは簡単だ。この魔力はレオナ自らが造りだしたもの、いまレオナは全身に氷を纏っている。

 ほんの数カ月前まで、レオナは簡単な氷を作り出すことさえできなかった。

 魔力をその身に宿して生まれた者には、それぞれ特性がある。火、水、風、土といった四大元素を扱う攻撃特化の魔法を得意する者は魔道士に、治癒魔法や防御魔法の使い手は聖職者の道を歩む。ごく稀に攻撃も治癒も防御も、それらすべてを得意とする者もいる。たとえばレオナの姉ソニアがそうだ。

 幼い頃のレオナは兄妹たちと魔法の訓練をしては、途中で投げ出した。

 ソニアが発動させた炎の玉を、兄のアナクレオンは簡単に受け止める。実際にはアナクレオンの周りに張った魔法壁が炎を阻んでいたのだが、幼いレオナにはとても真似できるような代物ではなかった。

 そう、炎を作り出すことも魔法壁を張ることも、そのどちらもレオナにはできなかったのだ。

 いわゆる王家の出来損ないだった末姫に、竜の聖痕が現れたのは天のきまぐれのひとつだったのだろうか。最初の光は幼なじみたちを守ろうとして解放した力だった。その次のサリタも似たような状況だった。そのうちにレオナは自分の意思で竜の力を制御できるようになる。ウルーグの王城に身を寄せていたとき、魔道士の少年と一緒に魔力の鍛錬に務めたからだ。

 初歩的な攻撃魔法なら詠唱もなしに使えるようになった。

 最初の魔法は風、しかしこれは師匠が風を得意とする魔道士の少年だったからだ。アステアの前で試そうとは思わなかったが、その気になれば他の魔法も使えるのではないか。の魔道士はまず精神を集中させて、自然界の精力と自身の魔力を合わせて魔法を発動させるが、癒やしの魔力を発動させるときだってそうあれこれ考えずとも、レオナにはそれが可能だった。

 ああ、そうか。試してみる必要がなかったのではなく、試せるような相手がいなかっただけだ。

 レオナは微笑む。己の魔力を意のままに操るのは造作もないこと、レオナはいま王の寝室を氷の空間へと造り変えている。

 一度だけ、背後のアイリオーネとカミロ王を見た。二人を襲っていた黒い炎は消えていた。つまりレオナの魔力がユノ・ジュールの力を上回っていたことを意味する。

「あなたの望みどおりよ? もう、ふたりには手出しをさせない」

 彼が以前のような子どもの姿ならば、あるいは挑発にも応じたのかもしれない。ぞっとするほどに美しいその白いかおには、何の感情も見えない。それとも、これが狙いどおりだったとでも言いたいのだろうか。

「ぜったいに、殺させない。ふたりは、わたしが守ってみせます」

 アイリオーネが何かを叫んでいる。でも、心配なんて要らない。ウルーグで彼と戦ったときよりも己の力が強くなっているのを感じる。空間そのものを氷に変えてレオナのものにしてもなお、魔力は無尽蔵に溢れてくる。

「……そうでなくては、つまらない」

 笑みさえ浮かべずに、彼はそう吐き捨てた。 

 ユノ・ジュールが操る炎はまるで生き物のようだ。その身を焼き尽くすまで消えることのない業火。魔力を持たない普通の人間ならば、いやある程度の魔力に守られていたとしても、とっくにその身は灰と化している。アイリオーネがそれに耐えていたのは奇跡だ。使命感が彼女を突き動かしていたのだろう。しかし、それはあまりに無謀だ。過剰な魔力を使いつづければ寿命を大きく縮めてしまう。魔道士たちは力量を見誤らないから、ちゃんと自分の魔力は制御している。

 レオナは無数の氷の刃を造り出した。これはいわば意趣返しだ。

 いつだったか、ユノ・ジュールは空間に氷で造った刃を出現させた。鉄や鋼よりも硬い水晶クリスタルにも匹敵する強度、魔力を帯びたそれは魔法壁にも届く。

 二つの魔力がぶつかった。レオナの放った氷の刃は彼の身体を貫く前に溶かされていた。反対に彼の造った灼熱の炎は、レオナの髪を焦がすより先に消滅する。

 互角に見えても実際はそうではない。ユノ・ジュールの力はこんなものではなかったし、レオナ自身にもまだ余裕があるのだ。いや、正確に言えばそれも正しくない。こんな戦いをいつまでもつづけていたらレオナは無事でも、アイリオーネが先に力尽きてしまう。

 このままでは、いけない。ユノ・ジュールの次の攻撃がはじまる前に、レオナは右腕に雷を纏わせた。氷と光。ふたつの属性魔法を一度に使った経験はなく、それほどの魔力を酷使すれば竜人ドラグナーといえども魔力が枯渇するだろう。しかし、その危険な賭けでも乗るしかない。

 レオナを睥睨へいげいする青玉石サファイアの瞳は冷たく、そこから感情を読み取るのはやはり不可能だった。殺すつもりならば彼はとっくにそうしている。でも、それをしないのはなぜか。無邪気な子どもの姿のときとはちがう。弱者をなぶって遊んでいるようにも見えないのは、彼の目的が別にあるのではないかと、レオナはそう思ってしまう。

「くだらないな、本当に」

「なんですって?」

 お気に入りだった玩具おもちゃを急に飽きてしまった子どものように、彼は言う。

「……だが、試してみる価値はありそうだ」

 つぶやきが終わると、ユノ・ジュールは自らの左腕に雷を纏った。炎と雷。相反する炎と氷こそちがえど、聖なる雷光はレオナとおなじ力だ。

「い、いけない……っ!」

 すべての攻撃を止めて防御に変えても間に合わない。だからといってユノ・ジュールよりも早く雷撃を食らわせる自信もなければ、攻撃を放てばあの雷光を真面に食らってしまう。耐えられるか。母がレオナに遺してくれた指環はもう、ない。

 白い光が見える。考えているような時間ももうなかった。ともかく攻撃だ。レオナが押し負ければうしろの二人は助からない。アイリオーネとカミロ王、ふたりが灰と化すところなんて見たくない。

 そして、それは一瞬だった。

 足に力が入らなくなって、レオナは膝を突いた。顔を下にしてはならないのに、呼吸が苦しくてそれも叶わない。どうなったのだろう。レオナの雷撃はたしかに彼を貫いた。ユノ・ジュールの雷光はたしかにレオナを襲った。痛みがこないのは痛覚さえ麻痺してしまったせいなのか。わからない。目の前が白くなったとき、レオナの力は弾かれた。あれはそういう感覚だった。

「ねえ、ずいぶんとお遊びが過ぎるのではなくて?」

 突然上から降ってきた声に、レオナは目をみはった。そこにいたのは魔女だった。

 波打つ長い髪は神秘の紫の色をしている。漆黒のドレスからは美しい白磁の肢体がのぞいている。視線をもっと上にしてみれば目が合った。レオナとおなじ青玉石サファイアの瞳が見つめている。そこには慈悲など見えずに、あるとしたら憐憫れんびんの情だろうか。

「ねえ、さま……?」

 レオナの唇が勝手にそう動いた。真っ赤に彩られた女の唇が笑みを描いた。いいえ、ちがう。レオナは否定しようとする。レオナの姉はあんな濃い色の口紅を好まなかったし、露出の高いドレスを嫌っていた。

「ソニア、姉さま、なの?」

 それなのに、レオナはその人の名を紡いでしまう。姉のソニアがこんなところにいるはずがない。

 ソニアという人は、六年前にイレスダートとルドラスの境で消息を絶った人だ。それがどうしてグラン王国にいるのか。レオナには理解できない。 

 だって、そうじゃないか。あのユノ・ジュールという竜人ドラグナーは、レオナの敵なのだ。オリシスのアルウェンをほふり、イスカの戦士たちを虐殺し、ジェラールという人も人間ではないものに変えてしまった。許してはならない、敵。

「どうして、」

 レオナの声など、きっと届いてはいない。女はユノ・ジュールを抱き竦めている。あのとき、勝っていたのはレオナの力だったなんて、どうだっていい。

「……なぜ、ここに来た? イシュタリカ」

「あら? ずいぶんな言葉ね。この国はもうおしまい。だったら、壊れた玩具おもちゃなんて、もういいでしょう?」

 まるで連れ合いのようだと、レオナは思った。同時に理解してしまった。レオナとユノ・ジュールと、二人の竜の力に割って入れる者がいるとしたら、この姉を置いて他にいないことを。 

「どうして……」

 レオナは喉の奥から声を絞り出す。

「どうして、なの? あなたは、ソニアねえさま、でしょう?」

 溢れ出てくる涙を拭いもせずにレオナはつづける。イシュタニア。彼はレオナの姉をそう呼んだ。あれは、西の大国ラ・ガーディア、その最果てのサラザールで魔女と呼ばれた女の名だ。

「こたえて。あなたは、わたしの……!」

 しかし、女はついにレオナに声を落とさなかった。女神の名を宿した魔女は微笑む。その相手はレオナではなく、彼だ。

「さあ、まいりましょう? ユノ・ジュール」

 あまく、人をとろかせるような声がきこえる。女は空間に闇を作り出す。行かないで、と。レオナは必死に手を伸ばす。二人の姿が闇のなかへ消えていくそのさまを、ただレオナは見つめるしかできなかった。



 










 かつてないほどにブレイヴは疲れていた。それほどに激しく、厳しい戦いだった。

 大部隊の敵を相手にしてもこちらは少数で切り抜ける、もしくは数万の敵と味方が入り乱れる戦場でも、どうにか生き抜けてきた。

 これまでは運が良かっただけかもしれない。

 思えば、いつもそうだった。イレスダートを追われてたどり着いた自由都市サリタ、追い詰められた吹き溜まりの場所で、ディアスが助けに来てくれなかったら本当に危なかった。ラ・ガーディアの動乱、イスカの獅子王との一騎打ちを望んだのはブレイヴ自身だが、あの人に勝てたのも悪運の強さのおかげだ。

 いつまでもそんなものに頼ってはいられない。エルグランの城内にやっと侵入できたとはいえ、竜騎士以外の敵もたくさん残っている。回廊では激しい戦闘の跡が窺えた。そこここに敵と味方の両方の死体が積み重なっている。先に行ったレオンハルトたちは相当派手に暴れたようだ。 

 少年の騎士がブレイヴに向かって侵略者と言った。

 たしかにそうだ。イレスダート人のブレイヴはグラン王国に関係ない人間で、しかし友人であるレオンハルトに加担している。それもエルグランの騎士たちの与り知らないこと、彼らにとって異国の聖騎士など侵略者そのものなのだろう。

 やがて、ブレイヴはそこへとたどり着いた。王の間だ。抵抗をつづけていた騎士たちの屍が積み重なっている。

「来たか、ブレイヴ」

 レオンハルトがエルグランの騎士たちと睨み合っていた。玉座の王と、主君を守る騎士たちはまだ抗うつもりなのだろう。でも、それも当然なのかもしれない。グランルーザの王城とて、いま頃はエルグランの竜騎士団の猛攻を受けているはずだ。

 ブレイヴはレオンハルトの横に並んだ。友の顔はひどく疲れていた。説得という名の交渉は無駄に終わったあとらしい。

 友のことを思うと胸が痛む。この場にいる誰もがジェラールという一人の竜騎士の死を悼んでいる。エルグラン王にとってジェラールは甥だった。エルグランの騎士たちにとって、ジェラールは次なる主君となる人だった。そしてレオンハルトにとって、ジェラールは幼なじみであり友であった。誰も彼の死など望んではいなかった。

 レオンハルトが玉座へと近付く。牽制の時間は終わりとばかりに、王を守る騎士たちが一斉に襲い掛かってきた。ブレイヴが剣を抜こうとすればレオンハルトがそれを制する。そのあいだに、レオンハルトの麾下きかたちが騎士らを斬っていた。 

「あなたは、エルグランを潰すつもりなのか?」

 レオンハルトはいま、怒っている。普段から声の大きい男だ。その声には怒りが滲み出ている。

 ブレイヴも玉座の王を見る。老齢だがグランルーザのカミロ王に劣らぬ武勇を誇った竜騎士だ。眼光は鋭く、レオンハルトにもまるで気圧けおされてはいなかった。

「私たちはエルグランを隷属れいぞくにするつもりはない。望むのはただひとつ、ふたたびこのグランに不可侵条約を」

 痛みを、悲しみを、憎しみを、怒りを。そのすべてを閉じ込めて、レオンハルトは言う。こんな争いは一刻も早くに終わらせるべきだ。

「だが、それにはあなたからの謝罪が欲しい。先に私たちを裏切ったのはあなただ。忘れたとは、言わせない」

 エルグラン王の唇がわずかに持ちあがったのをブレイヴは見た。発端は不可侵条約が破られたことからだ。だが、向こうにも言い分があるのかもしれない。グランルーザとエルグラン、ふたつの国に介入しているのはヴァルハルワ教会とユノ・ジュールという竜人ドラグナー。王はどこまで知っているのだろうか。

「くだらぬことを……」

「なに……?」

 気色ばむレオンハルトを止めるのがブレイヴの役目だろう。そろそろ限界だ。レオンハルトが飛び出す前に押さえ込めるかどうか。

 ブレイヴはレオンハルトの麾下たちに目顔で訴えた。三人の麾下たちは同時にうなずいた。四人掛かりならばどうにかなるかもしれない。

 ところが、突然の哄笑にそれは遮られた。エルグラン王が嗤っている。とうとう気が狂ったのかと、レオンハルトがそういう目で玉座を見つめる。

「くだらないと言ったのだよ、グランルーザの王子。ジェラールはもういない。だというのに、儂が他に何を望むと思うぞ?」

「っ、待て……っ!」

 レオンハルトが麾下に命じても遅かった。エルグラン王は懐から短刀を取り出すと自らの胸に突き立てた。ブレイヴもレオンハルトも、他の皆も絶句する。戦場にて、もしくは俘虜ふりょとなった騎士が自ら死を選ぶ姿は見てきた。けれども、そうじゃない。エルグラン王は敬虔な教徒だった。

「ヴァルハルワ教徒は、自殺を許されていなかったはずだ」

 そっとつぶやいたレオンハルトに、ブレイヴは何も答えられなかった。

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