第3話
次の日も、雨だった。
朝からどしゃ降りで、もう何日も、お日様を見ていない。
教室の窓から空を見上げて、あたしはうんざりした気分になった。まるで梅雨にでも逆戻りしたように、雨、雨、雨の毎日。
こう雨がつづくと、人間も湿気てしまうし、カビてしまうかもしれない。
他の人はどうだかしらないけど、あたしはカビを通り越して、くさってしまっている。
「ねぇねぇ。声はなんて言ってるのか判った?」
やけに明るい声で、茅子が言った。茅子だけは、雨がふっても元気だ。
「全然」
愛想のない声で答えて、あたしはカバンを取って、立ち上がった。
今日は土曜日なので、授業はもう終わりだ。掃除がないから、すぐに帰れる。ついでに茅子も。
「やっぱり、霊じゃないかと思うの。あれからいろいろと考えたんだけど」
「その考えは、捨てて」
「あら、じゃあ、何だか判るの?」
「霊じゃないことだけはね」
肩をすくめる。茅子は残念そうな顔をした。まだ『あなたの知らない世界』に未練があるようだ。
下駄箱で、上履きと外履きにはきかえると、あたしたちはさっさと昇降口をでた。ぱさっと傘を広げる。置いておくために買った、ちょうちょ模様のこの傘は、ここ何日かの雨で、大活躍だった。
校門の前で別れると、いつものようにバスに乗るため、バス停に向かって歩きはじめた。
バスで通学してくる人はあまりいない。
バスがしかれている方向は、あまり人がいないし、それに何より、十分ほど歩けば、駅ビルまであるりっぱな駅が、あるのだ。わざわざバスを使わなくったって、いくらだって帰る方法はある。
ただあたしの場合は、丁度バス停が家の近くにあり、電車を使用するより楽だからバスにしているのだ。
バス停には、あたしを含めて3人しかいなかった。大きなバス停でもないので、屋根はない。ベンチもびしょびしょで、すわる人はいない。
あの人だけだ。わざわざ、よけい濡れるような事をしたのは。
またまた思いだして、あたしはひとりくすくす笑ってしまった。
時計を見ると、そろそろバスがやってくる時刻になっている。あの日は遅れたけれど、ここ数日の雨にもめげず、定刻できたから、たぶん今日も来るだろう。そう思っていると、ブロロロと音をたてて、バスが来て止まった。
バスの中は雨だというのに、ほとんど人は乗っていないようだ。あたしはスカートのポケットの中から定期を出した。
一番端にいたため、あたしが乗るのは、一番最後だ。前の入り口の階段に一歩目を踏んだ直後に、あたしのすぐ背後でドアが閉まった。
定期を見せ、再びポケットにしまう。バスが動き始めた。
数人しか人がいないので、好きな所に座れる。サーっと周りに視線を走らせて、取り合えず、真ん中あたりにすわろうとした時。
不意にあたしは顔を上げた。
声かした。雨も降ってる。バスの中にいて、エンジンの音がうるさいのに、その声はあたしの頭の中に、はっきり届いたのだ。
何気なく、バスの後方を見る。そのバスの後ろの窓の、そのまた外に、ちらりと青色が映ったのが、目に止まった。
あたしはバスの中にいるというのに、他人の迷惑何のそので、後ろの窓にドタバタと走り寄った。
ついさっきまでいたバス停に、青い傘をさした男の子がいた。
そして、あたしを見て、笑いながら傘を揺らしている。
彼だっ。そして、持っているのは、あたしのあげた傘だった。
あたしは、うーっと唸りたくなってしまった。あと少し早く来れば、あるいはあたしが遅ければ、ちゃんと会えたのに。
こんな、あつらえたようなタイミングですれ違うだなんて、まるで詐欺のようだ。
彼は、他に車が通らないのをいいことに、車道に出て、尚も合図するかのように傘をゆらす。遠くなっていくのに、あたしは彼が何か言っているのがわかった。
「……また、会え、る?」
ぽつり。口にする。なぜかそんな言葉があたしの頭に浮かんだ。
彼の声で、あたしの頭の中、そんな言葉が響いてきたような気がしたのだ。
窓に張りついて、遠くなる彼を、あの時のように見送っていたあたしだったけれど、ややあって、はたっと気づいた。
そして、判ってしまった。気づいてしまった。
「う、嘘ぉ……」
あたしは、ボーゼンと呟いた。
あれは、彼の声だった。
バスの中で、雨の音もしていたのに、聞こえてしまった、声。
いつものように、聞きのがすことなく、彼を前にして、聞こえたのだ。はっきりと。
お風呂から出て、頭をタオルで拭きながら、あたしは何だか混乱してしまっていた。
お父さんもお母さんも出掛けてしまったので、家にはあたし一人だ。お湯をわかし、熱いコーヒーを入れて、ソファーに腰を落ち着けて、よく考えてみる。
けれど、みく考えれば考えるほど、わからなくなってしまう。
つまり、あれは、あの声は彼の声だったということだろうか。
気づくはずないのに、バスの中で、呼ばれたことがわかってしまった。どこにいるのかも、不思議なことだけど、わかってしまった。
届くはずのない声が、あたしには聞こえてしまった。
しかも、それは彼の声だった。
つまり―――?
ここであたしは混乱してしまう。
どうして、聞こえるんだろう。なぜわかるんだろう?
そして、彼は、いつも何を言っていたのだろう?
あたしには、ちっともわからない。
わかるのは、確かなのは、声が聞こえはじめたのは、彼と知り合った後の雨の日だったこと。
だからだろうか。雨の日に限ってきこえてきたのは。
雨音の中でだけ、あたしに届いていたのは。
でも、どうして?
結局またこの問題に戻ってきてしまう。
だって、彼とあったのはあの雨の日が始めてだ。それ以降は、あってなくて、それでも、今日は遠くで見ただけだ。
なのに、どうして、聞こえてくるのかしら?
そして、どうして、あたしはこんなに気になるのかしら?
変だわ。何もかも、変。わからないことだらけだ。
ふう。息をついて、コーヒーをすする。彼のことが、声が気になって、テレビをつけても身が入らない。
お母さんが置いておいてくれた夕食を、のろのろと食べながらも、思うのは彼のこと。堂々巡りの思考を続けて、気がつくと、すっかり夜になってしまっていた。
雨は降り続いている。天気予報では、今夜夜半過ぎまで降りつづけるらしい。とすると、あたしは彼の声を聞けるということだろうか。
あたしは居間の窓を開けておくことにした。幸い風は吹いていないから、降りこんでくることはないだろう。
もう一杯コーヒーをおかわりしちゃお。
あたしは、空になったマグカップを持って、台所に行った。インスタントコーヒーの素を一杯、カップに入れて、さあお湯を注ぐぞ、という時、突然電話のベルがけたたましく鳴った。
あたしは思わず飛び上がって、驚いてしまった。一人だし、何にも音がなかったから、心臓が竦みあがったのだ。
確実に寿命が縮まったわ。そう思いながら、受話器を取る。お母さんだと思ってたら、茅子だった。
「ね、真美。わかった? 例の奴。あたし気になっちゃってさぁ」
もしかして、例と霊を掛けてるのかもしれない。あたしは、心の隅でそんな馬鹿なことを考えてしまった。
「そんな用でわざわざ電話をかけてきたの?」
「そうよ。だって、気になるんだもん。やっぱりあたしは霊聴だと思うの」
あくまで、霊聴にしたい茅子であった。
「ち・が・う」
あたしは、きっぱりはっきり言った。
茅子には気の毒だけど、霊ではないことは確か。だって、その大本に、今日出会ったんだもの。
「そんなにはっきり言うってことは、何かわかったの?」
「……う、ん。……わかったような、わかんないような……」
あたしは答えに窮してしまった。
傘の彼のことを、茅子には言ってない。それ以上に、あたしにさえも、わけわかんないのだ。説明のしようがない。
「えっ。何よ、それは何!? もったいぶらずに言いなさいよぉ」
茅子の声が弾んでいる。途端、あたしは言う気を無くした。
「茅子になんて、言わないよぉ」
とおどけて言おうとした時、突然、不意に、あたしの頭を、何かがかすめたような気がした。
「……あ……」
呼んでる。あたしを、彼が、呼んでる。そんな気がした。
「どうしたっ? どうしたのよ、真美?」
耳元で、茅子がわめく。ああ、集中できない。今度こそ、声をつかまえなく
ちゃならないのに。
「ごめんっ、茅子。あした話すっ」
返事も聞かずに受話器を放り出すと、あたしはさっき開けた、居間の窓へと走り寄った。
雨の音がした。それ以外の音は、しない。
もう一度、言って。そしたら、判るから。解るはずだから。
耳を澄ます。雨音に、意識を集中させる。
そのとたんに、脳裏に、どこがで見たような風景が一瞬浮かんだ。
「解る、わ……」
あたしは呟いていた。
判る。彼が何を言いたいのか。あたしにどうしろと言ってるのか。
―――待っているから。
その、一言。それだけで十分。
あたしは、あわてて家を飛びだした。場所は知ってる。
部屋着で、とてもじゃないけど、他人の男の子の前にでる姿じゃないことも忘れていた。とっさに玄関で履いたのは、サンダル。走りにくい。
何度も転びそうになって、でも、それでも走った。
その場所は、すぐ近くだった。毎日、あたしが見てる場所。
いつもあたしが乗っている、バスの―――停留所。
ほとんど車も通らない、人もいない。あるのは街灯だけ。
その街灯の、すぐ下に、光に照らされながら、彼が立っていた。
あたしを見ると、驚いたように目を見開く。
あたしは、彼の前に立って、光の輪の中に入った。
「すごい……」
彼は呻くように言った後、パッと顔を輝かせた。
「やったぁ! 通じた!」
「……は?」
「うん。マジで通じるなんて、すごいや。やっぱりやってみるもんだなぁ」
うれしそうに、にこにこ笑いながら言う。
「でも、よかった、会えて。こうして傘も返せる」
彼は、持っていた傘を(さしていたのはまた別の傘だった)、あたしに差し出した。それはあたしが彼に渡した傘だった。
「ありがとう。ほんとに、助かった」
「ううん。……別に、返さなくてもよかったのに」
何しろ、5百円のビニール傘だ。
「だって、返すって、約束したじゃないか。君が、どこの誰だってこと調べるのに時間くったから遅くなったけど、約束したことは守るよ」
「し、調べるって?」
あたしは彼を見上げて、首を傾げた。
どきどきする。顔が熱くなる。始めてあった同然の人なのに。
「調べたんだ。だってそうしなきゃ返せないもんな。えっと、2年3組48番の近藤真美さんでしょ?」
いたずらっぽそうに、目が輝いていて、笑いを含んでいる。
あたしはびっくりしてしまって、こくんとうなずくだけが、精一杯だった。
「けっこう大変だったよ。まず、友達に君の学校の生徒の彼女がいるやつ見つけて、その彼女に、あらゆる中学の卒業アルバムを借りてきてもらって、あ、学年判らなかったから、三年分ね、これ。それをかたっぱしっから調べていったんだ。それでようやく住所をつきとめたって訳」
あたしは、唖然。
「そ、そんなことまでして返さなくても、いいのに」
くどいようだけど、5百円しかしなかった代物なのだ。
「いいの、いいの。なにしろ下心あり、の努力だったんだから」
などとにこにこ笑いながら、とんでもないことを言う。思わずぎょぎょっとしてしまったけど、それよりもまず、あたしはどうして、こういうことになったのか知りたい。
けれど、肝心なところで、彼も首を傾げてしまった。
「どうして通じたかなんて、わからない。けれど、確かに、俺、雨が降るたび、雨が視界に入るたび、君のこと思い出してたよ。会えるといい、とも思ってた。だから、会えたでしょ?」
「そういう、問題、なの?」
「そうだよ。こんなに一生懸命なんだから、通じないはずないって、思い込んでた、俺。今日の帰りだって、気がつくはずないのに、気づいてくれた。あの時、俺のいいたい事、わかった?」
あたしはうなずく。
「そして、今も、こうして通じて、来てくれた。それだけでいいや。どうしてというより、通じたその事実だけで、俺は十分だと思う」
「そう、かな?」
「そうなの」
彼はあっさり断言する。あたしは思わず笑ってしまった。
あれぼと気にしていたのに、彼の言葉を聞いていたら、さっそく左右されだして、あたしまでどうでもいいという気分になってきてしまったじゃないの。
テレパシーでも、霊聴でも、なんでも構わない。
だって、会いたいと思って、こうして会えたんだから。
彼は、自己紹介をして、高木浩一だと名乗った。学校は、昨日あたしが買い物途中で立ち止まった、あの男子校だと言う。
道理で、あの時だけ鮮明に聞こえると思った。きっとすぐ近くにいたに違いない。近くにいて、そしてお互いのことを考えていた。
だから、きっとはっきりきこえたんだ。バスの時も、そして今も。
―――それから、あたしたちは、バスの時間までまだ間があるというので、いろんな話しをした。
電話番号も聞いた。住所も分かった。
今度、一緒に何処かに行くことも約束しあった。
けれど、あたしは肝心なことを口にしなかったのだ。
それは、つまり、彼があたしをどうおもっているか。さっきの、下心の意味って、何なのか。
でも、答えは、必要じゃない。
だって、あたしには、わかるもの。
想いは、通じるから。あたしには、彼の声が聞こえたから。分かるから。
だから、必要じゃない。
「ね。会えて、よかったね」
向こうの方から、バスが来るのを見つけて、あたしは言った。
「うん」
彼が、目を細めて笑う。
あたしはそんな彼の顔を見上げた。
胸が、どきどきした。目が合う。彼の瞳の中に、自分が映っていることが、無償に嬉しい。こうして会うことが、こんなにも楽しい。
どうしてだろう?
あたしは、その答えを、知っている。
思いは通じ合う。彼の言葉がわかったように。あたしに届いたように。
だから、あたしも伝えよう――
『――』
「……わかった?」
ややあって、あたしは彼に尋ねた。
バシャバシャと、雨音が夜の町に響き渡っている。近づいてくる、バスの音。
――彼が、にっこりと微笑んだ。
雨音が、少し小さくなったような、気がした。
雨音の中で聞こえる声は オリガミ @origami
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