第2話
いよいよ本格的におかしくなってきたのかもしれない。
朝目が覚めて、窓の外に透明な露が落ちてくるのを見て、うんざりする日が続く。
こんなにも今が9月であること、雨の多いことを呪ったのは、たぶん生まれて始めてだったろう。
声は聞こえてきた。それも決まって雨の日になると。
雨の音に混じって、あたしの頭を通り過ぎていくのだ。
おかげであたしは、ウォークマンをどこにでも持ち歩くはめになってしまった。
している間だけ、というより、耳の神経を雨の音に集中させていない間は、聞こえてこないことを、ここ数日の雨天のあいだに発見したのだ。
けど、難聴になったらどうしてくれよう?
行き場のない怒りを、あたしは胸のなかでかかえつつ、その一方で、不安と恐怖におののいていた。
それはつまり、これがあたしの気のせいではなくいってことが、だんだんはっきりしてくるから。その上、気のせいなでないのはあたしだけで、他の人には全く聞こえてこないのだという事実が、あるからなのだ。
いよいよとなったら、耳鼻科へ行くしかない。
あたしは泣きたいような気分の中で、そう思った。
「台風が次々と来るから、ずっと雨だね。うちの母さん、洗濯物が干せないって、嘆いてるわよ」
パックのコーヒーにさしてあるストローから口を離して、茅子が言う。
ちょうどウォークマンをしていたあたしにはハッキリ聞こえなかったので、片方だけ耳から取り外して、もう一度尋ねた。
「え? 何? 何か言った?」
「……あのねぇ」
ヒクヒク。頬を引きつらせつつ、茅子はあたしを睨む。
「どうして人が話しかけてるのに、ウォークマンなんか聴くわけ? 学校では外してなかいよ。そんなモン。家に帰ればいくらだって聴けるじゃないのっ」
「いや」
あたしとあっさり首を振った。
「雨が止まなきゃ、授業中以外は外さない。あたしの精神衛生のためよ」
「どうしてよ?」
尋ねてくる茅子の視線を避け、あたしはあさっての方を向いた。
茅子に言ったって、一笑されるか、馬鹿にされるかに決まってる。
「ふっ。そう、言わないつもりなのね……?」
地の底からでも聞こえてくるような異様な感じに、茅子の声のトーンがいきなり変わった。異変と悪寒を感じて振り返ったあたしの目に映ったのは、あたしのお弁当の白いご飯に、持っていたコーヒーを今にもかけようとする、茅子の無表情な顔だった。
「きゃ―――っっ」
教室中に響きわたるような悲鳴をあげて、間一髪、あたしは弁当を茅子の魔の手から死守した。
ぜいぜいぜい。どんでもないことする女だ。
「お弁当がかわいかったら、ざっさと吐くのよ。ネタはあがってるんだ」
ふふん、と鼻で笑いながら、茅子は勝ち誇ったような顔をして、あたしを見た。
「………悪魔」
ぽつり。お弁当を胸に抱えながら、あたしは恨めしそうに、つぶやいた。
絶対、笑うか馬鹿にするかに決まってる。
そう思い、覚悟したあたしだったけど、いつまでたっても嘲笑はきこえなかった。けれど、そのかわりに、意地の悪い笑みを浮かべながら、ゆっくりと口を開く。
「わかったわ」
いや、絶対わかってない。100%わかってない。きっと、とんでもないこと考えているに違いない。
「そには、きっと――霊聴よっ!」
「は? 霊聴?」
あたしはしばし絶句してしまった。思ってもみなかった答え。もちろん、少しも信じてないけれど。
「そうよ、霊聴よ。だって気のせいじゃないのに、真美にだけなんでしょ? きっと浮かばれない霊が、耳元で囁いているのよ」
「……けっ」
あたしは一笑した。言ったあたしが馬鹿だった。
茅子は、心霊研究家の新倉イワオ氏の大ファンで、休みになるといつもやる「あなたの知らない世界」を毎回ビデオにとっているという、心霊オタクだったのだ。
「けど、あんたに霊感があるとは思わなかったわ。今まで金縛りにすら会ったことがないのにねぇ」
あたしは茅子にかまわず、ウォークマンのイヤホンを耳に戻した。
戯言なんて聞いてらんない。
「霊能者の所に思い切って行ってみる? それとも手紙でも送る? 何にしろ、早く対策考えなくちゃね」
知っての通り、いくらボリゥームを上げても、声というのは聞こえてしまうものだ。
霊聴と決めつけている茅子はあたしの前の席で、サンドウィッチにかぶりつきつつ、真顔で、『あなたの知らない世界』にこのネタ送ろうなどと、たわけたことを言った。
正直いって、あたしは頭が痛くなってしまった。
ただでさえ、正体不明なのに、霊聴だなんてこと言うから、余計混乱してしまったじゃないか。
あたしは絶対違うと思うけど、これといった原因がはっきりしていない限り、茅子の霊聴説も可能性がないわけじゃなくて、今いち否定しきれない。
あたしは自分で言うのも何だけど、押しに弱くて、人の意見に左右されやすい性格してるから、信じていないけど、こうもはっきり決めつけられると、思わず不安になってきてしまうのだった。
「とにかく」
あたしは再びイヤホンを外し、自分の不安を吹き飛ばすように言った。
「あたし、今日家に帰ったら耳鼻科にいくわ。こんな事で悩まされるのは真っ平だもの」
雨音しかしない部屋のなか、夜一人で布団に寝る恐怖ったら!
「ちっとまってよ。早合点しちゃだめよ」
茅子の目が好奇心でキラキラと輝いている。どうも、こんな面白いこと終わらせてたまるか、と思ってるフシがあるようだ。
「とりあえずさ、そんなウォークマン外して、聞いてみなよ、声。何か言ってるんでしょう? その声の、あたしは霊だと思うけど、言い分も聞いてみなくちゃ。耳鼻科はそれからでも遅くないでしょう?」
「そりゃあ、そうだけど」
霊だと決めつけている上での意見だけど、わりと建設的な内容だ。
確かに、何を言ってるのか知ってる上で、対策を考えた方がいい。別に一日や二日病院行くのが遅れたって構わないだろう。
何だか、茅子の意見に左右されはじめてしまったなぁ、と思いつつ、あたしはうなずいて耳をすませた。
聞こえてくるのは教室の中のざわめきと、雨音だけ。
しばらく耳をすませていたあたしは、ややあって、ため息をついた。
「だめ。今は聞こえない」
「聞こうと思ってると聞けないのかしら?」
「さあ……」
もともと聞こえるといっても、ほんの時々なのだ。
「そのうち聞こえると思うけど」
「じゃあ、待ちなさいよ。聞かないと思ってるより、そっちの方が気分的に楽でしょ?」
「まあ、ね」
以外とまともなこと言うじゃない。感心していたあたしだったけれど、次の台詞で一転してしまった。
「そして、もし何言ってるのか判ったら、絶対教えてね」
つまりは、完璧に、楽しんでいるのだった。
聞こえるのは、雨の音。地面に、建物に、あたっては飛び散る、雨音。
買い物をするため、駅にむかって歩きながら、あたしは意識を雨音に向けた。たしかに、茅子の言うとおり、気分的には楽だった。
けれど、意識して聞こうと思っても、きけるのだろうか。
だって、声は、頭をかすめるだけ。すぐ消えていってしまう。風が通り過ぎたみたいに、あとには何も残っていない。
なのに、声だと判るなんて、なんだかとても変だった。
ふう。ため息ひとつつく。
茅子じゃないけど、あたしだって原因が知りたい。でも、それも何だか怖い気がするのはどうしてだろう?
例えば、霊だったとしても、どうして聞こえるのがあたしなんだろう。何をいいたいのか、はっきり言ってくれなくちゃわからない。
そして、あたしにいったい何が出来るんだろう。
言ったって、あたしには、きっと何もできない。してあげられない。
仮に、幻聴だったとしても、なぜ聞こえるのか考えると、すごく嫌な気分になってしまうだろう。
かと言って、このままというわけにもいかないのも、また確かなんだ。
車が横を通り過ぎていき、はねがあがる。スカートはもうびちゃびちゃで、足にあたるたび、気持ちが悪い。
学校から、駅行きのバスは出ていたけど、大した距離じゃないと思って、バス代をけちってしまったのは、まずかったかもしれない。
けど、駅からまた、家の側を通るバスに乗らなくちゃならないから、経費節約のため、そうするしかなかったのだ。
かまいやしないわ。そう思いながら大股で歩いていく。けれどまたすぐにやめてしまった。
なぜなら、そこに別の高校があって、生徒が大勢校門の前から出てくるからである。いくら何でも他校生の前で恥はかけない。
紺色のブレザーとすれ違いながら、あたしはふと、この間の傘の彼はもしかしたらこの学校なのかもしれない、と思った。だった、あの時も、この制服を着ていたように思うもの。
ばったり会うかも。そう思って、あたしは苦笑してしまった。いくらなんでもそんなに偶然があるわけない。
けれども、何となく気になって、校門の前を通り過ぎながらじろじろ校舎の方を見る。出てくるのは男の子だけ。そう、ここは男子校なのだ。
だから一人女子のあたしははっきり言って、すごく違和感がある。人の通りが多くない上、男子校だもの、女はあたしだけのようだ。
近くの人が、立ち止まって校舎を見上げるあたしを怪訝そうに見ている。
あたしは恥ずかしくなって、先を進もうとした。
その時。不意に、声。
あたしに呼びかけてきるような、声がした。あの声だ。
あたしはつい、きょろきょろ見回した。幾人かと視線があいはしたけど、違う。この人たちじゃない。
でも、確かに、いつもよりはハッキリとした、また捕まえることはできなかったけど、声がしたのだ。
それは、あたしに呼びかけていたように思う。
ほら、またした。
あたしは懲りもせず、無駄だと知りつつ、あたりを見回す。
どこだろう。どこからするんだろう。
しばし、自分の周りをきょろきょろしてたあたしだったけど、自分がどういう所にいたのか、思いだして、真っ赤になってしまった。
周りにいる人が、歩みを止めて、あたしを見ている。
「げっ」
原因究明は今度にして、今はここ離れなくちゃ。
あたしはそそくさと注目の中を歩きはじめた。
声が、する。
今度は、歩きながら、あたしは見上げた。
遠くなりつつある、灰色の校舎を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます