それでも確かにそこにある
#七節 調査の先には何が待つのか?
インヴァネスコートにディアストーカーは、シャーロック・ホームズの時代より受け継がれし由緒ある探偵の仕事着だ。仕事をするのなら、やはりこれでなければ始まらない。
危険は去ったので、クリスと合流。いい時間なので三人で昼食をとる。カガミは映像の回収と、他にも上に報告しないといけないことがあるらしく、一度署に戻った。一応連絡先は交換しておいたので、何かあったら連絡が来るだろう。まあ、口頭なので間違えているかもしれないが。
「じゃあクリス、メジャーの端を持って、そこに立ってて」
クリスを立たせたのは、アレクが最初に立っていた地点。
ジェーンが観測した彼の瞬間移動は、三回。廊下から奥の部屋に跳んだのと、奥の部屋から外に跳んだので二回。そこから更に一回以上跳んだはずなのだが、そちらについては着地点が不明なので保留とする。
今回測定するのは、始点と終点のはっきりしている二回のジャンプだ。まずは、跳躍距離を確認する。
「二メートル……十……五センチ」
追手を撒くには十分な距離だ。事前準備ができていなければ、警察でも撒かれてしまうだろう。
だがこの時は、ボブを抱えるためにこのポイントまで移動しただけにすぎない。ジェーンの推測だと、これは最大距離ではなく、ボブを回収するのに都合のいい距離だ。
ここから更に、二回目の瞬間移動で跳んだ距離を測定する。恐らくこちらが最大距離であり、一度目の瞬間移動よりも長い距離を跳んでいるはずだ。仮にこちらのほうが短いとすれば、何かそうでなければならない理由があると考えられる。例えば、壁を挟むと減衰するとか。
壁を挟んでいるため、測定もし難い。目算では三メートル少々といったところだが、高低差があるし、分厚い窓を挟んでいるため、これを鵜呑みにするのは危険だ。無論、それらを考慮した距離を出しているが、窓の厚さを測ったわけではないので正確性に欠ける。時間もあるし、正確な値を出しておきたい。
どうやって測るか少し迷ったが、最終的に壁から始点と終点までの距離を測って壁の厚さとともに加算する方法にした。そこまで深刻な数値ではなかったので、高低差は誤差にしておく。
「クリス、百五十七プラス十五プラス百四十二は?」
「えーっと……三百十四」
「正解」
三メートル十四センチ。大体目算と同じぐらいだ。瞬間移動をする上で壁の存在は問題にならないと思われるが、減衰してこの数値の可能性もあるので油断はできない。欲を言えばもう一回分のデータが欲しいところだが、難しいだろう。
いや……やってやれないことではないかもしれない。
そう、足跡だ。
二週間も経てば消えてしまうだろうが、今回はまだ半日も経っていない。その上幸運なことに先程からこの建物は避けられているので、足跡は残っているはずだ。
捜索範囲は、半径三メートル五十センチ以内。この範囲内にない場合、壁を超えると減衰するものとして、更に広い範囲を捜索し距離を測る。また、足跡のサンプルは二回目の跳躍の着地点から採取した。部屋の数カ所からも同じサンプルが採取できたので、これがアレクの足跡で間違いない。
「私が探すから、クリスは待ってて」
「はい」
こういった調査は素人……もといユーザーにやらせるわけにはいかない。本来であれば距離の測定も一人でやるべきだったのだが、専門知識が必要ない上に二人でやったほうが圧倒的に早いのでそちらは良しとする。
とは言え、足跡の捜索もそこまで難しいことではない。
幸いにも、付近一帯の地面は程よく湿った砂だ。ハイスクールの校庭を想像してもらえればわかりやすいと思う。
そんな恵まれた環境のおかげで、足跡はあっさりと見つかった。
風のせいか少しだけ崩れていたが、復元したら一致したので間違いない。
こういった地形だ。冷静なら足跡を消すか残さないように逃げていた可能性もあるが、アレクは取り乱していたのでそんな余裕がなかったのだろう。
さて、問題の距離を測る。
「三メートル……二十五センチ」
恐らくこれで確定だ。
冷静なら、緩急つけて最大距離を悟られないように移動するだろう。しかし足跡を消すような余裕もなかったアレクが、そんな器用な真似をするとは思えない。恐らく、最大距離で何度も跳躍したのだろう。
少し長めに見積もって、最大射程は三メートル五十センチ。あって四メートル以下だ。あるいは連続使用でなければもっと伸びる可能性もあるが、それは確かめようがない。
次は跳躍スパンの割り出しだ。ここに制限があるかは不明だが、最低でも、思考から超能力発動までに必要とされているコンマゼロゼロ七秒はかかるだろう。これは脳拡張プロセッサーの仕様であり、現状これ以上の速度で能力を発動する術はない。
一度目の瞬間移動から二度目の瞬間移動までに、どれぐらいの時間がかかっていたか。これはうろ覚えで自信がないのだが、五秒も経っていなかった気がする。
また、そこから更に三度目の瞬間移動までは、三秒ぐらいだったはずだ。カガミと二言三言、そこそこ早口で話している内に消えていたので、恐らくそれぐらい。
以上のことから、跳躍スパンはコンマゼロゼロ七秒以上、三秒以下。開きが大きいが、気軽に連発できるスパンなのは間違いない。とりあえず予測はここで打ち止めにして、細かいことは後でカガミから映像を貰って検証することにしよう。
三秒以下で、三メートル以上の移動。今から追いかけてこれに追いつけるかというと、不可能としか言えない。ここは焦らず、地道に相手の行動を予測していこう。いつか辿り着けるはずだ。
まずは、この倉庫街での足跡を追う。一度に跳べる距離の予測と、おおまかな方角の検討はついているので、探すのは容易だった。
方角の検討がついていた理由は、アレクが最大距離で何度も跳んでいたところにある。
彼は、小手先の策を弄する余裕もない状態で逃亡した。本当に焦っていたのだろう。焦っている人間が逃げる時は、どんな動きをするだろうか?
答えは簡単。とにかく相手から少しでも離れられる場所まで走るのだ。
そしてアレクは、瞬間移動ができる。複雑な軌道を用いて相手を撒くより、一目散にまっすぐ逃げた方がより遠くへ素早く逃げられる。
つまり彼は、三度目の瞬間移動で跳躍した方向にひたすら逃げた可能性が、一番高いのだ。
進路は北西だった。
北西にあるのは、閑静な住宅街。そんなところで全力で瞬間移動を使えば少しは目立つだろうが、しかし障害物とまでは言えない。倉庫街に外壁はないし、そもそもアレクは外壁を楽に突破できるので、途中で行き詰まって方向を変える可能性は低いだろう。
ジェーンの予測通り、アレクはまっすぐ北西に逃げていた。
「ほんとだ……足跡がまっすぐ続いてる……」
「でしょ? ま、これぐらい探偵ならね」
感心するクリスに、ジェーンは得意気に返す。
そう。探偵なら……いや、多少頭が回れば探偵でなくともこれぐらいはできる。例え超能力で滅茶苦茶になった世界にだって、滅茶苦茶なりに法則が存在するのだ。火のないところに煙が立つのはそこで誰かが超能力を使ったからだし、煙が立った事実から能力の詳細もある程度絞り込める。
それをちゃんと理解していれば、これからも探偵は続けられるのだ。
「あ……家がありますね」
足跡を追っていると、真正面に障害物が現れた。小ぶりな倉庫を改造して作られた一軒家だ。
「見た感じ、人は住んでるみたいだね……訪ねる前に、外周探索はしておこうか」
まずは外周探索。これは危機回避の基本である。まあ、カガミはやっていなかったが。
それに外周探索は、何も危機回避のためだけにやるものではない。外にだって、何かしらの手がかりがあるかもしれないからだ。いや、もし建物の中に手がかりが残っているような場合、建物の外にも何かしらの手がかりがほぼ確実に残っている。これはジェーンの経験から導き出された法則だ。
今回もその御多分に漏れず、重要な手がかりが残されていた。
「あれ、この足跡は……」
地面を見ていたクリスが、足跡を見つけたらしい。続いてジェーンも確認すると、それは間違いなくアレクのものだった。
「ふぅん。家の中は避けて、外を通ったんだ」
壁を避けられるなら、家の中を突っ切ってもいいはずだ。住民との接触で起こりうるいらぬ騒動を避けたのか、能力を持っていなかった頃の癖で咄嗟に障害物を避けたのか、あるいは……。
調べたところこの先も足跡が続いているので、どちらにせよこの一軒家を訪ねる必要は無さそうだ。
その先も捜索。基本的に直進で、建物が見えたら避ける……といったスタイルらしい。そのせいで軌道が若干ぶれているが、ほぼ真っすぐ進んでいると考えていいだろう。倉庫街の外はアスファルトで舗装されているため、ここから先の足跡を調べるのは難しい。今後については、今回の調査でわかった傾向をもとに推測していくことにする。
逃走経路について、おおよその目星はついた。こちらはひとまずこれぐらいにして、一旦彼の家に戻る。
「戻ってどうするんですか?」
道すがら、クリスが疑問符を浮かべた。そういえば、理由を話していなかった。
「なんであんなのがボブを狙ったのか、気にならない?」
ジェーンが問い返すと、クリスは頷く。
「それは、まあ……」
だが、質問の意図をイマイチ理解していないようだった。一から十まで説明しても多分鬱陶しいと思うので、手短に話す。
「家を調べれば、多少は手がかりも出てくるだろうと思ってね」
普通の逃亡なら最低限重要な証拠は消すか持ち出すかするだろう。しかし今回は、急な来訪者に慌てて逃げ出したのだ。消し忘れた重要な証拠や、動機に辿り着く手がかりなんかが見つかるかもしれない。
まあ、動機なんてものはとっ捕まえてフードプロセッサーでも使いながらゆっくり訊ねれば簡単に全部わかるのだが、それでは順番が最後になってしまう。ここで動機を明確にしておけば、今後の逃亡先についても絞り込めるかもしれない。
最初に比べていろいろわかったのは間違いないが、まだまだ真実は闇の中。今は少しでも有益な情報を集めることが最優先だ。
……気がかりがあるとすれば、警察より先に家宅捜索まがいのことをしても良いのかというぐらいか。まあここまで辿り着いた経緯を考えれば、これぐらいどうってことないだろう。積極的に業を背負っていくスタイル。
「なるほど……」
納し首を小さく縦に振って頷くクリス。物分りが良くて助かる。
彼女は社交的で頭がいい。それだけではなく、先程の足跡のように、細かいことによく気づく。知識や経験が不足していることは否めないが、彼女は素人なのだ。場数さえ踏めば、立派な探偵にだってなれるだろう。
こんな助手が居れば、今後の調査も捗るかもしれない。
なんとなくそんなことを考えるぐらいには、クリスのことを気に入っていた。
「よし、着いた。警察はまだみたいだね」
アレクの家の周りに、ジェーン達二人以外の人影はない。強盗事件の犯人な上に脱獄犯となれば優先順位は相当高いと思われるのだが。もしかすると、カガミの報告がまだ終わっていないのかもしれない。
なんにせよ、ゆとりを持って捜索できるのはいいことだ。焦っていると、ついつい大切なことを見落としてしまう。そう、今まで探偵を続けられる可能性に気づかなかったように。
「どこから探しますか?」
部屋を見渡し、クリスが首を傾げる。お世辞にも綺麗とは言えない部屋は、しかし物が少ないからかそこまで散らかっているような印象は受けない。棚なんかの収納用具が少ないため、片っ端から探してもそう大した時間はかからないだろう。
こういった場合は情報量の多い日記やメモ帳なんかを探すのがセオリーなのだが、今回は違った。
「まずはこれ」
堂々と鎮座しているパソコン。今回の調査で重要な手がかりにもなったこれが、またしてもターゲットとなる。
言うまでもないが、個人所有のパーソナルコンピューターは個人情報の塊だ。住所や名簿などが入っていなくても、設定や保存してあるファイルなどから正確や人となり、あるいは普段の生活などを覗き見ることができる。パソコンで日記をつけている場合もあるので、自由に使える状態ならパソコンは最初に狙っておきたいところだ。
それは捜査される側もわかっているのか、有事の際に真っ先に持ちだされたり壊されたりするのもこのパソコンである。今回も、まさか綺麗な状態で手に入るとは思わなかった。カガミの突貫は、実は冴えたやり方だったのかもしれない。
ただし、パソコンにも問題はある。
電源ボタンを押すと、プツッと画面に光が宿ると共に、このOS独特の起動音を奏でる。今時中古屋でしか見かけないような古い型だ。起動に十秒もかかってしまった。ここ数年のモデルは一瞬でつくというのに。
そして、パソコンを調べるにあたって最大の問題、ユーザーの選択画面が表示される。ここでパスワードを求められるので、それの調査に時間を取られてしまうのだ。セキュリティ意識が低いと、パソコンに付箋で貼ってあったりするのだが、そのようなものは机の近くにすら見受けられなかった。
ため息を吐きつつ、ユーザーを選択。 『Alex01』 ……とてもシンプルでわかりやすいユーザーネームだ。クリックすると、パスワードを求められた。実はパスワードが設定されていなかったらという一縷の望みを抱いていたのだが、無駄だったようだ。というか、最近のパソコンってパス無しで使えるんだっけ……。
「仕方ない、調べるか……」
この作業は毎度毎度時間がかかってしまうので、あまり気は進まない。しかしパソコンが開ければそのかけた時間以上に有益な情報が手に入ることが多いので、なんとしても突破したいところだ。
しかし、ただ調べるだけでは面白くない。ここはささやかな余興と洒落込もう。
「さて、ここで問題です」
小声で 「ででん」 と付け足しつつ、ジェーンは人差し指を立て、クリスに向き直る。
「パソコンのパスワードで一番多いパターンはなんでしょう? 二十点」
「えっと……誕生日?」
誕生日というのは、パソコンに限らずパスワードによく使われる数列だ。特に桁数指定のパスワードでよく使われるのが四桁と八桁なのだが、誕生日はゼロも使えば必ず四桁になるし、西暦をつければ八桁になるので、とても使い勝手がいい。
無論、第三者による乗っ取りの被害が後を絶たないために 『使ってはいけないパスワード』 としてもよく挙げられるのだが、それでも誕生日をパスワードに使う人が絶えないのが現実だ。ジェーンの分析だと、五人に一人が何かしらのパスワードに誕生日を使っている。
というわけで、パソコンのパスワードも誕生日が一番多く使われる……わけではない。
「惜しい。一番多いのは、名前と誕生日でした」
「え? ……ああ、そっか。へえ……」
クリスも察したらしい。
というのも、パソコンの、特にアカウントロック用のパスワードというのは、数字とアルファベットを両方使わないと設定できないようになっている場合が多い。というか、ジェーンの知っているパソコンは全部そうだ。
なので、最初に試すのは 『Alex○○○○』 である。
そして問題の誕生日だが、近くの引き出しに保険証が入っているのを見つけたので、それを拝借させてもらう。
――『Alex0721』
ハズレ。
――『0721Alex』
ハズレ。
「……まあこんなパスワードを使うのは、年中頭の中がビキニ・パーティーで盛り上がってるような連中ぐらいだし」
誤魔化すような無表情でジェーンが漏らすと、クリスは眉をひそめて言う。
「酷いです」
「悪いことは言わないから、今すぐ変えようね」
じゃないと悪いバーミリオンにハッキングされちゃうぞ。
他にも苗字やフルネーム、西暦付きやらいろいろ試してみたが、どれも違った。ジェーンが様々な組み合わせを入力する度にクリスが小声で 「なるほど」 などと呟いていたが、彼女はまず名前と誕生日の組み合わせから脱却しないといけないので論外である。
とにかく、名前と誕生日の可能性は無いと考えていいだろう。
では、ここで一度基本に立ち返る。
「次の問題。パスワードはおおよそ二つのパターンにわけられますが、それはなんでしょう? 二十五点」
「えっと……えっと……自分の名前と誕生日と、家族の名前と誕生日……?」
そうかそうか、クリスはそんなパスワードを使っているのか……。
「違う。もう一度チャンスをあげる。十点」
「えっと……IDと同じかそうでないか……?」
「惜しい。五点だけあげよう」
確かに惜しい……が、そんな発想が出てくるということは、クリスはIDと同じパスワードをどこかで使ったことがあるのだろう。昨今におけるセキュリティ意識の低下は、もっと深刻に扱うべきだと思う。
因みに、このパソコンに入っているOS……なんとか22とか言う奴は、IDと同じパスワードを受け付けないように設定されている。その上パスワードは最低でも八桁以上を要求されるなど、なかなか制限が多い。今でも無頓着なサイトなんかは数字四桁で通るのに。
「正解は、覚えにくいか覚えやすいかの二つです」
「そんな大雑把な……」
「IDと同じかどうかも大概だと思うよ」
覚えにくいか覚えやすいか、これは意外と重要なものである。
覚えにくいもの……例えばランダムな数字やアルファベットの羅列など。これはブルートフォース・アタックでも仕掛けられない限りは特定される可能性が低く、仮に仕掛けられても桁数が増えれば増えるほど所要時間が跳ね上がり、また、試行回数があまりに多い場合は入力を受け付けなくなるシステムなども存在するため、IT界隈では最も推奨されているパスワードだ。しかし欠点として、設定した本人が覚えていられない、というのがある。特にアカウントごとに違うパスワードを使っている場合なんかはまず覚えきれない。したがって、こういったパスワードを使う場合はどこかにメモを残しておくのが一般的だ。
逆に覚えやすいものというのは、語呂合わせや英単語など、何かしらの意味を持った文字列のことだ。名前と誕生日の組み合わせもここに分類される。こちらは――単語のチョイスにもよるが――ディクショナリー・アタックなどで比較的簡単に突破されやすい。単語によっては、手作業で探し当てられるものもある。しかし覚えやすいので、多くの人が使っているのが現状だ。
要するに、覚えにくいパスワードは特定が難しく、覚えやすいパスワードは特定が容易と言える。
だが、ユーザーの家の中に居る場合。それは逆転する。
前述のように、覚えにくいパスワードを用いる場合は、忘れた時のためにどこかにメモを残しておくことが多い。
それは忘れた際にすぐ見られる場所にあることが多く、机にメモが置いてあったり、モニターに貼り付けられていたり、すぐ手に取れる位置のノートに書き込まれていたりする。
故に、そういった代物を探すことのできる場所に居る場合に限って、覚えにくいパスワードのほうが特定しやすいのだ。
――まあ、覚えやすいパスワードでも、メモを残す場合があるにはあるのだが。特に家族共用パソコンなんかだと、モニターに付箋で貼り付けてあったりする場合が多い。
アレクの場合は、そのどちらに分類されるのだろうか。
覚えにくいパスワードを使うのは、セキュリティ意識の高い人間か、あるいはどうしても見られたくないデータが入っている場合などだ。
脱獄犯であるアレクにとって、パソコンの中に入っているデータとはどういうものなのだろうか?
彼のパソコンは、狙っていたぬいぐるみが載っている記事に何度もアクセスした履歴の残っているパソコンだ。恐らくは、他にもやましい情報が残っているだろう。
最近の警察は、個人のパソコン内のデータをチェックすることがまれにあるらしい。方法は知らないが、それで逮捕者も出ているようだ。
ならばアレクにとって、パソコンの中身はどうしても見られたくないもののはずだ。
従って、覚えにくいパスワードを使っている可能性が高いだろう。
……ならばなぜ単純な――名前と誕生日の組み合わせを試してみたのかというと、そもそもセキュリティに関して無頓着な可能性があったからだ。どんなに知られたくないデータにも、セキュリティに関心のない人間は簡単な鍵をかける。関心があれば難しい鍵をかけるので、知られたくないデータにかかっているパスワードというのは、極めて簡単なものか極めて特定の難しいものかに二極化するのだ。
「きっとどこかにメモが残されてる。手分けして探そう。三十点」
とは言うものの、物が少ないこの部屋なら、さしたる時間はかからないだろう。
「……もしかして、これですかね」
「どれどれ?」
クリスが見つけたのは、メモ帳の表紙裏に書かれている謎の文字列だった。
"N23W1W15S5E"
「これどこで見つけたの?」
「パソコンの裏に放り投げられてました」
「なるほどね……」
置いてあった場所も含めて、これはとてもそれっぽい。早速入力してみる。
――『N2W1W15S5E』
ハズレ。
どうやらこれは、パスワードでは無いようだ。
「あれ、違いましたか……」
「うーん、残念」
しかし、本当に違うのだろうか?
よく見れば、表紙裏には "pass" とも書かれている。これは恐らくパスワードを意味するものだ。この文字列が何かしらのパスワードであることは、間違いない。
いつもなら、恐らく何かのサイトのパスワードで、パソコンのアカウントとは無関係の代物と結論付けるところだろう。
「……そうか」
しかし、今日のジェーンは冴えていた。
「これ、暗号だ」
「暗号……ですか?」
「うん、暗号。ここまでする人はあんまり居ないけどね」
万が一パスワードを記したメモを見られた時の対策に、メモ書きの暗号化というものがある。これを実行するような人間は少ないが、極めて有効な方法だ。
暗号化は情報の拡散防止に有効な手段だが、しかし一つだけ弱点がある。
それは、大概が意味不明な文字列になるので、それが暗号であることが筒抜けだということだ。素人が作ることのできる暗号は限られているので、仮に解読側が素人でも、それなりの情報を仕入れた上で気合を入れて調べれば、案外簡単に解けたりする。
しかしランダムなパスワードはそれ自体が意味を持った文字列として成立していないので、暗号化して意味不明な文字列になったところで、それを暗号だと考える人間は少ないのだ。
問題は、暗号を解く方法を忘れてしまえばメモを残した意味が無いということぐらいだろうか。だが、暗号だとさえバレなければ、暗号化の手段が簡単でも相手が答えに辿り着くことはない。復号化のキーは最低だと一桁の数字で済むので、末尾に記しておくこともできる。
しかし、今回の復号化の鍵は意外なところにあった。
メモ帳の次のページ、何か透けて見えている。めくってみると、 『2h+ N→E』 と記されていた。
これは明らかに復号キーだ。やはりあの文字列は、暗号化されたパスワードだったのだ。
危うく、アレクの目論見通りになるところだった。
脱獄犯が悠長に何かしらのサイトでアカウントを作っているわけがないと思い至らなければ、ジェーンも騙されていただろう。
それにしても……メモを暗号化するほど知られたくない情報というのは、とてつもなく重要なものなのではないだろうか。これを解読するだけでそれに辿り着けるのは、とても効率がいいように思える。
「じゃあ……早速解読していこうか」
「はーい」
ジェーンは近くにあったペンを手に取り、暗号に挑むのだった。
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