黒騎士、王都へ向かう
長雨の時期もようやく終わり、やわらかな陽射しが戻ってきた。
ムスタール公爵ヘルムートは騎士の訓練を見届けたあと、執務室へと引き返す。
連日の大雨はイレスダートの北部に甚大な被害をもたらした。
山が崩れて村ひとつが無くなった。救援に向かおうにも道が寸断されたまま、ようやく土砂の撤去がはじまったばかりで、他にもまだ孤立している村がある。彼らを救うために必要なのはとにかく時間と人手だ。
物資の支援は王都マイアから十分に届いているものの、民の要望は尽きない。ムスタール公爵はこれらに真摯に応えているとはいえ、しかし黒騎士ヘルムートはある懸念を消せずにいる。いま、ルドラスに攻め込まれたら一溜まりもない。
ここよりさらに北、城塞都市ガレリアを思う。
雨の被害は特に北に集中していた。
ヘルムートは眉間を揉みほぐす。羊皮紙に向かっていたのに、どうにも筆が進まないのも別のことを考えているせいだろう。ベルを鳴らして
ランツェスはムスタールよりも東にする公国だが、雨の影響を逃れている。
豊かな土壌と鉱物が取れる土地に、北寄りでも城塞都市に比べたらずっと暮らしやすい国だ。いかに書面とはいえ、二回りも年下の小僧にとやかく言われたらランツェス公爵も怒るだろうか。彼は
わかっていながらも、ヘルムートは筆を進める。
北には城塞都市ガレリアと魔道士たちの国ルダ。けっして軽んじているわけではないが、ルダもアストレア同様に小国である。そして、アストレアは白の王宮より嫌疑がかかっているときく。南のオリシスからはさすがに遠い。となれば、危急の際に動けるのはムスタールとランツェスだけだ。
扈従が戻ってきた。しかし手に持っているのは封書で、その顔もどこか緊張していた。
「白の王宮からです。公爵に直接渡すようにと言付けられました」
白の王宮、つまりは送り主は元老院だ。こうやって頻繁にムスタール公爵に手紙を送りつけてくるものの、それはあの羊皮紙の束のどこかに挟まっている。奴らはヘルムートに無視されているのをわかっているので、わざわざそう命じたのだろう。普段はこのまま捨て置くヘルムートでもさすがに扈従が気の毒に思えた。封蝋を切って書面に目を走らせる。いくらかもしないうちにヘルムートは唸った。
「なに……?」
そこに
「公? そこには、何と……?」
「オリシス公が亡くなられた」
「アルウェン様が?」
信じられないという声を扈従はする。ヘルムートもおなじ気持ちだった。オリシスのアルウェンが病に伏せているなど耳にしたこともなかったし、戦死したわけでもない。なによりオリシス公は戦えない身体だった。不自由を強いられていたときく。それが悪化したのだろうか。そのつづきを見てヘルムートはさら眉を険しくした。
ムスタール公の手が震えている。オリシスのアルウェンとは親しい仲だった。突然の訃報に悲しんでいるのだと、そう扈従の目には映っているのかもしれないが、しかしそうではない。驚愕と怒り。いま、ヘルムートの心を支配しているのはそれだ。
「コンスタンツをここに」
感情を抑えた声でヘルムートは言った。扈従は余計な声をせずにすぐに従った。ヘルムートは意識して呼吸を繰り返す。アルウェンが死んだ。いかに元老院とはいえ、たちの悪い冗談で寄越すとは思えない。これは、たしかな事実だろう。だが、そのあとはどうか。ヘルムートは窓の外を見つめる。晴れ渡った空が見える。春が訪れていてもムスタールはまだ肌寒かった。聖騎士に会ったのはその時期だった。
元老院は本気でアストレアを手に入れるつもりらしい。
怒りを通り越して失笑しそうになる。聖騎士がガレリアを離れたのも下命ではなかったのかもしれない。アストレアは元老院に疑われている。公子がアルウェンを頼ってオリシスに身を寄せたまではわかる。それが、なぜオリシス公の死に繋がるというのか。
「お待たせいたしました」
妻女はすぐにヘルムートのところへ来た。
「コンスタンツ。私はすこしムスタールを空ける」
「はい」
余計な言葉は一切出さない妻だ。彼女は静かにヘルムートを見つめている。
「王都マイアに向かう。国王陛下に目通りを願いたい」
代筆を頼むという意味だが、彼女はそこで怪訝そうな顔をした。
「どうした?」
「すぐに発つおつもりですか?」
あらかじめ手紙を送っていれば、ヘルムートが王都に着いてからそう時間は要らずに白の間に入れるだろう。その算段だったが妻は理解しているはずだ。
「明日は、お約束があったのでは……?」
ヘルムートは目をしばたいた。失念していたのは冷静さを欠いていたせいかもしれない。深く息を吐いて、しばしの時間を置く。来客すべての相手をしてしまえば公爵の一日はそれだけで終わる。だから扈従や妻女が取り成して、それからヘルムートの都合に合わせる。勝手に訪れてカウチで香茶をたのしむような元老院は別だったが。
王都の騎士とは伺っていても名前まではきいていなかった。ヘルムートは口のなかで言う。コンスタンツが連れてきた女騎士は息子の教育係になった。二人いる息子たちの教育はすべて妻に任せているので、それが事後報告であってもヘルムートは承諾する。約束の時間を設けていたのも公爵への挨拶だろう。その女の生まれがただの貴族ではないということだ。
「新しい教育係の名は、何と言う?」
「イリア・クレインと申しました」
クレイン、と。ヘルムートは口のなかで繰り返す。
敬虔なるヴァルハルワ教徒の一族だ。だが、当主であったクレイン侯爵が病に倒れてしまってから、クレイン家は力をなくしている。他に兄妹は妹が一人、たしか王都のレオナ王女の傍付きだ。
考えすぎだろう。ヘルムートは思考をそこで止める。レオナ王女は王都マイアの白の王宮にいる人だ。傍付きだけがこのムスタールにいるなどあり得ない。
「火急の用件が入ったと、イリアにはそう伝えましょう。分別のある人間です。本人は自分が騎士だということ以外、喋りませんでしたが」
ヘルムートは顎を引く。正直に身分を明かすくらいだ。クレイン家の未来は明るくないのかもしれない。助けてやりたいところでもいまはそのときではなかったし、ヘルムートがすべてに置いて優先するのはイレスダートであり、玉座にいる王だ。
その日のうちにヘルムートはムスタールを経った。
ムスタール公爵に宛てられた元老院からの手紙にはこう書かれていた。オリシス公は病死などではなく暗殺された。それには聖騎士が深く関わっているにもかかわらず、国王陛下は公とせずにあろうことか聖騎士を庇うつもりだ。正せるのは黒騎士ヘルムート置いて他に誰がいようか。直ちに王都へと馳せ参じて王に
ムスタール公ヘルムートは、まだ知らない。
王女はすでに白の王宮の箱庭ではなく、イレスダートではない外の国にいることも、そこには聖騎士の姿があることも。そして、すべてを知る王女の傍付きがこのムスタールに身を置いていることも知らない。
黒騎士ヘルムートには光しか見えなかったし、彼は闇を信じようとしなかった。だからこそ危ういのだ。光が強すぎる者ほど、容易く闇へと呑み込まれてしまう。
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