ガレリアにて①
痩せた大地に雨が降る。
これが一時のあいだならば恵みの雨だっただろう。しかしここは、北の城塞都市ガレリアである。もとより
昨晩の豪雨の影響で土砂崩れがあった。
見捨ててはおけまい。しかし、貴重な兵力をそこへと駆り出すなど総指揮官であるランドルフは許さずに、放っておけと一蹴した。それでは民の反発が起きるだけではなく、騎士の士気も下がりかねないと進言したものならば、なるほどでは貴公にすべてを任せるとしよう。底意地の悪い笑みでランドルフはそう言った。
ランツェスの公子ホルストはとにかく苛立っていた。
彼がガレリアへと来る羽目になったのは王命であったが、公爵である父親からそれを言い渡されたとき、彼はひどい癇癪を起こした。とはいえ、これは王命である。お前一人の我が儘のためにランツェスを危機に晒すのか。父親はそこまで言った。あのときの顔を思い出すだけではらわたが煮えくり返る。だが、ホルストにも騎士の矜持がある。ここに来た以上、それなりの仕事はするつもりだったし、何よりも聖騎士と比べられるのは癪なのだ。
午後になればますます雨が強くなった。
ガレリア山脈に居座っている灰色の雲は、雷と嵐を連れてきたらしい。落雷のたびに甲高い悲鳴がきこえる。ここの女たちときたら、組み敷いても顔色ひとつ変えずに義務として受け入れるような女たちだ。およそ人間らしさを見せない。いや、あれは敬虔なヴァルハルワ教徒なのだろう。信徒は雷を神の怒りだと恐れる。
馬鹿馬鹿しい。ホルストは口のなかで言う。彼を苛立たせている理由は他にもある。ガレリアの人間は少年から
それからあの男。総指揮官ランドルフは
何もかもが面白くない。
ランドルフは事あるごとにホルストを呼びつける。
あの男を上官などと認めたくはなかったものの、しかし争うだけ
まあ、気持ちはわからなくもないと、ホルストはそう思う。
聖騎士は弟の幼なじみというが、ただそれだけ。ホルストには何の関係もない人間だ。面白くないのは他のイレスダートの公国から来た騎士たちも、ガレリアの少年兵も、その目はホルストと聖騎士を比べていることだ。
忌ま忌ましい。いましがた擦れちがったガレリアの兵士は、ホルストと目を合わせないように努めていた。人でも殺しそうな顔でもしていたらしい。女中は立ち止まり、
「ようやくお出ましか、ホルスト公子」
入室の許可も得ずにいきなり扉を開けたホルストに、ランドルフはため息をする。だが、それ以上の叱責がないのも、ホルストとランドルフの気質が似ているからだ。もっとも、どちらもそれを認めてなどいなかったのだが。
「おお、お待ち申しておりましたぞ」
ホルストは声の方へと視線をやる。ランドルフの向かいのカウチに腰掛けているのは、白の法衣を纏った老人だった。いや、ただの老爺ではない。老者はひどく痩せていて、けれども要人と認める挙措をする。
元老院。ホルストは口のなかでつぶやいた。
「遠路はるばるこの辺境の地までお越し頂いたのだ。公子もまず感謝の意を伝えよ」
「いえいえ、それには及びませぬ。方々のご活躍は王都にも届いてますゆえに。しかしながら、陛下もガレリアを案じておられるご様子……、一度この目でたしかめるべく次第にございます」
口を開けばずいぶんと饒舌なものだ。内心で舌打ちするホルストとは反対に、ランドルフは卑屈な態度を隠そうとはしない。
「これは恐悦至極に存じます。白の王宮には感謝の言葉もございません」
「そう畏まることもありますまい。災害時には格別な支援は当然でございましょうぞ。なにより、ガレリアはイレスダートが最後の砦。国王陛下も心を痛めておいでです」
まるで猿芝居のようだ。くだらない茶番にいつまで付き合わせるつもりなのか。ホルストの苛立ちにも気づかずにランドルフは揉み手で応対する。たしかに、ガレリアでは昨日の他にも雨の被害が出ている。とはいえど、元老院がそれだけの理由でわざわざガレリアになど出向いては来ない。ランドルフは自分で最初にそう言ったのも覚えていないのだろうか。老者は笑みを崩さず、しかしながらとつづけた。
「お二方には王命を伝えねばなりません。まずはランドルフ卿。これは貴殿の他に適任はおりますまい」
「王命……。陛下が、私に何を?」
「卿には一度王都にお戻り頂く。その上で、」
「なっ……! 私を左遷するおつもりか!」
ランドルフは机上を力任せにたたいた。ホルストの到着まで老者はガレリアの香茶をたのしんでいたようだが、ランドルフのカップにはまだ残っていた。老者は侍女を呼び、片付けさせる。そのあいだにすこしは頭が冷えたのか、しかしランドルフの鼻息はまだ荒い。
「左遷などと、そのような乱暴な物言いをせずとも良いのですぞ。これは、貴殿にとって吉報とも呼べること」
「し、しかし……」
「ランドルフ卿にはこれより、西のカナーン地方に行って頂きます」
カナーン地方。ホルストはわずかに眉を動かす。
「そ、それはあの自由都市サリタを……?」
「左様にございます。中立と称するのは結構、しかしながらこのような戦時下においてそれも通りますまい」
老者はそう断言し、ランドルフは低く唸る。これはホルストにはまったく関係のない話だが、興味を感じたのはたしかだ。
イレスダートの南西オリシスよりさらに西へと進めばカナーン地方へと入る。白の王宮の手が出せない場所だ。聖王国イレスダートと西の大国ラ・ガーディアに挟まれたその場所は、勢力争いから逃れるために中立を名乗っている。どちらの国にも属さないという強い意志からか自由都市を謳い、権力者も市民のなかから選ばれる。また、その別名を貿易都市とも言い、海の向こうの国とのやり取りも独自に行っているとか。白の王宮はサリタを危険視しているがそんなものは建前に過ぎず、要は豊かなカナーン地方を欲している、そういうわけだ。
何を躊躇うことがあるのかと、ホルストは思う。こんな北の何もない辺境の地にいるよりも、カナーン地方を攻略する方がずっと面白い。ランドルフは押し黙ったままだ。騎士の矜持か、それともよほどここの居心地が良かったのか。ともあれこれは王命である。
「王命とあらば致し方ありません。謹んでお受け致します」
ランドルフはやっと答えた。言葉とは裏腹にランドルフの四角い顔には汗が滲んでいる。不承不承にうなずいたのを隠そうとしないその様子は、やはり意地なのだろう。老者はにっこりとした。
「それは良かった。陛下もさぞお喜びでしょう」
「では、私はこれより帰還の準備に取り掛かりますので」
「ああ、お待ちください。卿にはもうひとつお伝えすべきことが」
まだあるのか。もはや取り繕うのも面倒になったらしい。ランドルフはそういう顔をする。
「これは内密でありますゆえに、くれぐれも他言なさらぬよう」
「
「そうでございましたな。いえ、実は白の王宮から王女殿下が消えたという噂がございましてな」
「は……?」
間の抜けた声をするランドルフに老者はまず苦笑いを返す。
「いえいえ、あくまで噂でございましょう。しかし、このところの陛下のご様子が些か妙でしてな」
「はあ……」
「陛下は妹姫を殊の外大切にされておりましたゆえに。何よりも、レオナ殿下は我々にとっても大事な御方……、あの方はイレスダートにおいて唯一のドラグナーであります。これがもしも真実とあらば、一刻も早くお守りするのが我らの使命でございましょうぞ」
「はあ」
ランドルフは覇気のない相槌ばかりをしているが、頭の回転の鈍いこの男にはもっと直接的に言わねば伝わらない。
「ランドルフ卿は城塞都市に近づくものならば近隣の住民から旅商人、あるいは巡礼者に至るまで事細やかに
「は……? いや、それは有り得ない。身元の怪しき者はすべて報告に預かっておりますし、大体このような場所に殿下がおいでになるはずが、」
「ですが、こうも考えられますぞ。聖騎士とレオナ殿下は幼なじみであります。他に縁者のおらぬ王女が誰を頼るでしょう?」
ランドルフは大きくため息を吐いた。
「論外だ。それにあの男、アストレアの聖騎士には厳罰を与え軟禁しておりました。誰も接触できるはずがない」
「ふむ。しかしながら、かの聖騎士はガレリアから姿を消したというではありませんか。それと同時にアストレアの蒼天騎士団も」
「己の罪を認めたのでしょう。恥知らずな男だと思っておりましたが、存外人の心は残っていたらしい。屈辱に耐えられなったのでしょう」
「なるほど、かの聖騎士殿もやはり人の子というわけですな」
「もうよろしいか? これにて私は失礼する」
「ホルスト公子。貴殿はご存知ありませんかな?」
「なぜ、俺にきく?」
ホルストがガレリアに到着したときに、聖騎士はもうここにはいなかった。聖騎士がルドラスの銀の騎士と接触し、密談を交わした。そののちにランドルフの怒りに触れて軟禁状態にあった。つまり消えたのはこの期間らしい。王都からの下命を待っていたというが、ランドルフの言葉を借りるならば、左遷させられるという事実に耐えられなかった。周囲は聖騎士に同情的だが、ホルストはそう思わない。アストレアが疑われようとも聖騎士がどうなろうが関係がないし、姫君がどこにいたとしても興味もなければ関心もないのだ。老者はずっとホルストから目を逸らさずにいる。したたかな老人だ。その読みは当たっている。
「赤い悪魔は聖騎士と姫君と幼なじみだと、そう聞き及んでおりますゆえに……」
ホルストは老者を睨み据えた。老人は目をしばたいて、ああと紡ぐ。
「いやいや、これは失礼を。それは弟君の異名でしたな」
ここで異母兄弟の名を出されるとは思わなかった。ホルストは歯噛みする。挑発には乗らない。そのつもりだった。
「他に用件がなければ、俺はもう行く」
「これは、またとない機会であると。そう思いませんか?」
にいっと、老者は唇の端をあげる。気味の悪い老人だ。侮蔑の眼差しを止めないホルストに対して、老者は笑みをそのままにしてつづける。
「ランドルフ卿に代わって公子にはガレリアの総指揮官を務めよ。陛下はそう申されております。つまりこれは恩情と、そう捉えるのがよろしかろう。オリシスの二の舞など誰が望むでしょう。それでなくともランツェスは――」
老者の胸倉を掴んでいたのは衝動だった。
「思いあがるなよ。王命に従っているのではない。ランツェスが貴様らに力を貸してやっているだけだ」
そうだ。ランツェスは王家の、白の王宮の
尻拭いをしてやっているだけだ。ホルストはそう思う。
ランツェスが冷遇されるようになったのも、元はと言えば父親の失態が原因である。あの日、和平交渉が行われるはずだったその日に、聖騎士だったアストレア公爵並びに他の
ホルストは笑った。乾いた笑い声が回廊に響き渡っている。
彼は運命など信じていなかったし、いつだって自分の選んだ道が正しいと思っている。これから起こることも、選択肢がひとつしかなかったそのときでも、自分自身を疑ったりはしなかった。
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