#十節 いつも走りだせば?
もうどこまで来ただろうか。かなり近づきはしたが、それでいてなお遠いエレベーターを見やり、アレク・ダンプは口から特大の溜息を漏らした。
奴から貰ったこの力とこのぬいぐるみ――一月近い時間を弄しても未だにその力を引き出せてはいないが――があれば、何も持たずに四層に逃げてもいくらでも生活できる。あんな腑抜けた金持ちどもから金を奪い取るなど、容易いことだ。
しかしそれまでの道のりが、果てしなく遠く感じる。体を動かしているわけではないのに、無性に疲れる。節々が痛むのは、働き過ぎた翌日の感覚に似ていた。これが、超能力の連続使用による弊害というものなのだろうか。だとすれば、そろそろ使用を控えるべきなのだろうか?
寝ていた分を差し引いても、もう丸半日以上は移動しているはずだ。睡眠といっても熟睡出来たわけではないので、昨日の疲れがまだ残っている。
しかし一度逃げてしまうと、逃げ切るまで不安で仕方がなくなってしまう。いつまでも後を追われているような、ある種脅迫的な感覚が、歩みを止めた瞬間に襲い掛かってくる。それが怖くて、ただひたすら逃げ続けるしかなかった。
激しい動悸に襲われる。もはや痛みすら感じるほどにバクバクと音を立てて収縮を繰り返す心臓。この痛みは錯覚なのか、あるいはあまりにも早く動く心臓がその動きに耐えられずに悲鳴を上げているのか、自分では判断もできなかった。
意識していなくても、勝手に目が見開いている。半開きになった口からは絶え絶えの呼気が漏れ、呼吸の規則正しさを奪い去っていく。立ち止まれば足が震えるし、超能力を使えば息が詰まるような苦しさを覚える。
もう限界か? いや、まだ逃げなければ。
そんな折、アレクの耳に、聞こえるはずのない声が飛び込んでくる。
「疲れてるようだな、兄ちゃん」
「誰だ!?」
不意にどこからか話しかけられ、アレクの心臓は飛び出さんばかりに鼓動を早めた。全力で逃げてきたというのに、こんなに早く追手が来たのだろうか。いいや、そんなことはありえない。周囲を見回し、誰かが見ているわけでもないということを確認する。
良かった。まだ誰も、ここには来ていない。
疲れが溜まりすぎて、遂に幻聴が聞こえるようになったのだろうか? 感覚器官が狂うのは、疲労の末期症状だと聞いたことがある。まだ追手に捕捉はされていないだろうし、もう少し睡眠をとるべきだろうか?
もう一度周囲を確認したが、やはり人影はない。一時間仮眠をとるだけでも、少しはマシになるだろう。まあ、一時間後に起きられる保証などどこにもないのだが――
「おいおい、俺はここにいるぞ」
まただ。
また聞こえた。
「誰だ!? おい!! 出てこい!!」
とても幻聴だとは思えない。誰かがどこかで喋っている。
アレクは必死で取り乱しながら、辺りを執拗に探しまわった。切り株の裏、茂みの中、落ち葉の下。およそ人が隠れられるとは思えないような草の根さえもかき分けて、声の主を探した。
しかしそこには、誰も居ない。
「だから俺はここだって。目の前に居るだろ?」
これで何度目なのだろうか?
「本当に、誰なんだ!! お前は!?」
目を見開き、息も絶え絶えに、アレクは振り向いた。
血走った目で見つめる先にあるのは、先程からの声の主。そこから確かに、声が聞こえる。
最初からわかっていたのではないか? ただ信じられなくて、否定したくて、必死で現実から逃げていたのではないか?
声の主は、最初から変わらずそこにいる。そう、最初からそこにいるのだ。
思えば逃げている最中も、それは語りかけてきていた。
「そろそろ俺のこと、嬢ちゃんのところに返してくれねえか? 自力で帰れねえこともないんだが、この体でそれは億劫でな」
先刻から何度もアレクに話しかけてきていた存在。その正体は――
※
まだ時間は残されていたが、三人は既にそこに居た。
アレクがここに来るまで、恐らくは二十時間前後。ジェーンの見立てでは、誤差はプラスマイナス三十分以内で済むはずだ。
とても都合のいいことに、近くには複数の宿泊施設があった。かつて多層からの観光客に向けられていたものなのか、エレベーターの利用者が減った今現在ではお世辞にも繁盛しているとは言い難い。しかし人が少ないのはかえって好都合であり、ここで一度現地調査をしたら、その内のいずれかで休憩するつもりだ。
このエレベーターを管理しているのは、四層の政府機関となっている。かつては四層からの観光客で賑わっていたのだろうが、地球の裏側に新しいエレベーターができて以降、わざわざこんな古いエレベーターを使う四層の人間は居なかった。
ジェーンは、エレベーター施設の前に開けた、これも恐らく観光客向けであろう広場を眺める。
するべきことは、この広場の調査だ。それに加えて、細かく目盛をつけておく。これがアレクを捕まえるにあたってとても重要なファクターとなることは、容易に想像できるだろう。
ジェーンの案は、この広場――ロータリーか何かだろう――をメインに実行されるのだ。
「この目盛って、どう使うんですか?」
木の棒でにチョークを巻きつけたもので目盛を刻みながら、クリスが問う。慣れない手つきで地面に線を引くその額には、疲れからか汗が滲んでいた。目的のわからない作業というのは、得てして苦しく感じるものだ。最終的に彼女のためになることとはいえ、少しだけ申し訳ない気分になる。
それにこの服。勝負服なのだろうか、アレクの家に突撃した時と同じ服だ。お気に入りのような気がするし、あまり汚れる作業はやらせないほうがいいだろう。
「パッと見て長さがわかるようにするためだよ」
作戦の全容はまだ言いたくないので、とりあえずどう使うのかだけ教えておく。目盛の使い道なんて限られているので、この程度なら言うまでもないのだろうが。
多分、クリスが知りたいのは、長さを知ってどうするのか、ということだろう。
しかしその真意を解説するためには、やはり作戦の全容を知らせる必要がある。クリスを疑っているわけでも、敵を欺くにはまず味方から……というわけでもないが、直接動くジェーンとカガミ以外の人間に言いふらしたい内容ではなかった。誰がどこで聞いているか、わからないし。
「そうですか……」
クリスはしつこく追求してくることもなく、作業に戻った。ジェーンが軽く誤魔化したことで、教えてもらえないことを悟ったのだろう。こういうところの察しが良いのは、非常に助かる。やはり助手に欲しい人材だ。
対するカガミは、ただ黙々と目盛を刻んでいた。警察の仕事には、立哨やら交通整理やらといった地味なものも多い。普段から地味で単純な労働に従事していると、自然と慣れてくるものなのだろうか。あるいは、ライト・スタッフ――適性かもしれないが。
そして肝心のジェーン本人は……腰を痛めかけていた。
拾って使っている棒の長さだと、腰をちょうど痛い具合に曲げないと上手く線が引けないのだ。他の棒を探そうとも思ったが、他にこれぐらい頑丈な棒はなかった。大抵が、使ってるうち真っ二つに折れてしまう。
腰は痛いだけなので、まだ普通に歩けるし、続けられる。まだ大丈夫なのだが……痛い。辛い。やめたい。でもここでやめたら、後の二人に示しが付かない。ジェーン一人ではとても成し遂げられることではないため、二人には頑張ってもらわないといけなかった。
しかし、このままではジェーンの腰が駄目になってしまう。ここで体を壊せば、計画の遂行も難しくなる。それはそれで、困るのだ。
(まあまだまだ時間あるし、ちょっとぐらい休憩してもいいよね……)
まだ二十時間ぐらいあるし、作業ペースも七割終了と順調そのものなので、少しぐらい休んだところでなんら問題はないだろう。無理をして体を壊すぐらいなら、適度に休憩をとってペースを維持したほうが、圧倒的に効率がいいのだ。現代において大抵の職場での常識である。
「このあたりでちょっと休憩にしようか」
そう二人に提案すると、二者二様の反応が返ってきた。
「そうですね、この辺で少し休みましょうか……」
先程から少々疲れたような色を見せていたクリスは、ジェーンの提案に乗ってくる。
しかしカガミは――
「え、これぐらいでへばってるの? もう少しで終わるしとっととやっちゃおうよ」
そういえば警察は体育会系の遺伝子を未だに色濃く引き継ぐ特殊な組織だったことを忘れていた。いわゆる体育会系というものは前世紀には教職以外絶滅したとされているが、新生警察組織は体育会系のルネッサンスとして、時代遅れな訓練やら礼式やらを続けているという。
まっことハタ迷惑な話である。体育会系とか死ねばいいのに。
そうやって個人的な恨みを漏らしてみたが、これはそれどころではない問題だ。
これでカガミとジェーンの立場が対等であれば、 「知らねえよ勝手にやってろボケ」 とでも言えば解決する。……実際にはそんな汚い言葉ではなく 「私達はちょっと辛いから休憩してるね」 ぐらいだろうか。どちらにせよ、カガミが続けたいというなら勝手にやっていろというスタンスが取れる。
が、今回は、ジェーンが頼んでいる側である。それも、金銭のやりとりがある関係や、条件付きの契約などではない。こちらが頭を下げて頼んでいる形だ。
このような関係で、そんなこと―― 「勝手にやってて」 などと言うのは……あまりにも不誠実すぎるだろう。
ここはプライドに傷がつくのをこらえて、こちらが限界であることをアピールしていく。
「普段あんまり動かないからさあ……」
できる限り腰を低く、頭を下げるように言う。へりくだって卑屈な笑みを作ってみせれば、大抵は許してくれるものだ。というか、こんな状況でここまでしてもまだ続けようなどと言い出すのは、頭にウジのコロニーができているような相手ぐらいしか居ない。居ないのだ。
「そう? じゃあ、ちょっと休憩にする?」
ここで渋るようならカガミの連絡先を電話帳から消そうと考えていたのだが、どうやらその必要は無さそうだった。
「あのへんのいい感じの木陰で休もうか」
荷物置き場として使っていた、都合のいい木陰とベンチ。そこで休むことにする。
と、クリスがリュックからタッパをいくつか取り出して言う。
「実はお弁当作ってきたんですよ」
お弁当……可憐で甘美な響きだ。きっとその中身も美しいのだろう。まあタッパが雰囲気を阻害している部分もあるが、それはそれで家庭的な印象を持てるのでいい。
中身は、オーソドックスなピクニック弁当だった。おにぎりをベースに、ウインナーソーセージや、出汁巻き玉子、鶏の唐揚げなどなど。チーズちくわもポイントが高い。出汁巻き玉子とゆで玉子で卵が被っているのはご愛嬌。
「いただきまーす」
いつものように手を合わせるジェーンに、楽しそうにクリスが言う。
「召し上がれ」
その光景を見てか、カガミは感心したような声を出した。
「行儀が良いね」
そう改めて言われたのは、二十八年生きてきて初めてのことだ。今まで一緒にご飯を食べてきた相手を思い出すと、確かに言う人と言わない人が半々だった気がする。例えば、バーミリオンは言わない派だったはずだ。
「まあ、意味はよく知らないけど」
あまり褒められ慣れているわけではないので、思わず謙遜じみたものを口にしてしまう。良いのか悪いのか、とにかくこれもジェーンの癖だ。
「私もだよ。まあ、言わなくなって久しいがね」
この辺りの習慣は、恐らく親の教育や家庭環境によるところが大きいのだろう。カガミやバーミリオンの親が行儀の悪い人間だったとは言わないが、こういった食前食後の挨拶をあまり重要視しなかった人間であることは想像に難くない。特に、バーミリオンの両親はそこそこ親しかったのでよくわかる。
が、カガミの場合は少々事情が違ったらしい。自嘲気味にため息を吐き、やれやれと吐き捨てんばかりに言った。
「こうして現場職をやっていると、どうにもゆっくりと食事を摂る機会に恵まれなくてね。いちいちお行儀よく挨拶なんてしてられないのさ」
探偵も現場職という観点では似たような部分があるので、なんとなく事情はわかった。恐らく警察は、お昼時といえど息をつく暇もないのだろう。その特殊性故に人手不足であり、一人あたりの負担が大きいというオールドなタイプの問題も抱えていると聞く。やはり体育会系は糞。
「ああ、なるほど……」
ジェーンが頷くと、カガミはわざとらしい半眼になって言う。
「私の親が言わないタイプだと思ったろ」
図星だったので、何も言い返せない。図星だったことをカミングアウトするのも癪なので、とりあえずだんまりを決め込んでおいた。まあ、これこそわかりやすいカミングアウトな気もするのだが。
「むしろウチの親はこういうのうるさいタイプでね。実家に帰るたび、毎回怒られてるよ」
イメージとは結構なギャップがあったが、しかし警察になるような子の家庭なら、それはむしろ普通なのかもしれない。今の警察は、善良とまでは言えなくても、昔に比べれば何倍も真面目な組織なのだ。
「へ~」
これ以上彼女の家庭環境に深入りする気はないので、適当な相槌だけ打つ。まあ飯の友兼世間話のネタとして扱っても良いのだが、他人の家庭環境を揶揄してどうこう言うのは、あまりお行儀のいい話ではないような気がした。それに、他人の不幸をふりかけにするのは、味はともかくあまり好きではない。白米に蜜は合わないのだ。
どうせおかずにするなら、クリスの手作り弁当がいい。
早速、出汁巻き玉子を一ついただく。
「うん、美味しい!」
手馴れているのだろうか。味付けは甘さをメインに、出汁のコクを程よく追加し、心地良い甘じょっぱさを醸し出している。一日二日で出せる味ではない。
欲を言えば……もう少し油っぽさがほしいところだった。
次は唐揚げ。これも美味しい。が、油が足りない気がする。
続くように、カガミも唐揚げを口にしていた。味わうように何度も咀嚼してから、名残惜しそうに飲み込む。
「美味しいねこれ! 油加減も最高だし、そこら辺の弁当なんかとは比べ物にならないよ」
彼女はそう言うが、ジェーンからすれば少しあっさりし過ぎな気もする。
「お二人共喜んでいただけたようでなによりです」
素直に喜ぶクリス。この穢れ無き笑顔に、笑顔に、油が足りないとは言い難い。
まあ仕方がない。少々油分が足りないが、それを補ってあまりあるほどに美味しいのは事実だ。
そう考え今度はウインナーソーセージに箸を伸ばして……気づいてしまった。
このお弁当が油控えめなのではない。
ジェーンの舌が油ギトギトのハッシュドポテトに慣れて、オイルジャンキーになってしまったのだ。付け合せがマヨネーズとケチャップというのも、それに拍車をかけているだろう。
気づきたくなどなかった事実に、ジェーンは戦慄した。おおっぴらにリアクションを取ることはしなかったものの、その心理的ショックは言葉にし難いものがある。こんな生活をしていても、美容に関心はある若い女だ。モデル体型に関しては素直に喜んでいた部分もあったが、その結果がオイルジャンキーなのでは救いがない。代償としては、あまりにも残酷すぎた。
クリスの手作り弁当を食べていなければ、恐らく気づかなかったのだろう。気づいてしまったのは、ある意味で悲劇――不幸な出来事とも言える。
まあ、知らなかったところで覆る事実かといえば、到底そういうわけにはいかないのだが。
「この出汁巻き玉子も美味しいなあ」
絶賛するカガミ。彼女は、心からこの料理を楽しんでいる。それを微笑みながら見つめるクリスと合わせて、とても画になる光景だ。正直、羨ましいとすら思った。嫉妬にも似た感情が、ジェーンを苛む。
この味覚さえ油汚れに塗れていなければ、ジェーンも素直に彼女の料理を楽しむことができるというのに。
封印していた心のくるみ割り人形が、実に十年ぶりに歯ぎしりを始めていた。まあ、今はもう大人なので決して態度には出さないが。
そんな鬱屈としたものを胸に抱えつつも、面白おかしい昼食は何事も無く終了した。
何事もなかったのだ。心ときめくイベントも、距離がぐっと縮まるハプニングも、心沸き立つパニックも。
(ただの昼食に何期待してるんだ……)
心中に、虚しいツッコミだけが木霊するのだった。
※
夢を見ていた。
それはとても懐かしい、綺麗な思い出にプレスされて久しい光景だ。
ああ、とても懐かしい。
彼にとっては家族に等しい少女と、同じ目的を持って生まれてきた
彼が生み出されて初めて抱いた感情は、恐怖と怯えだった。
最初から使命を帯びて生まれてきた彼は、生きる意味を最初から定められている。逆に言えば、それは、使命を果たせないのなら生きる価値が無いということ。
もしも少女に嫌われたら。受け入れてもらえなかったら。
自身の全てを否定されるかもしれない恐怖に苛まれ、彼は生まれたその日から少女に会うまでの日を、未来に怯えながら過ごしていた。
それはきっと、仲間達も同じだったろう。
そんな中でリーダー格と定められていた彼は、せめてリーダーとしての役目だけは果たそうと、心の底では怯えながらも、虚勢を張り続けた。もこもこの足が震えているのはバレバレなのに、意地で押し通した。
ここで折れてしまえば、自身の存在理由を否定してしまうことになるから。
やがて訪れた運命の日。自身の行く末を決めるその少女は、彼らを新たな友人としてあっさりと受け入れてみせた。
そこに打算や演技は存在せず、ただ純然と、少女は新たな友人との邂逅を喜んだ。
ああ、その笑顔は今でも忘れていない。
たとえ離れ離れになってしまっても、綺麗で素敵な思い出は――メモリーの奥底に深く々く刻み込んだこの大切な記憶は、この身になにが起きようと、絶対に忘れることがない。
ああ、そうだとも。
これぐらいの困難、いくらでも乗り越えてきた。
どれだけ絶大な力を以ってしても、それが運命だと定めようとも、決して引き裂くことはできない絶対の絆。
きっと、もうすぐ、また会えるから。
そうしたら、皆でまたパーティーをしよう。
思いっきり夜更かしして、朝まで騒ごう。
眠くなったら、暖かい布団に包まってお昼すぎまで寝ていよう。
たまにはそういう日があっても、いいだろう。
※
あっという間の一晩だった。
目盛を刻み終えてからもう一度現場を確認し、最終的な打ち合わせをカガミと交わしてから、とっとと宿を選んで寝た。途中三人とも空腹で目が覚めたが、少し離れたコンビニで夜食を見繕うだけにとどめておいた。そんな時間にガッツリ食事をするのは、翌日に響く。
早朝に目が覚めて、風呂に入りそこねたことを思い出して朝風呂に浸かる。本来であればとっとと上がってスタンバイしたいところだが、流行りの風邪にやられるのも癪なので、じっくりと温まってやった。どうせあと数時間はある。
その流れで、朝食までしっかりといただいた。
こういった旅館に泊まったのは久しぶりのことだったが、楽しむ余裕などなかった。
そう、これは仕事の一環なのだ。
だから今はこうして、広場に陣取っている。
アレクの到着予想時刻まで、あと一時間を切った。三十分以内の多少の誤差はあり得るが、監視カメラらしき情報も併せて彼の行動パターンは完璧に分析しているので、そこまで大きな誤差は出ないはずである。
この時点で、ジェーンは昔の感覚を取り戻しつつあった。浮気の疑いがある夫の帰宅経路に張り込んだあの日も、こんな感覚だった覚えがある。
あれは酷い事件だった。結局浮気なんか存在せず、夫は妻の誕生日プレゼントをこっそり見繕っているだけだったのだ。事の顛末を報告したら、まあいろいろ砂糖ジュースみたいな甘い夫婦漫才に巻き込まれ、最終的に夫婦の熱い抱擁を見せつけられ、 「あなたも早く結婚したら?」 なんて言われた。余計なお世話だバーカバーカ (幼児退行)
まあ純利益はそれまで受けた仕事の中で一番多かったのだが、逆にそれがプレイの出汁にされた気がして更にムカつく。
閑話休題。
ただ待っているだけというのは、慣れていなければ相当に苦痛な時間だ。似たような仕事も多いであろうカガミは問題ないようだが、安全なベンチで待機しているクリスは既にモニタデバイスをいじり始めていた。最初は暇つぶしかと思ったが、妙にソワソワしているので、緊張を和らげるための策なのかもしれない。大切なぬいぐるみを取り戻せるかどうかの瀬戸際で、かつ自分が何もできないとなれば、落ち着かないのも頷ける。普段はボブについてあまり取り乱したりはしないが、流石に間際まで迫れば緊張もするだろう。
今から考えると、もしかすると彼女はあまり涙を表に出さないタイプなのかもしれない。大切なぬいぐるみが盗まれて悲しいはずなのに、倉庫街の調査や昨日のお弁当といい、彼女は妙に張り切っているフシがある。
彼女が今までどんな人生を送ってきたのかは定かではないが、きっと気丈な子なのだろう。
しかしそれも、今日までだ。必ずボブを取り返し、彼女の元へ届けよう。
決意をあらたに、ジェーンはその時を待つ。
……。
…………。
四十三分二十八秒。
「――来る!」
時間だ。
層天井のモニターに表示された人工太陽が、順調に天頂に近づく頃、いよいよそれはやってきた。
目にも留まらぬ瞬間移動。一度視界に入れば、後はあっという間だった。
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