アナクレオンの怒り
白の王宮には一部の上流貴族のみが集う
老爺や青年貴族まで身分は等しく、彼らは元老院議員と呼ばれている。王の
そこには十人ほどが集まっている。
円卓にはオリシス産の茶葉をたっぷり使った香茶に、最高級の
先ほどから喋り通しているのは青髪の青年貴族だ。ひと月ほど前に爵位を継いだばかりの青年だが、ここにいるからには同等の立場であると思い込んでいる。年長の者たちはほとんど彼の話をきいておらず、相槌を打っているのは黒髪の男だった。こちらもまだ若い。
「ですから、いま一度国王陛下に
唾を飛ばす青年貴族に黒髪の男が香茶のお代わりを勧める。若い彼は葡萄酒よりも香茶を好んでいたが、子ども扱いされているの誤解したのだろう。露骨にむっとした顔を作っている。
「聖騎士殿とアナクレオン陛下は
「なにを笑っておられるのです! これは、国を揺るがす一大事だというのに」
「いやはや、まったく以てそのとおり。ですが、その証拠がない」
「証拠など……」
そこで青年貴族は押し黙る。黒髪の男は香茶と焼き菓子をたのしんでいる。
「
「それは貴方方がアストレアを追い込んだからでしょう? 聖騎士殿がアルウェン公を心頼りとするのは当然です」
援護射撃する壮年の貴族に、黒髪の男は不敵に微笑む。
「貴様、我らを愚弄しているのか……?」
「まさかそんな」
両手をあげて降参の意を示す。得とならないものには手を出さないのが男のやり方だ。黒髪の男は裕福な商家の生まれであったが、ここまでのしあがってきたのはこの男の才能だろう。
「起こってしまったことを言い争ったところで、なんにもなりませんよ。儲けものだと考えるべきです。アストレアは楽に手に入ったし、オリシス公は我らが動かずとも退場したのですから」
一同が顔を見合わせる。咳払いがきこえた。
「失礼。さすがに失言でしたね。オリシス公を誰が暗殺したのか……気にはなるところですが、問題はそこではない」
「さよう。陛下はこの件に関して黙秘をつづけている」
皆の視線が初老の侯爵へと向かう。黒髪の男がにやっとする。
「そういうことです。アナクレオン陛下は殊に身内に甘い。たしかに見逃しては置けませんねえ」
「なあに、それこそ我らが動かずとも良い」
老者はずっと彼らのなかにいたが、ここではじめて発言した。
「城塞都市はこのままランツェスの公子に預けておけば良いし、アストレアは問題なかろう。喪が明けたらすぐにオリシスのロアに接触する。サリタ攻略とてランドルフ卿ならば容易かろう。それから、」
「ムスタール公爵、ですね?」
相槌を打った黒髪の男に向けて老者は笑む。この男はなかなか賢い。ガレリアは常に監視させているし、アストレアを任せているのも黒髪の男の配下だ。オリシスにもすでに従者を忍ばせているのだろう。そして、ムスタールの黒騎士にも。そう、何の問題もない。すべては我らが思うように動いている。
「お、お待ちください……!」
扉の向こうが騒がしくなった。この部屋に入れるのは許された者のみだ。ところが、執事の制止を無視して扉は開かれる。目を瞠った一同はすぐさま立ちあがった。
「ずいぶんと興味深い話をしているな」
「こ、国王陛下……」
先ほどまでの剣幕はどうしたというのか。青年貴族が上擦った声を出して、黒髪の男はばつが悪そうに顔を伏せている。
「どうした? 遠慮なくつづきを話すがいい」
ただちにその場に跪くか、あるいは平伏するのが正しい相手であったものの、しかし彼らはそれさえ忘れてしまっている。
「これは国王陛下」
老者は臣下として正しい
「さぞご多忙のことと、きき及んでおりまする。突然のことにゆえ、ご覧のとおり下々が口にする茶菓子しか用意しておりませぬ。どうか、ご容赦を……」
「お前たちにたしかめたいことがある」
「ほう……?」
老者は他の貴族たちを押しのけるようにして王に相対する。
「ランドルフ卿をサリタへと送ったのはお前たちだな? 私は何も許した覚えはないのだが?」
「これは申しわけございませぬ。しかしながら、」
「黙れ。求めているのは謝罪でも言い訳でもない」
老者の顔が凍りついた。
「貴様らに命じる。即刻サリタから兵を退かせよ。同様にアストレアからもだ」
「これは……異なことを仰る。サリタはイレスダートにとって危険な街でありますぞ。それにアストレア。すでに公子はイレスダートにおりますまい。それを野放しにせよ、と?」
「王の声に逆らうつもりか?」
「し、しかし国王陛下、我々は……」
差し出し口をたたく壮年の貴族に対して、アナクレオンは片手をあげた。王が本気ならばその場で
「すこし、落ち着かれてはいかがかな? 我らはイレスダートの明日を憂いております。こうして陛下をお諫めすることもございましょうぞ。すべてはイレスダートのために。そして、レオナ殿下の御身を案じてのこと」
「何を持ち出すかと思えば、あれを疎んじていた貴様らの言葉とは思えないな。何より思い違いも甚だしい。あれは元よりこの王都から外には出ていない」
「ほう? これはおかしいですなあ。王女をアストレアで見た者もオリシスで見た者もいるというのに」
冷笑を浮かべていたアナクレオンの顔からすっと表情が消えた。
「それは、貴様の目で見たことか?」
なにを、と。問う前に手はもう老者の顔へと伸びていた。骨張った老者の頬にアナクレオンが触れる。
「へ、陛下……」
「それは、貴様がその目で本当に見たことか?」
そして、次の瞬間だった。
「ぎゃあ!」
老者は王の手を振り解く。異物感と強い痛みに何が起こったのか、はじめはわからなかった。老者は左目を覆いながらうずくまる。王は、本気だった。本気で老者の眼球を抉り出そうとしていた。目から流れ落ちるのが涙なのか血なのかわからない。激痛に喘ぐ老者を王は逃さない。
「貴様らはよほど私を怒らせたいようだな」
声音は先ほどよりもずっと穏やかにきこえた。だが、そうではない。アナクレオンは彼らを許すつもりなどないのだ。胸倉を掴んで王は老者を立ちあがらせる。細い枯れ木のような首が露わになった。そうして老者は息ができなくなった。
「へ、陛下!」
「何をなさるのです!」
「お、おやめください! どうか……」
老者には周りに声など届いていない。最初は抵抗していた老者も呼吸ができない苦しみに意識が朦朧としていた。それでも身体は必死に生へと縋りついている。老者の唇からは泡が拭きだしている。目からは
突然、身体が楽になった。
老者の唇が呪詛を繰り返している。
このときの一件から、元老院は嘘のように静かになった。軍事や国政に関わる会議に置いて発言もほとんどなく、イレスダートを統べるのはまさしく王だった。老者は周囲が止めるのも無視して、そこへと居座りつづけている。以前のような饒舌さはなくなり、いまみたいにずっと呪いの言葉を吐いている。皆は老者に隠居を進めるもののきき入れずに、あるいはその声さえも届いていないのかもしれない。そうしたあの日、黒髪の貴人が老者の元に医者を連れてきた。
「すこしお疲れなのでしょう。彼の腕はたしかですから、安心して休まれたらいい」
彼、と称したものの容貌からは男か女か判断が難しい相手だった。白肌と青の瞳。アナクレオンの青玉石色の目を思い出して、老者は急に暴れ出した。
「お可哀想に。でも、心配は要りません。上手くいかないのであれば、ちからを貸してあげますよ?」
それが黒髪の貴人の声であったのか、それとも彼が連れてきた医者の声であったのか。老者は覚えていない。しかし、老者はたしかに見たのだ。闇のなかに光が見える。あれは、イレスダートを導くひかりだった。
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