雨音の中で聞こえる声は

オリガミ

第1話

 不意に声が聞こえた。

 雨音と、人のざわめきが飛び交う教室の中。その中ではっきりとあたしの耳にその声は届いたのだ。

「……え?」

 あたしは授業中だというのに、大胆にもあたりを見回した。けれど、あたしと視線を合わせる者はなし。

 おかしいなぁ。首をひねりつつ、あたしは視線を黒板へ戻した。とたんに、また聞こえてくる、声。

 言葉は、わからない。何て言っているのか、聞き取る前に通り過ぎてしまう。ほんの一瞬の呟き、囁き、言葉。でも、あたしを呼んでいるのは、間違いない気がする。

 いったい誰だろう? 茅子かな。それとも、やはり気のせい?

 あたしは気を取り直して、振り返った。けれども、やはり誰も反応がない。

 その時になって、あたしはその声がものすごく変だということに気づいた。

 だって、今はこんなに雨の音がしている。地面や、建物にあたって、強い雨足の音は学校中鳴り響いているのだ。おまけに、先生は大きな声で話すし、みんなはお喋りしているはで、まともに言葉が聞こえてくるわけ、ない。普通は。

 ぎょっとして、あたしは耳をふさいだ。よく考えてみると、耳に聞こえたというよりは頭のなかに直接聞こえたような気がする。

 でも、気のせいよ。そうに決まってる。雨の音を、声と勘違いしたんだわ。だって、何を言っているのか、あたしには分からなかったもの。きちんと、聞き取れなかったもの。

 ザァァァァァ。

 というよりは、バシャバシャ、という音に近い、雨音。

 窓側の席のあたしは、ちょっと首をのばして校庭をのぞき見た。流石に誰もいない。正門の前の通りを、時折車が走っていくだけ。人も通りはしない。

「あたし、傘持ってきてないのよねぇ。どうしよう」

 そんな声が教室の中でした。この雨は、学校来るときは降ってなかった。朝はさんさんと太陽が照りかえっていて、とてもじゃないけど雨がふるだなんて、予想できるはずがなかったのよ。それが、昼休みを過ぎたころから天候があやしくなってきて、5時間目が終わる頃には、もうどしゃぶり。走ってかえることもできやしない。

 けれど、あたしは賢いから、ちゃんと傘は持ってるの。以前降られて、自腹を切って傘を買うはめになったことがあるから、それ以来置き傘をするようになったのだった。いよいよその傘を使う時がきたんだわ。

 わざわざ置き傘の為に買った、ちょうちょ模様の可愛らしい傘。ここのとこ、雨ふらなかったから、無駄だったかなともおもったけど、やっぱり置いておくものだ。天災は忘れた頃にやってきてしまったのだから。

 そんな風に思考が声から、傘に移った時、実にタイムリーに終了の鐘がなった。

 後はホームルームだけ。それさえ終われば、帰れるんだ。

 机の中の教科書やらノートやらを鞄に詰めていると、友人の茅子――橋本茅子が自分の机からあたしの方へ寄ってきた。

「止まなかったわ。うう。傘買わなきゃ帰れないよぉ」

 雨音の中でもはっきりあたしに聞こえるように少々でかい声で、茅子は嘆く。あたしが置き傘しているのを知っているから、入れて送っていって欲しいという願望が暗に込められているのがありありとわかる。けれどもそんなにあたしは甘くはないのだ。

 何しろ家は全く正反対のところにあるときてるし、前の時、こいつは裏切って同じ方向へ帰る知り合いに入れていってもらって、このあたしを置き去りにしたのだ。そのせいであたしはお小遣いをはたいて、ビニール傘とはいえ、一人で五百円を出すはめとなった。

 茅子がそれを忘れていても、あたしは忘れていない。

「買えば?」

 あたしは冷たく言った。

「学校の前にある、雑貨屋で五百円で売ってるわよ」

「真美って、冷たい……傘持ってるのに、友人が濡れてかえっても平気なのね?」

「うん、平気。それに傘買えば、濡れない」

「けち」

「けちよ。だってあたしは、あんたのお小遣いがあたしより多いこと知ってるもの。五百円の出費くらいどおってことないこともね」

 ぶつぶつぶつ。茅子はさんざん文句を言ったが、あたしが取り合わないのを見てとると、あきらめて傘を買うことにしたようだ。やさしいあたしは茅子が濡れないように、雑貨屋さんの前まで送ってあげることを約束した。



「本当、あんたって冷たい女よねぇ」

 色とりどりの傘を手にとり、物色しながら茅子はまだそんなことを呟いた。

「どっちがよ。あ、そのピンクの傘がいいんじゃない?」

 と言っても、それはビニール傘である。白と、ピンクと、青の三色しかないのだった。

「このあいだ、真美は何色にしたの?」

「……青」

「そんじゃ、白にしよっと」

「お前って、女は……」

 茅子は白い傘を掴むと、中年のおばちゃんが立っているレジへそれを持っていった。

 税込みで5百円。お金を出すとき、サイフから千円札が何枚か入っているのが目に見えた。まったく、金持ちめ。

 送ってあげる代わりに奢らせた方が得だったかしら?

「お待たせ。さ、これで堂々と帰れるわ。本当は真美が送ってくれるのが一番ベストだったんだけどね」

「人生そんなに甘くない」

 店先に出て、茅子は今買ったばかりの傘を広げた。あたしも、持っていたちょうちょ模様の傘をパンッと広げた。

 と、その時、またあの声があたしの耳の奥でしたのだった。

「ありゃ?」

 すっかり忘れかけていたあたしは、ぎょっとした。聞き取れない声。なのに、確かにするんだ。ささやくような、呼びかけるような、声。

 女なのか、男なのか、判別する前に消えてしまうけれど。

「どうした? 行っちゃうぞ」

「う、うん」

 あたしはハッとして踏みだした。あの声、茅子には聞こえなかったみたいだ。

 あたしにだけ? 思わず、ぞっ。

 得体が知れない。けど、幻聴のようにも思えない。だって、本当に聞こえたんだもの。

 茅子と別れると、あたしは早足で歩いた。スカートに水やら泥やらはねてしまってるけど、そんなの頓着してられない。雨がいけないんだ。だから、聞こえてしまうんだ。

 こんな時はさっさと家に帰った方がいい。うん。それがいい。

 いつも使っているバス停に来ると、あたしはほうっと息をついた。

 声はもう聞こえない。やっぱり気のせいだったのかもしれない。

 雨の音を、人の声と勘違いしてしまったのだろう。

 雨でびしょ濡れになっている、ベンチを見た。人はあたし以外誰もいない。

 そのせいだ。何だか、とても心細い。

 あたしはちょうちょ模様の傘を揺らした。雨よりも、もっと大きい粒が、あたしの周りに落ちては、跳ねる。バスはまだ来ない。遅れているのかもしれない。

 耳の奥の方で、雨音が響いている。

 また、あの声が聞こえそうで、怖いのに、その雨の音から気を散らすことができない。つい、雨音に耳を傾けてしまう。

 ああ、駄目。気にしちゃだめ。

 あたしは意図的に、その音から気をそらすために、無理やりこの間の雨の出来事を頭のなかに思い浮かべた。


 青い、青い、傘。あたしが買った、傘。

 あの日もあたしは今と同じように、ここに立って、バスを待っていた。もう一人の、男の子と一緒に。それは、あたしの全く知らない、他の学校の人だった。

 彼はあたしと違って傘を持っていなかった。持ってなくて、びしょ濡れになりながら、ベンチに座っていた。

 正直いって、あたしは物凄く、居心地悪かった。だって、彼は傘を持っていない。

 二人して、バスを待っているのに、ここには誰もいないのに。あたしは彼は入れてあげることが出来ない。

 だって、だって、そんなの恥ずかしい。相合い傘なんて、誰も知らない人と、どうして出来る?

 でもぬれちゃう。可哀相。あんなにびっしょりになって。

 あたしはそんな風に思って、大葛藤だった。

 自分だけが傘の下にいて、濡れてなくて、それなのに入れてあげない。放っておく。大悪人のようなような気がしてしまって、しかたなかった。

 入れるべきか、やめるべきか。悩んで、悩んで。どうしてあたしがこんなことで頭を悩まされなくっちゃならないの!? と思った時、バスが来て、あたしと彼は乗り込んだ。

 その時点であたしはこの問題はなくなった、と思ったのよ。だってバスがきて、乗ったんだもの。もういいと思ってた。

 そう、彼が隣で、

「ああ、バス降りたら、またずぶ濡れだ……」

 と小さい声でぼやかなければ!

 きっと彼の家は、バス停からも遠いのに違いない。あたしの家は、降りるとすぐそこにあるのに。そう思った時から、あたしの葛藤は、再び始まった。

 彼が、とんでもなくブ男だったら、そんなに悩みはしないで、捨て置いたことだろう。でも不幸なことに、ちらりと見た彼の顔は、はっきり言って、あたしの好みだったのだ。放っておくには、あまりに可哀相だった。けれども、バスの中には人がいる。全然知らない人に、突然傘を渡すなんて、いったいどう思うだろう? 彼も、他の人も。

 そう思うと、たった一言が、口に出ない。

 どうしよう? どうしよう?

 悩んでいる間も、バスはどんどん進んでいく。バス停については、人が乗ってきて、あたしと彼は自然、出入口付近まで追いやられてしまった。

 折り畳んだ傘からは、青い雫がぽとぽと流れて、床を濡らす。そこには、彼の靴やらズボンからしたたり落ちた水滴のみずたまりがあって、あたしの傘から流れた水滴とまぜあわさっていた。

 ポタポタポタ。ハンカチは持っていないのだろうか。髪の毛から遠慮なく雫

がおちていて、すでに濡れている肩に遠慮なくしみ込んでいく。

 時々前髪をかきあげて、そのたびに、水がはねて、あたしにかかる。でも不思議といやな気はしなかった。

「あ、ごめん」

 再びかきあげた時、ふとあたしに水滴がかかったのに気づいたらしい。濡れた髪の間から目があたしに向いて、すまなそうな声がした。

 あたしは首を振った。

 どうしようか? ハンカチも渡すべきかしら?

 あたしは悶々と悩んでしまった。

 そうこうしているうちに、あたしの家のそばのバス停から、三つほど前の停留所についた。その途端、彼があたしの横で動いた。

 ここで降りてしまうんだ……。そう思った時、手と口が動いていた。

「あの、これどうぞ」

 傘を差し出す。彼が唖然としたように、あたしを振り返った。

「でも……」

「バス降りたら、家すぐですから。遠慮しないで」

 ヤケとばかりに、ぐいぐい押しつける。

 ここではねのけられたら、よけい恥だ。ぜひとも受け取ってもらわなければ。

 彼は困惑の表情を浮かべた。けれども、ドアともう開いていて、降りなければならないので、覚悟を決めたように、傘を受け取った。

「あ、じゃあ……」

 あたしを気にしつつ、バスを降りる。

 青い傘を広げて、ドアが閉まる寸前、あたしの方を振り返って、言った。

「おれ、今度、ちゃんと返すよ。この傘っ」

 雨の音と、バスのエンジンの音が大きいため、ほとんど、叫んでいるような、声。

 多分、彼は次にあたしの名前をきこうとしたのだろう。けれども、無情にもバスのドアが勢いよく閉まってしまって、もう声は届かなかった。

 バスが動いていく。そのバスを、彼は見送った。

 あたしは、灰色に染まった辺りの中で、ひときわ鮮やかに見える、その傘の青を、見えなくなるまで、眺めていた。



 その時の事を思い出し、あたしは赤くなった。

 大胆なことをしたものだわ。我ながら。

 あの後、バスの中の視線を浴びて、あたしは死ぬほど恥ずかしい思いをしたのだ。とっさに出てしまった言葉とはいえ、いつものあたしには、絶対出来なかっただろう。

 魔がさした、というべきか。

 けっして、あの男の子と知り合いになりたいとか、そういう理由ではない。

 だって、あたしはあの人の名前も知らない。彼もきっと知らない。傘を返そうとしてもそれは無理な話だ。名前どころか、どこの学校でさえも、分からないのに。

 けれど、どうしても、言わないわけにはいかなかった。

 気がついたら、口が勝手に動いていた。

 買ったばかりの傘が、もったいないとか、損だったとかは、少しも感じなかった。

 このことを、茅子が知ったら、きっと怒るに違いない。自分の時、つまり今日は送ってもくれなかったのに、見知らぬ人には傘をあげるなんてって。

 あたしはくすくす笑った。その茅子も、今頃はビニール傘の内にいて、ぼやきながら帰路を歩いているのだろう。

 彼は、どうしているだろうか。また傘を忘れているのかしら?

 それとも、あたしのあげた傘を使用しているのかしら? そうだと嬉しい。

 傘立ての中で日の目をみないより、使われている方が、ずっと嬉しい。

 ピンクじゃなくて青だから、男の子でもつかえるはずだし。

 そう考えると、雨の中だというのに、あたしはたいそう幸せな気分だった。

「会えると、いいな」

 あたしは独りごちた。

 あの日は、たまたまバスを使っただけなのかもしれない。それとも、あたしとは単に乗り降りの時間帯が違うのかもしれない。

 でも、会えるといい。恥ずかしいけれど。

 誰もいないバス停に、一人立ちながら、あたしは笑う。そんなあたしの意識を元にもどしたのは、いよいよ強くなる雨足と、そのかめに生じる雨音だった

 今の今まで良かった気分が、一転して不安にとってかわる。

 嫌だな。早くバスこないかしら?

 いつもはとっくに来てもいい時間。雨のために遅れているのかもしれなかった。

 一刻も早く、帰りたいのに。

 そう思った時、頭の中で、また声がかすめた。

「……あ……」

 ぶるっと体を震わす。ただでさえ心細いのに。なのに。

 どうして聞こえてしまうんだろう。いやなのに。

 両手が塞がっていなければ、耳を押さえてしまいたかった。

 ザーザー。雨は強くなる一方だ。そして雨音も。意識の外に出そうとしても、聞こえてきてしまう。

 雨は傘にぶつかり、くぐもった、けれどひときわ大きな音をたてている。時折、横を走っていく車の音が聞こえるだけで、あとは雨音だけしか聞こえてこない。

 やっぱり、今日は、あたし、おかしいんだ。

 ため息をついた時、ようやく遅れて、バスが到着した。



 けれど、これだけでは、終わらなかった。

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